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「おはよう! 我が花嫁フェル・ヴェルヌよ、目覚めはいかがかな? うむ、そなたの美しさたるや、まこと水面に映る太陽のようであるな!」
これからもフェルがユベールの相棒であることを確認し、エルリヒも交えて今後の方策を話し合った翌朝。中庭の水面に反射した光線が天井で揺れるさまを見つめていると、エルリヒの予測した通りにアルエルディアが姿を現した。
「おはよう、アル」
気安い呼びかけに、アルエルディアが笑みを深める。
「ふむ、アルか。よい、今後はそのように呼びかけることを許そう」
「わたしに用事か?」
「うむ。準備が整ったゆえ、そなたを舟遊びに誘おうと思い立ってな」
「舟遊び?」
「然り。砂漠の国ゆえ全ては砂埃にかすむのが常だが、長雨が止んだ翌朝は空が澄み渡り、景色がよいゆえな。ふむ、エルリヒからはなにも聞いておらぬか? いや、構わぬ。むしろ善い。そなたには是非見せたいものがあるのだ」
「了解した。行こう」
「それにしても、ふむ」
普段の水兵服姿に戻ったフェルの全身に、品定めするような視線が向く。
「異国の水兵の出で立ちで舟遊びとはなんとも粋よな。余もエルリヒに命じて、揃いの服を仕立てさせるも一興か。そなた、どう思う?」
「好きにするといい」
突き放すような言葉を気にする風もなく、アルエルディアが大きくうなずく。
「うむ、そうしよう! エルリヒ、聞いていたな!」
部屋の入り口で控えていたエルリヒが、首肯してみせる。昨日は相談に乗ってくれた彼だが、今日はアルエルディアの臣下、宮殿の渡し守としてここにいる。アルエルディアとの駆け引き、交渉はあくまでフェル自身が行わねばならない。
先導するエルリヒに従って階段を下りる。雨の降りしきる昨日の薄暗さとは打って変わって、水面からの反射光が揺らめく幻想的な空間となっていた。その先にある船着き場には、一艘の船が泊められている。王の座乗する船としては簡素かつ実用性に重きを置いた小振りな船であり、アルエルディアとフェル、船尾に立つエルリヒの三人だけが乗りこむ。ユベールの姿はそこにはない。
エルリヒが器用に櫂を操り、船を出す。宮殿を貫いて中庭と湖を繋ぐアーチ状の空間を抜けて、するすると船が進んでいく。水底まで見通せそうな透明度の高さは生物が少ない証拠でもあり、感じられる魔力は砂漠ほどではないが薄い。それでも船のへりから水面に指を伸ばせば、魔力がそこに通うのを感じ取れた。
「我がサウティカならばともかく、そなたの国では水など珍しくもなかろう? 水面ではなく、周囲へ目を向けてもらいたいものだな、我が花嫁よ」
アルエルディアの言葉に、視線を上げる。祖国ルーシャにはない強い日差しに目を細め、瞳孔が順応するのを待つ。最初に目に入るのは舳先でこちらを向いて腰かけるアルエルディアだ。健康的に灼けた肌、砂漠の宝石のように強い光を宿す瞳、泰然とした王の風格を漂わせるその姿は、自信と余裕に満ちた声音と相まってとても魅力的だった。多くの女性は、彼の王妃となることを幸せに感じるだろう。
「そうでもない。わたしの国では、すべて雪と氷になってしまうから」
「はは、左様であるか! ならば存分に水と戯れるがよい!」
心の底からおかしそうに笑うアルエルディアが、不意に視線を移す。
「エルリヒ」
「御意」
短いやり取りを経て、力強い櫂のひとかきで船が90度旋回する。
「我が花嫁よ、ご覧あれ。これこそは我が湖宮、その真なる姿」
アルエルディアが示す先に視線をやって、息を呑む。
「すでにこのウルマハル宮を訪れていながらその美しさを未だ知らず、内より出でて初めて目にする者など古き歴史書を紐解いてもそなたくらいのもの! うむ、よい機会に恵まれるは天に愛されたる証、すなわち我が花嫁となる者の特権よな!」
曇りなき空、蒼空を映す湖水よりもなお蒼い、湖に浮かぶ宮殿がそこにあった。
「これは……」
そして、気付く。王族が住まう最上階と、ユベールが泊まる階、船着き場のある階の三階建てだと思っていた建物が、四階建てであることに。透明度の高い湖水を透かして、水没した一階が存在することに。加えて、旋回する際に目に入った塔、おそらくエルリヒが口にしていた整備塔は、どこかで見覚えのあるものだった。それがサウティカに着いて最初に着陸したときに目にしたものであると思い出すまで、そう時間はかからなかった。
「この湖は……いつ、できたんだ?」
「そなたが我が国に到着してから、今朝までにかけてだ、我が花嫁よ」
砂塵に塗れた茶褐色の宮殿。あの宮殿の一階部分が水没し、激しい雨に砂塵が洗い流されれば、この湖に浮かぶ蒼の宮殿となるのだろう。ウルマハル宮、とユベールが呼んでいたことも今更ながら思い出す。気を失い、寝室で目覚めたときには中庭が水で満たされていたため、到着したときに見た砂漠の宮殿からは移動したものと思いこんでいた。しかし、実際はどこにも移動していなかったのだ。
ただフェルが勘違いしていただけではある。しかし、思い返せばユベールもエルリヒもそれとなく言葉を選んで、フェルの勘違いを継続させようとしていた節もある。とはいえ、腹を立てる気にもなれなかった。これだけの光景を、砂漠に現出する湖、そこに浮かぶ蒼き宮殿を、新鮮な気持ちで眺めることができたのだから。
「……綺麗だ」
頭に浮かぶ賛辞の言葉が、上手く言葉にならないもどかしさ。
「そうであろう」
しかし、アルエルディアはそれで足れりとした。
「とても、綺麗だ。気に入った」
「気に入ったか。ならばよし。このウルマハル宮はそなたのものとしよう」
「わたしのもの?」
「然り。これもサウティカの慣習なれば、気を遣う必要はないぞ」
このサウティカでもっとも美しいとされる宮殿を、気に入ったのなら、と当たり前のように差し出す鷹揚さ。生まれながらの王、持てる者たる彼ならば、ルーシャ奪還の力になってくれるかも知れないと心が揺れる。しかし、それは自らの人生を選択する権利を放棄するに等しい行いであると告げる冷静さも胸のうちにあった。
「慣習……わたしの国にも慣習はある」
「ユベールから聞いた。そなたはルーシャの生まれであったな」
「そうだ。我が名はフェルリーヤ・ヴェールニェーバ。メルリーヤ・ヴェールニェーバの娘にしてルーシャ帝国の正当なる後継者、白き空のフェルリーヤだ」
フェルの告げた言葉にアルエルディアがおもしろげに目を細める。
「ほう! そなたは自らをルーシャの女王、かの冬枯れの魔女であると称するか! それはまた大きく出たものだ! して、証拠はどこにある? かの悪名高き国枯らしの魔法の一端を、この場で余に見せてくれるとでも言うのか?」
「アルが望むのなら、そうしよう」
水面に指を伸ばし、湖全体に魔力の経路を通していく。生物が少ないためエルリヒの操る櫂を除けば波紋ひとつ立たなかった湖面が風もないのにさざめき、波立つ。そうして湖水の全てを掌握した上で、湖岸から中央に向けて大きな波を発生させる。すると、中央で行き場を失った水が吹き上がり、弾け、盛大に飛沫が舞う。
「美しいものを見せてもらった。返礼として、虹をかけよう」
断続的に波を起こし、水を噴き上げ、飛沫を散らす。散った飛沫は船上にある三人の身体を濡らし、強烈な陽光を和らげ、光を乱反射させる。ほどなくして、壮麗な宮殿を彩る雨の弓、空にかかる七色のアーチが魔法のように現出していた。
「ふ、はは! 魔法! なんと、これが魔法というものか!」
アルエルディアが眼前に広がる光景を目にして哄笑する。
「ははははは! これは愉快! うむ、このようなものを魅せられて、認めぬわけにはいかぬ。よいだろう、そなたはまさしく冬枯れの魔女、フェルリーヤ・ヴェールニェーバであると! このアルエルディア・アル・サウルカ二世が認めよう!」
「ありがとう、アル」
「風のうわさに聞くのは恐ろしげな逸話ばかりであったが、うむ、本物はこうもかわいらしく粋な計らいのできる女性であったとは! これを愉快に思わずしてなんとするか! 虹の魔法、まこと天晴れである!」
アルエルディアの、フェルを見る視線が確実に変化していた。ただ守られるだけの女性ではなく、対等な為政者、亡国の女王に対するそれへと。
「アル、頼みがある」
「申すがよい。余は機嫌がよい!」
「わたしの国には、結婚に関する慣習がある」
「ふむ。余との結婚に当たってもそれを守りたいと? よいぞ。申してみるがよい、余に成しうることならばそれを叶えてやろうではないか!」
「では、わたしと結婚して欲しい」
わたしと、の部分に力をこめる。
「ふむ? 余は元よりそのつもりであるが?」
「では、ルーシャの慣習に従い、アルはわたしの……ルーシャの正当なる後継者、フェルリーヤ・ヴェールニェーバの婿となることを認めるのだな?」
フェルの言葉を聞いたアルエルディアが目を丸くし、次に思案するような表情を見せた後、理解したと言わんばかりに破顔する。
「いいや、認められぬ! はは、これは見事!」
おかしそうにそれだけ言って大笑するアルエルディア。
「……すまない。貴方を陥れてしまった」
「はは! よい! 頭ではそなたを冬枯れの魔女と認めながら、心ではただの女と侮って気を緩めておった余が悪いのだから! 許せぬのは、そう、エルリヒ」
フェルの背後に立つエルリヒを、アルエルディアが視線で射貫く。
「この策謀、そなたの入れ知恵か?」
一瞬にして場の雰囲気が張り詰めたものに変わる。王の怒気に当てられたエルリヒは居住まいを正し、しかし涼しげな口調は崩さず答える。
「いいえ、陛下。彼女が冬枯れの魔女その人であると、私はたった今知りました」
「その言葉、嘘はないな?」
「陛下と血を分けた者として、誓って」
「エルリヒはアルの弟なのか?」
フェルの問いに、アルエルディアが答える。
「左様、こやつは腹違いの弟よ。確か継承順は十八位であったか?」
「さて、忘れてしまいました」
「ふん、とぼけたやつよな」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
エルリヒの、アルエルディアに対しても直言を恐れない距離感の近さ、その正体は血縁であるがゆえなのだと、改めて実感が湧く。年の近い同性の血族であり、しかしアルエルディアに直接危害を加えても利のない継承順の低さから、彼の側近となるべく育てられたのがエルリヒ・ジャマールという男なのだ。
「話が逸れたな。さて、どこまで話したのだったか……」
「陛下の婿入りは認められない、と言ったところまで戻すのがよろしいかと。賢明なる陛下はすでにご理解なさったと存じますが、言葉にしておくのは重要です」
さらりと助言するエルリヒに、アルエルディアが忌々しそうに返す。
「わかっておる。そなたは少し黙っておれ。さて……」
アルエルディアがフェルに向き直る。
「ルーシャに伝わる結婚に関する慣習……なるほど、女が嫁ぐのではなく、婿を取るのがそなたの国のやり方であると、そういうことなのだな?」
「そうだ」
「うむ、ならば余とそなたの結婚は叶わぬ。そなたの婿となった時点で、法律に従い余はサウティカの王位を失うことになる。そなたの知恵、機転、美貌は王位と天秤にかけるに値するが……それでもなお、天秤は王位に傾くゆえな」
「それは、なぜ?」
「決まっておろう! 余がサウティカに住む民草を愛しているからだ!」
そんな言葉を臆面もなく言えるアルエルディアは、いい君主なのだろう。いつの日か、彼と結婚しなかったことを悔いる日も来るかも知れない、と予感する。それでも、フェルはユベールの相棒であることを選んだ。その意味を噛み締める。
「……虹が綺麗だな」
「うむ、そなたには劣るがな!」
アルエルディア・アル・サウルカ二世。
砂漠の国を治める、太陽のごとき王との、恋の話だった。




