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カザンスクを発って二ヶ月あまり。モルウルス自治区をシャイア帝国の国境へ向けて南下する二人は直線距離で200キロほどの距離を移動していた。平均すれば一日に数キロしか進んでいないことになるが、宮廷暮らしであったフェルリーヤが草原での生活と馬での移動に慣れることへ重点を置いて、短期の滞在と数日かけての移動を繰り返した結果としての緩やかな旅程だった。
とはいえ、ウルリッカにとってはさして辛くもない旅でも、フェルリーヤには過酷な旅だっただろう。しかし彼女はウルリッカに言われるままの受け身な態度は決して見せず、初めて目にするものには強い好奇心を示し、ウルリッカの振る舞いや言動が理解できなければ後から必ずどういう意味だったのかを質問してきた。早く一人前にならなければという焦りにも似た言動を、ウルリッカはあえて指摘しなかった。彼女には、そうしなければならない立場があるからだ。
陽が沈む前に野営に適した場所を見つけ、馬の手入れをする。フェルリーヤが馬を怖がることはなく、誇り高いモルウルス種の馬もこの二ヶ月の旅を経て彼女を慕い、信頼するようになっていた。貴重な水を革袋から布に含ませて身体を拭いてやり、ナイフで削った岩塩を舐めさせてやる様子も板についてきた。
「フェル。語学の勉強を始める前に、貴方に告げておくことがあります」
「……水と食料のことですね?」
「そうです。本来はここを冬営地とする遊牧民たちに分けてもらう予定でした」
焚き火が照らす狭い範囲にも、引き払った住居の跡がいくつか見て取れる。かなり急いでいたらしく、持ち運ぶのに適さない資材や道具が打ち捨てられ、家畜を囲う柵が半ば壊れたまま放置され、その近くに食い荒らされた羊の死体がいくつも転がっているのも目にした。本来なら冬に備えて腰を落ち着けるべき晩秋になっての大移動とは尋常ではなく、明らかに獣の牙にかかって殺されたと思しい羊の死体も相まって、周囲には不穏な気配が漂っていた。
「冬営地は風雪を避けられる山すそで、牧草が豊富な場所が選ばれます。夏の間は意図的に立ち寄らず、牧草を生い茂らせておく必要があるため、そう簡単に代替地が見つかるようなものでもありません。ここを冬営地にしていた一族は、やむにやまれぬ事情があってこの地を離れたと考えるべきです」
「つまり、ここには危険があるのですね?」
「はい、その可能性があります。今夜は火を絶やさず、私が見張りをします。フェルは食事を終えたら早めに休んで、明日からに備えてください」
「ウルリッカは?」
「私は大丈夫です」
「だけど」
「推測を述べてもよろしいですか?」
言い募ろうとするフェルリーヤを制し、彼女がうなずくのを待って続ける。
「食料が想定以上に早くなくなったのは、ここ一週間ほど狩りが上手くいかなかったのも一因です。この周辺には、キツネや野ウサギがほとんどいない。そして、先ほど見かけた羊の死体。あれは人の手によるものではありません」
「人ではない……?」
首をかしげるフェルリーヤ。それに呼応するように、夜闇を切り裂く遠吠えが響き渡った。最初の遠吠えを皮切りに、月下の咆哮は次第に数を増やし、それと共に距離を縮めてくるように感じられた。ウルリッカは怯える馬をなだめつつ、右手に拳銃を、左手でサーベルの柄を握って周囲を警戒する。
「フェル、貴方はそこを動かないように。手頃な薪を手に取って、狼が寄ってきたら火で威嚇してください。できますね?」
「……わかりました」
あるだけの薪を足して炎を大きくしながら、舌打ちしたくなるのをこらえる。遠吠えから判断して、狼の群れはかなり数が多い。対するこちらはウルリッカしか戦える者がいない。馬を繋いだ杭から解き放って囮にしようかと考えたが、水と食料にも事欠く状態で移動手段を失うのは死に等しい。
草原の暗黒に瞬く二対の星。それは瞬く間に数を増やし、二人を包囲するように一定の距離を保って回遊する。夜闇に紛れ、瞳だけを爛々と輝かせる群狼の数は三十を下らないだろう。通常、雄雌のペアとその子供で群れを構成する狼の群れが十を超えることはまれである。それはつまり、この群狼が異質な存在であることを意味する。遊牧民はおそらく、この群狼から逃れるために移動したのだ。
唸りを上げて包囲を詰める狼の眉間に狙いをつける。乾いた空気に発砲音が響き、若い狼が弱々しい鳴き声を上げてうずくまる。しかし、その鳴き声と血の気配に興奮した他の狼はますます唸り声を大きくし、包囲を詰めてくる。ブルームハンドルの装弾数は十発、全弾命中させても群狼を全て屠るには足りない。フェルリーヤを守りながら、残り全ての狼とサーベルでやりあうのは現実的ではなかった。
「ウルリッカ……」
「心配ありません、フェル。自分の身を守ることにだけ集中してください」
「……うん」
父と過ごした遠い日々、今日のように群狼に囲まれた夜を思い出す。父の背中は大きく、落ち着き払って狼に対処する姿は頼もしかった。あのときの父がどんな想いを抱いていたのか、少しだけわかるような気がした。守るべき相手がいる重圧、そして一人ではないという心強さ。父が浮かべた笑みを、幼いウルリッカは余裕の表れと解釈した。その笑みが秘めた本当の意味を、ようやくわかった気がした。
銃口を狼の眉間に滑らせ、引き金にかかった指に力をこめる。一発、二発。三発目は外れて、次弾で四頭目の動きを止める。狙いをつけられたのはここまでだった。倒れる仲間に怯みそうになる前列の狼を一喝するような、冷厳たる咆哮が草原に響き渡る。この咆哮の持ち主が群狼のボスなのだと直感した。
「フェル!」
振り返れば、一頭が正面からフェルリーヤを威嚇し、もう一頭が背後から襲いかかろうとしていた。飛びかかったところをサーベルで切り払い、地に足をつける前に銃弾を叩きこむ。地に伏して動きを止めたので、補強した乗馬靴で頭蓋骨を踏み砕いた。もう一頭はフェルの肩越しに突き出した拳銃を二連射して仕留める。
背後で低い唸り声。とっさに振り向いて突き出したサーベルをかいくぐり、足首に噛みつかれる。乗馬靴を貫いた牙が肌に食いこむ感触がわかったが、不思議と痛くはなかった。柔らかい腹部を掬いあげるようにサーベルを突き刺し、内臓をかき混ぜ、それでも離れないので頭部に二連射。危うく自分の足を撃ち抜くところだった、と後から気付く。戦闘の高揚で、いつの間にか冷静さを失いつつあるのを自覚する。蹴りを入れて引きはがし、次の狼に銃口を向ける。
地を這うように駆ける一頭の鼻先を撃とうとして、弾切れに気付いた。再装填の猶予はない。狼の口に靴のつま先を叩きこみ、ブルームハンドルはホルスターに戻してサーベルを利き手に持ち替える。仕留めるか、瀕死に追いこんだ狼はまだ十頭にも満たない。腹を空かせた群狼は共喰いすら始めていた。おぞましい様相と、濃厚に漂う血と獣の匂いに顔をしかめる。
「……フェル、質問があります」
背中にかばう彼女に言葉を投げる。
「なんですか?」
続けるべき言葉は、旅の始まりからずっと心に抱いてきた質問だった。問えば、そして答えられてしまえば、ウルリッカは知ってしまう。それは、自身の運命を決定づけてしまうだろうという確信が彼女にはあった。
「フェル。魔法で狼を追い払えますか?」
「できるわ」
答えはすぐに返ってきた。同時に、大気がフェルリーヤに向かって凝集するような不思議な感覚に包まれる。焚き火のすぐそばだと言うのに空気が冷え、反対にフェルリーヤの身体が熱を持ったような体温の上昇が背中に伝わってきた。スミレ色の瞳は狼に勝るとも劣らぬ魔的な輝きを帯び、狼が怯えるような素振りを見せる。
直後、矢と銃弾が側方から降り注いだ。続いて湾刀を振りかざした騎馬が突撃をかけ、狼を蹴散らしていく。数は二騎。どこから来たのかはわからないが、ありがたい援軍だった。馬首を返して再び突撃してくる騎馬の姿に潮時と見たのか、ボスのひと吠えで群狼たちも散り散りになって退いていく。
「くそっ、逃げられた!」
「おい、二人とも無事か? もう大丈夫だ、助けが遅れてすまなかった」
「グンナ! 俺は罠を見てくる。この分だとダメそうだがな」
「頼んだぞ、ユフミル」
湾刀をベルトに差し、馬にまたがった遊牧民族の男たち。悔しそうに歯噛みして駆け去っていく一人は弓矢を、ウルリッカたちを気遣って下馬したもう一人は拳銃を手にしている。グンナとユフミル。名前と格好から、遊牧民族だと知れる。
「フェル、無事ですか?」
声をかけられたフェルは極度の精神集中が途切れたためか、呆けたような表情でウルリッカを見上げ、それからゆっくりとうなずいた。
「俺たちは仕掛けた罠を見張ってたんだが、そこにあんたらが入ってきちまったってわけだ。やつらは鼻もよければ勘もいい。気取られないよう遠くから見てたから、助けに入るのが遅くなっちまった。本当にすまなかったな」
拳銃の男は申し訳なさそうに頭をかいている。
「罠? では、ここを引き払ったのは……」
ウルリッカの言葉を、拳銃の男が引き取る。
「そうだ。あの狼どものボス……ハルハーンのせいだ」
「ハルハーン……君たちの言葉で『白き王』か」
「俺は満月の下でやつに睨まれたことがある。身震いするほど恐ろしく美しい狼だった。あれに襲われて生きてるなんて、あんたたち運がいいよ。なあ、参考までにどうやってやつを追い払ったか聞かせてくれないか?」
「いや……襲ってきたのは若い狼が中心で、白い狼は見ていない」
「そうなのか? ハルハーンは常に群れの先頭に立って狩りをするんだが……」
「なにかを警戒していたのかも知れないな」
「ふむ……?」
そこに弓矢の男が戻ってきて、舌打ちする。
「ちくしょう、毒入りの肉には全く手を付けてないぞ。ハルハーンはともかく、他のやつもだ。毒を嗅ぎ取ったのか、こいつらの方が旨そうと見たのか……」
弓矢の男が、ウルリッカとフェルリーヤに厳しい視線を投げる。
「やめろ。この人たちに罪はない。むしろ俺たちが不甲斐ないせいで迷惑をかけてるんだ。八つ当たりする暇があったら次の罠を考えるんだな」
叱責された若い男が軽く肩をすくめる。
「わかってるさ。ちょっと言ってみただけだよ」
会話と立ち居振る舞いから察するに、二人は腕の立つ狩人らしい。遊牧民族の一族を代表して群狼の長であるハルハーンを狩るための罠を仕掛けたが、ウルリッカとフェルリーヤが罠の中に迷いこんだことで失敗した、という経緯のようだ。
「ともかく、助けてくれてありがとう。ついでと言ってはなんだが、君たちの一族がどこへ避難したのか教えてもらえないだろうか。こんな状況で気が引けるのだが、水と食料がもうない。手近な街に戻るのに足りるだけを分けて欲しいんだ」
ウルリッカの言葉に、拳銃の男が同情するような笑みを見せる。
「いや、こいつは俺たち一族の事情だ。客人であるあんたが気にすることはないさ。俺たちもいったん戻って態勢を立て直すから、案内しよう。十分とは言えんだろうが、水と食料も分けてやれるように俺が口利きしてやろう。っと、暗くて気付かなかったが、あんた、怪我してないか?」
「ん? ああ……足首を噛まれていたな。骨まで達してはいないと思うが」
「見せてみろ。手持ちの薬草じゃ大したことはしてやれんが」
「すまないな」
「なに、あんたはたった一人でお嬢ちゃんと馬を守りながら、何頭も狼を屠ってみせた立派な勇者だ。俺たち一族はあんたたちを歓迎するぜ」
「そう言ってもらえると助かる」
緊張が解け、足首の傷が痛みを訴え始める中、ウルリッカは微笑んだ。




