5-2
魔女メルリーヤの娘、フェルリーヤ・ヴェールニェーバ。公には存在すら明らかにされていない彼女を連れての旅。それが魔女からウルリッカに課された任務だった。示された旅程は足元のルーシャ帝国を皮切りに、実質的にルーシャとシャイアの緩衝国であるモルウルス自治区、東方でルーシャと国境を接するウルスタン共和国、そしてエウラジア大陸最大の覇権国家たるシャイア帝国へ向かう、中央エウラジアをぐるりと一回りする長大なものだった。
国境を巡って長年に渡る争いを続けてきた各国間には必ずしも交通網が整備されておらず、困難で過酷な旅になることが予想された。燃料の確保が問題となる車や飛行機は論外であり、鉄道と馬を組み合わせて一万キロを踏破せねばならない。まずは入念に準備を整える必要があった。
「ここ、首都メルフラードからモルウルス自治区へは鉄道を使います。その先は馬での騎行となりますが、乗馬のご経験はございますか?」
多くの店舗が立ち並ぶ目抜き通りである。物珍しそうに周囲を見回しながら隣を歩む少女との距離感を未だ測りかねながら、ウルリッカは問いを口にした。
「いいえ、ありません」
「でしたら、初めは辛いでしょうが……」
「構いません。我慢します」
淡々とした態度を装っているが、口調には気負いと興奮がにじみ出ている。
「先の長い旅です。無理を押せばかえって道行きは遅れましょう。ですから、不調を感じたらすぐおっしゃってください。よろしいですね」
「わかりました。大丈夫です」
フェルリーヤは、容貌こそ白き魔女メルリーヤに似ているが、自身を大人びて見せようと背伸びした在りようは年相応の子供と言ってもいい。言葉遣いこそ丁寧だが、先ほどから店先に並ぶ商品に目を奪われて上の空になっているのがいい証拠だ。だからこそ、ただの子供である彼女を連れて旅をして欲しい、という言葉の真意がどこにあるのかをウルリッカは今なお測りかねていた。
旅の目的はなにかと尋ねるウルリッカに魔女は黙って首を振るばかりであり、おそらく国家機密なのであろうフェルリーヤの存在を否応もなく知ってしまったウルリッカとしては了承するほかなかった。そこに至るまでの話が、そこから察しろというメルリーヤの気遣いだったのだと考えるしかない。
十五年前の祖国防衛戦争以降、エウラジア大陸の覇者として軍事力の増強を推し進めてきたシャイア帝国に対して、休戦条約を結んだ際に賠償金を得られなかったルーシャ帝国は戦争が築いた莫大な借金の返済にあえいでいる。元老院はメルリーヤの存在を当てにして軍事に予算を割り振ることを厭い、国境を守る末端の部隊では装備の更新すらままならない状態に置かれているのが実情だ。
元老院が頼みとする魔法についても謎が多い。世界的に見ても詐欺や騙りではない本物の魔女はメルリーヤしか確認されていないが、彼女以外の魔法使いが世界のどこかに隠れ住んでいたり、これから生まれたりしないという保証はない。メルリーヤとの会談では航空機を脅威として挙げたが、本当に最悪なのはシャイアが魔法を入手して既存の戦力と組み合わせることだとウルリッカは考えている。
フェルリーヤがメルリーヤの娘だと聞いて最初に思い浮かんだのは、魔法は遺伝するのだろうか、という疑問だった。魔法が血筋に由来するのだとすれば、フェルリーヤの存在にはとんでもない価値がある。彼女自身が魔女の後継者として戴冠するのはもちろん、メルリーヤが健在なうちに多くの子を成せば魔法が失われるリスクを軽減できる。血縁による同盟は古くから貴族間で行われてきたことだが、そこに魔法という直接的な力まで絡んだらどんな醜態が繰り広げられるか。
「なにを買うのかしら?」
思索は、フェルリーヤの問いで中断させられる。
「ここでしか買えないものを。モルウルスは高原と山岳が広がる地方で流通網が貧弱ですから、欲しいと思ったものがあるとは限りません。物々交換も見据えて、煙草など嗜好品や換金性が高く携帯に優れた物品を揃えておきます。逆に、向こうでも手に入る服や食料は現地で調達するのがよいでしょう。かさばりますから」
「ウルリッカは、旅に慣れているのね」
「軍人ですので。加えて、モルウルスとはいささか縁もございます」
「グレンスフォーク家の領地があの辺りだったのかしら」
「……ええ、その通りです」
先回りするような言葉。彼女が非常に明晰な思考の持ち主である証だった。
「私がフェルリーヤ様くらいの年齢のとき、一年ほどでしょうか……父に連れられて、遊牧民族に混じって暮らした時期があるのです。彼らと共に過ごす中で高原での生活の知恵、馬の乗り方に羊の追い方、弓と銃の扱い方を身につけました。父からはモルウルス語やシャイア語も教わりましたね」
「ウルリッカは、外国語が話せるの?」
「これでも駐在武官を務めておりました。さほど堪能とは言えませんが、共通語、モルウルス語、シャイア語は意思の疎通に困らない程度にたしなんでおります」
「……でしたら、わたしにも教えてくださらない?」
「フェルリーヤ様に、ですか?」
「言葉だけじゃなくて、色々なことを。わたしは宮殿から出たことがほとんどありませんから、その、貴方にはわたしの……」
言葉に詰まる様子のフェルリーヤに代わって、後を引き取る。
「承りました。僭越ながら、ウルリッカ・グレンスフォークはこれよりフェルリーヤ様の教師役を務めさせていただきます」
「……はい! それから、わたしのことは」
「フェルリーヤ様さえよろしければ、フェル、と呼ばせていただきます。お生まれについては、みだりに口外されない方がよいでしょう」
「承知しています。ええ、そう呼んでいただいて構いません」
買い物を続けながら、フェルリーヤのとりとめのない質問に答える。軍人という存在が珍しいのか、軍での生活について色々と尋ねられた。ルーシャは帝国の成立以前から女性が強く、軍内に占める女性の比率は諸外国と比べても高かったこと、メルリーヤが女帝となってからその傾向はより強まったことを聞き、誇らしげにしているのが印象的だった。その様子が、ウルリッカの胸に微妙なとげを残す。
「……どうかしましたか?」
「いえ。この後は駅に向かい、鉄道でモルウルス自治区の入り口に当たるカザンスクの街に向かいます。買い忘れたものは……そうだ、これをどうぞ」
フェルリーヤの頭に、つば広の帽子をかぶせてやる。
「帽子、ですか?」
つばに触れて、不思議そうにつぶやくフェルリーヤ。
「フェルリーヤ様……フェルの髪は、この首都メルフラードでは目立ちます。列車に乗ってしまえば必要ありませんので、それまではご勘弁を」
「……いえ、気に入りました。ありがとうございます」
「そうですか、それはよかった。軍人などと無粋な仕事をしていると流行に疎くなりますから、気に入ってもらえるか少々心配だったのです」
「贈り物をいただいたら喜ぶものだと、お母さまに教わりました」
「……そう、ですか」
彼女が時々見せる、母親を絶対視するがゆえのズレた発言。それのなにが問題なのかはわからなくとも、少なからず相手の気分を害したことはウルリッカの反応から見て取ったらしい。フェルリーヤはそのまま黙りこみ、ウルリッカもどう言葉をかけるべきか考えているうちに駅に到着してしまう。
「フェルは、鉄道に乗ったことはありますか?」
「いいえ。でも、汽車はわかります。線路の上を走るのでしょう?」
「はい、その通りです」
「楽しみです。早く乗りましょう」
そう言って改札へ向かおうとするフェルを呼び止める。
「待ってください、フェル。その前に切符を買わなければ」
「きっぷ?」
「汽車に乗るための許可証です。私が先に買いますから、それをお手本に自分で買ってみるとよいでしょう。駅員のいる、あそこの窓口です」
真剣な表情でウルリッカから運賃を受け取るフェルリーヤの様子に、道行く人々も表情を緩める。可憐で身なりのよいフェルリーヤと実用重視の地味な格好をしたウルリッカを、周囲の人間はどこかのお嬢様とその使用人と見るだろう。教師役を務めるにも都合がいいので、しばらくはその設定で通そうと決める。
彼女自身に切符を買わせたのも理由がある。これから始まる旅では、多くのことを学び、自ら判断して行動できるようになってもらいたいのだ。その経験は、為政者として国家を背負うようになったときにもきっと役に立つ。
列車に乗りこみ、壁で区切られたコンパートメントに腰を落ち着ける。フェルリーヤの容姿は目立つ上に、首都メルフラードからカザンスクまで列車で三日はかかる。公にはされていないとはいえ、身分としては皇女である彼女につけられた護衛がウルリッカだけというのは、本来ならば異常なのだ。列車という閉鎖空間で不特定多数の人間との接触を持つのはあまりにもリスクが高い。
「とても、刺激的でした」
ほう、と感嘆のため息をついてフェルリーヤが言う。
「街を歩くのは楽しかったですか?」
「はい、すごく。ウルリッカ、貴方といるのは楽しいです。お母さま以外の人は、わたしのことを怖がって、あまりお話をしてくれなかったから」
「私も、フェルと話すのは楽しいですよ」
ウルリッカの言葉に、はにかんだような笑みを見せるフェルリーヤ。世間から隠された存在である彼女は、生きた国家機密と言ってもいい。使用人として彼女の周囲に配された人間が必要以上の関わりを持とうとしなかったのは賢明な判断であり、おそらくはそうした分別のつく人間を選んで集められていたのだろう。
「カザンスクに着くまで三日はあります。相手が私でよければ、好きなだけお話をなさるとよいでしょう」
「外国語も教えてもらう約束です」
「もちろんです。厳しくいきますが、覚悟はよろしいですね?」
「ええ、いいわ!」
フェルリーヤの話は、彼女自身についてのことが多かった。宮殿の限られた区画、限られた人員との接触しか持たない生活について。母メルリーヤをいかに尊敬し、また彼女がどれだけ自分を愛しているかについて。そうした話を聞きながらウルリッカが思い出したのは、努めて忘れようとしてきた自身の子供時代だった。
ウルリッカの母、アレクシア・グレンスフォークはエングランド王国から嫁いできたひとだった。夫であるエドヴァルドを粗野で教養のない田舎貴族と小馬鹿にし、ウルリッカの兄に当たるエリアスとユレルがエドヴァルドの血を濃く引いて乗馬や狩猟にのめりこむに至って、せめてウルリッカだけでもエングランドの伝統を継承させようと厳格な教育を自ら施した。ウルリッカの身体に残り今なお消えぬ傷のいくつかは、このとき母につけられたものだ。
モルウルス辺境伯であった父の領地に住むことを拒否した母と共に、今は魔女メルリーヤにちなんでメルフラードと改名されたかつての首都モルコヴァで半ば監禁に近い生活をしていたウルリッカを救い出してくれたのは、父であるエドヴァルドだった。彼は半狂乱で泣きわめくアレクシアに黙して首を振り、そのままウルリッカを連れてモルウルスの領地を巡る旅に出た。
フェルリーヤを見ていると、どうしてもかつての自分が重なってしまう。違うのは、長じるに連れて自由を手にできた自分とは異なり、彼女の自由は生涯に渡って制限され続けるだろう、ということだった。そのことを思えば、メルリーヤがウルリッカに娘を預けた意図のひとつが見えてくる気がした。
この旅はきっと、フェルリーヤ・ヴェールニェーバにとって最初で最後のモラトリアムになるだろう。短い夏の空を眺めやりながら、そんな予感を抱いた。




