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目が覚めて、最初に感じたのは頬に当たる寝具の柔らかさだった。つややかでありながらべたつかない感触は上質なシルクのそれであり、視線を上げれば壁に掛けられたタペストリーもより複雑で繊細な文様のそれへと置き換わっていた。
「……起きた?」
声の方向に目をやると、褐色の少女が二人に増えていた。フェルに声をかけてきたのは、最初に目覚めたときにも部屋にいた少女らしい。次第に頭がはっきりしてくると、そもそも部屋自体が変わっていることに気付く。
「ここは?」
「客室。王様の、家族の」
共に母国語ではない、つたない共通語で会話を試みる。どうやら通常の客室から、王族用の客室に移されたらしい。その理由が、アルエルディアの求婚に応じたからだということも思い至って顔をしかめると、少女が心配そうに首をかしげる。
「頭痛い? 医者、呼ぶ?」
「いや、ユベールを……わたしの相棒を呼んでくれ」
「わかった」
少女がうなずいて部屋を出ていくと、もう一人も後ろについて出て行ってしまい、部屋にはフェル一人が残された。今度はそう長く眠っていなかったはずだが、雨音はさっきよりも激しくなっている。窓から中庭を見下ろすと、自分が最上階にいること、中庭に浮かぶ島が冠水しそうなほど水位が上がっていることがわかった。水面の位置を一階と仮定すると、最初に目覚めたときは二階の部屋で、今は三階にいるらしい。部屋は広くなり、調度はより上質なものが置かれている。
「入るぞ」
背後から声をかけられて振り返ると、部屋の入り口にユベールとエルリヒが立っていた。アルエルディアが姿を現さなかったのにはほっとしたが、招かざる人物の登場に目を細める。フェルの視線に気づいたのか、肩をすくめてみせるのが余計に気に障る。もしかしたら、それも計算してやっているのかも知れなかった。
「具合はよくなったか?」
絨毯の上に置かれたクッションのひとつに、ユベールが腰を下ろす。
「心配してくれたのか?」
「そりゃするだろ。しかし、ちょっと困ったことになったな」
「……ちょっと?」
「いや、すまん。お前さんにとっては大事だな」
「ユベールは……」
「ん?」
彼の言葉に反感を覚えたが、上手く言葉にできなかった。エルリヒの目もあれば、感情的になるのもためらわれる。部屋の入り口に立ち、中と外へ等分に注意を向ける彼に視線をやると、おどけたような表情を向けてくる。
「ん? ああ、エルリヒは中立だ。むしろ、お前さんとアル陛下の結婚を阻止したいと考えている。あいつのことは心配しなくていいぞ」
「エルリヒが?」
アルエルディアの配下であるエルリヒが結婚に反対というのは意外だった。彼はフェルが結婚を承諾したことの証人でもあるのだ。そんな彼が結婚に反対する理由とはなんなのだろうか、と考える。
「わたしが外国人だからか?」
「加えて、家格の問題もある」
ユベールの端的な言葉は、ふたつの意味を孕んでいる。サウティカの国王であるアルエルディアが結婚する相手として、ただのフェルでは釣り合いが取れず、ルーシャの冬枯れの魔女フェルリーヤでは国際政治的な問題となってしまうのだ。
「アル陛下はフェルの生まれがどうだろうと気にもしないだろうが、周りがそれを認めない。諸外国も石油の産出国であるサウティカの王族がどんな婚姻関係を結ぶかは注視している。フェルの名前と姿はすぐに全世界に知れ渡るだろうな」
「……それは困る」
「だから、アル陛下の翻意を促したい。それがエルリヒの立場だ」
「今からでも、断れないのか?」
「難しいな。そもそもこの国では、求婚を受けた女性がすぐ承諾を口にしたりはしないものなんだ。求婚する側も、本人ではなく、女性の父親か叔父に話を持っていくのが本来の形だ。許可を出すのは父親もしくは叔父であって、女性には基本的に拒否権がない。一度決まった話を覆すなんてもってのほかだ」
「……不平等だ」
フェルが語気を強めると、ユベールが嘆息する。
「わかってるよ。俺だってそれが正しいとは思っちゃいない。けど、こういう仕事をしてりゃ国ごとの戒律やしきたりに合わせていかなくちゃ仕方ないだろ?」
「ユベールは、わたしがアルエルディアと結婚してもいいのか?」
「俺は、フェルが望むならそうしてもいいと考えている」
ユベールの返答に、言葉を失う。当然否定されるものと思っていた問いかけに対して、肯定の言葉が返ってくるとは思ってもみなかった。
「……わたしの借金はどうなる」
「仮に結婚するとなれば、アル陛下が肩代わりしてくれるだろうさ」
「航法士の仕事は?」
「ペトレールなら、お前さんが来るまでは一人で……」
そこまで言いかけて、ユベールが何かに気付いたように言い直す。
「お前さん、もしかして俺に気兼ねしてるのか? それなら気にするな。フェルは航法士として今日まで十分な仕事をしてくれた。それに、アル陛下ならきっとお前のことも悪いようにはしないはずだ。だから、お前さんは自分にとって何が最善か、だけを考えて選択すればいい。俺はそれを尊重するよ」
唇を噛む。伝えたいことが胸の内で上手くまとまらず、それを察してくれないユベールに理不尽な怒りが湧いてきた。
『……出て行ってください』
「ん?」
ルーシャ語に切り替えたフェルの態度に、ユベールが戸惑う。
『出て行って、と言ったの。聞こえなかったかしら?』
「いや、話はまだ……」
「やめとけよ、ユベール」
割って入ったのは、エルリヒの声だった。
「そんなんだから、奥さんにも逃げられるんだぜ。頭冷やしてこいよ」
「お前……!」
エルリヒの言葉に激高しかけたユベールは、しかし深呼吸をひとつすると、黙って部屋の外へ姿を消してしまった。その姿をおかしそうに見送るエルリヒだったが、ふとなにかに気付いたような素振りを見せると、フェルに視線を向ける。
「おっと……二人きりはまずいな。俺も退散するとしようか」
「待ってくれ、エルリヒ。わたしは大丈夫だ」
「お嬢ちゃんは大丈夫でも、俺の立場ってもんがあるんだがね。まあいいさ、陛下からは希望があれば何でも叶えるようにと仰せつかっているしな」
「さっき、ユベールに言ったことについてだ」
「あいつの奥さんについてか? ユベールからは聞いてないのか?」
「聞いていない」
指輪をしていないのは知っていた。しかし、過去に結婚していたかどうかを問うたことはなかった。もちろん、そのことをフェルに話す義理がユベールにあるかと言えば、ない。しかし、フェルの過去をユベールが知っているのに、ユベールの過去をフェルが全く知らないのは不公平だ、という理屈を思いついてしまった。
「ふうん……興味があるなら、本人から聞くべきだと思うがね」
「では、命令だ。ユベールの過去について、知る限りを教えてくれ」
エルリヒのここまでの態度を踏まえてそう口にすると、彼は口元を歪めて応えた。
「いい性格してるな、お嬢ちゃん! 確かに、そう命令されれば俺は断れない!」
「……無駄口はいい」
「妃殿下候補の仰せのままに。では、ユベールが陛下と知り合ったときの話をしよう。あれはちょうど五年前のことだった。と言っても、俺はその場に居合わせたわけじゃないから詳しいことは知らんのだがね」
語りつつも、エルリヒの注意は常に部屋の外へ向けられている。
「ともかく色々あって、ユベールは陛下を乗せて飛ぶことになった。そのとき、今はお嬢ちゃんが座る後席に座っていたのが彼女、ヴィヴィエーヌ=ラ・トゥールってわけだ。指輪をしていたかは覚えてないが、同じ姓を名乗ったのは覚えてるぜ」
「姉か妹ではないのか?」
「髪も肌も瞳の色も、全部違っててもか?」
「……続けてくれ」
「続けるもなにも、それで終わりさ。翌年、ユベールがサウティカを訪れたときには彼女はいなかった。理由を聞いてもやつは話さなかったしな」
「それだけしか知らず、よくああも無神経な言葉が吐けたものだ」
「無神経、ね。そりゃ的確な表現だ」
それが習い性であるかのように、皮肉気な笑みを浮かべるエルリヒ。
「空気を読まず、周りの人間が言いにくいことを代弁し、直言する。先王の私生児、陛下とは腹違いの兄弟に当たる俺の、それが役割だからな」
「兄弟?」
「知らないようなら教えてやる。ジャマール……ラクダの子ってのは家名を持たない私生児につけられる姓なんだ。ユベールから教わらなかったか?」
「……聞いていない」
「俺が思うに、お嬢ちゃんたちはコミュニケーション不足だな」
「……余計なお世話だ」
「そうやって口ごもるのは、内心じゃ俺の言葉を正しいと認めているからだろう? ま、いいさ。それで、お嬢ちゃんはどうするんだい?」
「何の話だ?」
「陛下との結婚の話さ。ユベールとの旅を、ここで終わりにしてもいいのかい?」
「わたしは……」
「まだ気付いてないようなら教えてやる。お嬢ちゃんは、その言葉をユベールの口から聞けなかったのが不満なのさ。違うかい?」
「ユベールは、どこに……?」
「探すといいさ。付き添ってやるよ」
差し伸べられた手を見て、こう答える。
「それはわたしへの求婚か、エルリヒ? だったら、お断りだ」
含み笑う彼女の言葉に、エルリヒが苦笑する。
「……いい性格してるぜ、まったく」
手を借りずに立ち上がり、一人で歩き出す。
誰が彼の相棒なのかを、彼に教えてやるために。




