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葉を叩く雨音、柔らかなそよ風に誘われ目を覚ます。シーツは柔らかなリネンで、身体の位置を変えるとひんやりと心地よい。視線を上げると、壁を覆う複雑な文様のタペストリーと、大きな扇を打ち振るう褐色の少女が目に入った。少女はフェルが起きたことに気付くと、音もなく立ち上がって一礼してから退出していく。
「ユベール……?」
石造りの部屋に、相棒の姿はなかった。寝床から離れ、中庭に面した窓際に立つと、四方を壁で囲まれた空間が水に満たされ、中央に浮かぶ四角形の島には一本の大樹と東屋が建てられているのが見えた。ぐるりと見回しても、水に浮かぶ中央の島に橋が架けられている様子はなく、あそこまで行くにはどうすればいいのかと考えていると、背後から数人分の靴音が聞こえてきた。
おそらく人を呼んできたのだろう、褐色の少女が最初に部屋へ入り、後続の人間に目配せする。彼女に続いて、サウティカ風の衣装に着替えて居心地の悪そうなユベール、神経質そうな印象を受ける浅黒い肌で眼鏡をかけた男性、ペトレールの着陸時に話をした男性が部屋に足を踏み入れる。エルリヒ・ジャマール。彼の名前を思い出すと共に、着陸してからの記憶が途切れていることにも思い当たった。
「ようやく起きたか。ったく、到着するなりぶっ倒れるもんだから血の気が引いたぜ。エルリヒが抱き留めてくれなきゃ頭を打ってたところだ」
「……そうか。感謝しておこう」
「当然のことをしたまでですとも」
軽く会釈するフェルに、大したことではないと言いたげに首を振って見せる。
「わたしは……気を失っていたのか?」
「気絶したというか、疲れて倒れてそのまま眠っちまったと言うか……お前さん、あれから丸一日は眠ってたんだぜ」
大きくため息をつくユベールの言葉からすると、宮殿に到着した直後にフェルは気を失ったらしい。すると、彼女が気を失っている間に水辺にある別の宮殿へ場所を移動したのかも知れない。雨が降っていることもあって、気付けば最初に比べてずいぶん過ごしやすい気温になっている。彼女自身の服装も、いつのまにか水兵服からサウティカ風のゆったりとしたものに改められていた。
「……すまない。迷惑をかけた」
「まあ、なんだ。あれだけの仕事をした後だ。体調を崩したとしても不思議じゃないが、それならそうと倒れる前に言え。お前は俺の相棒なんだからな」
「わかった。気を付ける」
ユベールが言っているのは、ブレイズランドで大規模な魔法を行使したことだろう。エルリヒたちがいるところで口にはできず、あいまいな言い方をしているのだと察せられた。そこにエルリヒが口を挟んでくる。
「さて、ヴェルヌ嬢に置かれましてはご機嫌麗しゅう」
うやうやしい一礼の後、傍らに控える浅黒い肌の男性を紹介する。
「こちらの者は医者でございます。彼が診察をしたいと申しておりますので、よろしければそちらへお掛けいただき、御手に触れる許可をいただけますか?」
慇懃な言葉遣いで口を利き、医者と紹介した眼鏡の男性や、召使らしい褐色の少女からは見えない位置でウインクしてみせるエルリヒ。出会い頭の無礼な態度とは打って変わった彼の態度を不審に思ってユベールに視線をやると、こちらはおかしそうに口角を上げている。どうやら、宮中ではこの口の利き方ということらしい。
「許可しよう」
ふと思いつき、今のフェルが共通語で表現できる限りの高慢な態度と口調で言い放ってみる。エルリヒの眉がぴくりと動き、笑いを隠そうとユベールが顔を背けたのを見ると、どうやら意図は正しく伝わったらしい。エルリヒは音を立てずに舌打ちするような表情を作って見せ、医者に場を譲って一歩下がる。
「……特に病気というわけではなく、おそらく環境の変化で疲れが出たのだろう、と医者は申しています。陛下も、身体が癒えるまでゆっくり休んでいけばよいと仰せですので、足りないものがあればなんなり申し付けてください」
医者と言葉を交わしたエルリヒが、それを共通語に訳しつつ話す。
「では、ユベールを残して下がってくれ」
フェルの返答に、エルリヒが目を細めて返す。
「失礼ながら、ヴェルヌ嬢とユベール殿はご結婚を?」
「していない。なぜだ?」
この場でそんなことを尋ねる意図がわからなかった。
「この国では、親族ではない結婚前の男女が二人きりになるのは避けるべきとされております。もし私のことが気に入らないのであれば……」
エルリヒは褐色の少女を手で示して言葉を継ぐ。
「彼女を部屋に残して我々は退出いたします。彼女は簡単な共通語なら理解できるので、話が終わったら彼女に伝えて私を呼び戻していただければと存じます」
魔法と身体への負荷の関係、エルリヒが口にした陛下という単語。ユベールへの相談と現状の確認をするには、言葉を理解できる人間が同席しない方が都合がいい、とは説明できるはずもなかった。上手く説明して欲しいという期待の視線をユベールに向けてはみるものの、困ったような表情をされてしまう。親族ではなく結婚していない男女を二人きりにしてはいけないという慣習、あるいは戒律はそれほどまでに強いものなのだろう、と想像する。
「よいではないか、固いことを言うなエルリヒ!」
部屋の入り口から響く、快活で自信に満ちた声がフェルの思考を中断させる。
「しかし、陛下……」
新たに部屋へ入ってきたのは、エルリヒがそう呼びかけずとも彼こそ『陛下』なのだろうと確信させただろう、堂々とした立ち居振る舞いに溢れんばかりの生気を放つ青年だった。衣装こそ周囲の人間と変わらない純白の民族衣装に赤いスカーフだが、スカーフを頭に留めるための輪っかが他の人間の着けているシンプルな黒いものとは異なり、複雑な細工と宝石があしらわれた白い輪となっていた。よく観察すれば、素材は象牙であることがわかる。
「よいぞ、そのまま楽にしているがいい!」
立ち上がって挨拶しようとしたフェルを制して、自己紹介が述べられる。
「余こそはサウティカ王国の中興の祖たるアルシードの子、アルエルディア・アル・サウルカ二世である! 客人よ、余の宮殿をよくぞ訪れた!」
アルエルディアと名乗った青年は、今度はエルリヒに向き直って言う。
「エルリヒよ、そなたは余の言葉を、不足があれば申し付けよと彼女に伝えたのであろう? そして彼女はユベールと二人きりの時間を望んでいる。ならば是非もなし、この余がそれを許すと申しているのだ! 異論があるなら述べるがよい、寛大なる余はそなたに反論の機会をも許そう!」
「恐れながら、陛下。我が国の法を、陛下御自身が犯そうと言われるのですか?」
「ふむ、法律を持ち出すのならば、話はなお簡単だ。このサウティカにおける法、それはすなわち王たる余の意向であるのだから! 必要であるならばこのアルエルディア、彼女の願いを叶えるために法を変えることもやぶさかではない!」
あっさりと言ってのけるアルエルディアに、エルリヒが控えめに嘆息する。
「……陛下。お戯れはほどほどに」
エルリヒの言葉を受け、アルエルディアが笑みを深める。
「うむ。そもそも法を変える必要などない。なぜなら、彼らは余の民ではないゆえな。余の民ではない異国の民が戒律を守るべきか否か、その解釈自体を法学者に禁じたのが余であることを、エルリヒ、お前とて知らぬわけではあるまい?」
「ええ、陛下。陛下の命により、異国の民に戒律を守らせるべきか否かは意図的にあいまいにされている。よって異国の民が戒律に反する行為をしても公的に咎められはしません。ただ、それは表向きの話」
エルリヒは、アルエルディアに答える体でフェルに対して説明していた。
「戒律を遵守すべしと考える諸宗派の過激派は陛下の方針に反発しています。彼女がこの宮殿を離れ、他の街を訪れた際にも普段通り振舞ったならば、最悪の場合、過激派に襲われかねません。そのことは事前に説明しておくべきかと」
「うむ、そういうわけだ、客人よ。我が民にあらざるそなたと余は対等の存在であるがゆえに、互いの信仰と価値観を尊重することができよう。もちろん守るべきルールはいくつか存在するが、なに、そう堅苦しく考えることはない。後ほど、エルリヒから詳しい説明を受けるがよい!」
「……感謝する」
登場した順番など関係なく、場の主導権は自分にあると信じて疑わず、実際にそれを周囲の人間に認めさせてしまう。尊大さと自然体を同居させたような喋り方に立ち居振る舞い、発言の内容から伺える開明的な在りよう。この国の発展に少なからず寄与してきたのであろう一国の君主が、フェルの眼前にいた。
「わたしはフェル・ヴェルヌという。手厚いもてなしに感謝を」
「アル陛下。その、彼女は共通語に不慣れでして……」
慌ててフォローに入るユベールを、アルエルディアが手で制する。
「よい、言葉遣いなど構わぬ。ふむ、それにしても……」
そこでようやくフェルを個人として認識したかのように、アルエルディアの視線がフェルに注がれる。とび色の瞳は他者の心を見透かすようにどこまでも深く、見られた者を落ち着かない気分にさせる。反射的に目をそらしたくなるのをこらえて、まっすぐに見つめ返すと、アルエルディアは口元の笑みを深くした。
「……フェル・ヴェルヌ。おお、銀色の髪を持つ美しき乙女よ。我が長き旅路の道行きにそなたのごとき同行者あらば、困難なる旅路は千の物語を諳んじる吟遊詩人を供にするよりも心安きものとなるだろう。余は望む、そなたも余と共に歩むことを望むことを。さあ、この手を取って立ち上がるがよい」
アルエルディアの発した言葉に、エルリヒが息を飲み、ユベールの顔に緊張が走るのがわかった。召使いの少女すらも雰囲気に当てられてか息を詰めて成り行きを見守る中、どういう意味かと問い返すのはためらわれた。『共に歩む』とは『エスコートする』という意味だろうか。そう考えてユベールに視線をやると、彼はあいまいに首を振った。その間も、アルエルディアはフェルの返事を待ち続けている。やや気まずい空気がその場に流れ、早く返事をしなければ、という焦燥感にかられる。
「…………よろしく、頼む」
サウティカの王、アルエルディア・アル・サウルカ二世。提案の内容、それが意味するところを完全に理解したわけではなかったが、彼の機嫌を損ねるのはユベールにとっても好ましくないだろうと判断しての返事だった。しかし、彼に手を預けた瞬間、ユベールとエルリヒが難しい顔をする。反対に、アルエルディアは満面の笑みでフェルの手を引くと、立ち上がらせた勢いのまま抱き寄せてしまう。
「聞いたな、エルリヒ! そなたが証人だ!」
「……ええ、確かに聞き届けました」
喜色のにじむ声でアルエルディアが言い、呆れたようなエルリヒが受ける。
「……ユベール?」
アルエルディアの腕の中から助けを求めると、ユベールはため息をつく。
「フェル……お前さん、自分が何を承諾したのか理解しているか?」
失言したのでは、と血の気が引いたところに、とどめの言葉が放たれる。
「さっきの陛下の言葉は、この国の流儀で求婚の言葉に当たる。で、お前さんはたった今、それを承諾した。お前さんが言葉の意味を理解していたかどうかは関係なく、な。そういう国なんだよ、ここは……」
結婚を承諾した。聞き間違えようもないその言葉、そしてアルエルディアの腕の中で彼の体温を間近に感じたことで顔が熱くなり、思考がまとまらなくなっていく。まだ体調の戻りきらない彼女が再び気を失うまで、そう時間はかからなかった。




