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ケルティシュ共和国領、エングランド・ケルティシュ連合軍の第138仮設飛行場、通称メニーベリー基地。ディーツラント帝国軍と対峙する最前線付近に設置された飛行場に着陸したぺトレールに対して向けられたのは、不審と警戒の視線だった。銃口こそ向けられていないものの、誰も近づいてこようとはしない。
「フェル、手を振ってみろ。愛想よくな」
「了解した」
小さくあごを引いて了解を示したフェルが、無表情のまま手を振る。愛想よくという言葉が理解できなかったのか、無視したのか、はたまた愛想よくできないのかはわからないが、その姿を認めたのだろうエングランド王国陸軍の制服を着た兵士が一人、小走りに駆け寄ってくる。眼光の鋭い、髭面で壮年の男だ。きびきびと走る姿から飛行士だろうと見当をつけ、キャノピーを開いてユベールが対応する。
「ここが第138飛行場、メニーベリー基地で合ってるかい?」
「そうだが、かわいいお嬢ちゃんを連れての遊覧飛行なら場所を間違ってるぜ」
「いや、届け物さ。ドヴァル空軍基地司令ジョン・フィッツジェラルド少将から第144航空団司令ロイド・バーンスタイン大佐へ。できれば大佐本人に受け取りのサインを願いたいんだが、面会させてもらえるだろうか?」
「……命令書はあるのか?」
「命令書はないが、少将からの手紙を預かってる。俺たちは民間の空輸を請け負うトゥール・ヴェルヌ航空会社の者でね。少将が言うには、軍としてではなく一個人としての差し入れ、だそうだ。目録を見るかい?」
そう言って差し出した目録に目を通した相手の顔に理解の色が広がる。
「なるほど、こいつは素敵な差し入れだ」
「荷物を降ろしたいんだが、機体をどこへ動かせばいい?」
「待て、人手を寄越す。名乗り遅れたが、俺は306飛行隊を預かるケニー・メールマン大尉だ。歓迎するぜ、クソッタレな最前線へはるばるようこそ!」
がっちりと握手を交わす。
「ユベール=ラ・トゥールだ。後ろのこいつは……」
親指で示すと、軽くうなずいてフェルが名乗る。
「フェル・ヴェルヌ、だ」
物資を集めてあるのだろう粗末な倉庫の前まで誘導され、機体を降りる。興味を惹かれて集まってきた整備士や飛行士に対してメールマン大尉が的確な指示を出し、積んできた荷物が手早く降ろされていく。中でも兵士たちの注目を浴びたのは、翼下の支柱に吊り下げてきた36ガロンのオーク樽ふたつだった。
「大佐の許可が出る前に手を付けた者は営倉入りだ。いい子にしてろよ野郎ども!」
大尉に釘を刺されたことで期待はさらに高まり、兵士たちが歓声を上げる。苦労して運んできたものが喜ばれる光景はいいものだとユベールは思う。
「フェル」
「どうした?」
「受け取りのサインをもらってくるから、ここで機体と荷物の番をしていろ」
「了解した。だが……」
珍しく言い淀むフェル。その理由にすぐ思い至る。
「いい機会だ。俺以外の人間との会話にも慣れておけ」
抗議したそうに口を開きかけるが、言葉が出てこなかったのか結局はうなずくフェル。人見知りとは、案外かわいいところがある。ふてくされた様子で木箱に腰掛けると、あっという間に兵士たちに囲まれて見えなくなってしまった。きっと娯楽に飢えた兵士たちのおもちゃとして質問攻めにされることだろう。
「さて、バーンスタイン大佐のところへ案内を頼めるかい?」
「ああ、いいぜ。おい貴様ら! レディの扱いは丁重にな!」
冗談めかした大尉の命令に兵士たちが笑いで応え、大佐の下へ向かう二人を見送ってくれた。大尉に案内されて着いたのは、滑走路の脇に建てられた木造の小屋だった。倉庫と見間違えそうなそれが、このメニーベリー基地の司令室というわけだ。中に入ると机の上には作戦図が広げられている。そちらには極力目をやらないようにしながら、大佐の肩章を付けた男性の誰何の視線を受け止める。
「軍属ではないと見受けるが、どちらさまかね?」
「私はトゥール・ヴェルヌ航空会社のユベールと申します。ドヴァル空軍基地司令ジョン・フィッツジェラルド少将からの差し入れを届けに参りました」
「ほう、少将から?」
「はい、手紙とメッセージを預かって参りました」
「大尉、手紙を受け取りたまえ」
「はっ」
手紙はメールマン大尉を経由して大佐に手渡される。
「少将からは次の言葉をお伝えするよう承っております。……祖国の自由を守るため奮戦するわが友ロイドよ。卑劣なるディーツラント人が井戸に毒を撒いたため、水が不足していると聞き及んだ。戦場に不足しがちな各種の物資とともに、樽を二つばかり贈らせていただいた。配下の兵士たちと分かち合ってくれたまえ、と」
「井戸に毒を……?」
不思議そうに首をひねる大佐だったが、手紙と一緒に渡された目録を見てたちまち笑顔になる。エングランド人お得意の皮肉を利かせたジョークだ。
「では、こちらにサインをいただけますか?」
「よろしい……これでいいかね?」
「確かに」
大佐は受領書をユベールに返すと、大尉に向きなおって命令を下す。
「大尉、非常呼集だ。全員を倉庫前に集めたまえ」
「はっ」
「然る後、少将からの差し入れを配給したまえ」
「はっ! 了解であります!」
「おっと。後で行くから、私にも分け前を残しておいてくれたまえよ」
「もちろんであります!」
「では、俺もこれで失礼します」
「待ちたまえ」
くるりと踵を返して退出する大尉の後に続こうとしたところで呼び止められる。
「まだなにか?」
「ユベール君、と言ったね? この最前線まで届け物をしてくれた度胸を買って、私からも仕事の依頼がある。君も行って分け前に預かったら、私がそちらへ向かうまで待っていてもらえるかね? なに、そう時間は取らせない」
「危険に見合うお代がいただけるのであれば、我がトゥール・ヴェルヌ航空会社はどこでもなんでも、安全かつ迅速にお届けいたしますよ」
「うむ、頼もしい。では、後ほど」
司令室を辞去して、愛機ぺトレールの側にできた人だかりを目指す。ちょうどメールマン大尉が全員を集めて配給を開始するところだった。
「よし、貴様らカップは持ってきたな? いいか、よく聞け、我らが敬愛するジョン・フィッツジェラルド少将から、なんとビールの差し入れだ!」
その途端、歓声が爆発する。その脇で木箱に腰掛けているフェルが両耳を押さえているのが見て取れた。飛行士も整備士も関係なく、誰もが笑顔を浮かべてはしゃぎ、押し合いへし合いしながらビールの配給を受け、勢いよく飲み干していく。
「押すな押すな、樽の前に順序よく並んで配給を受けろ!」
「早くしろ、いい加減シャンパンや林檎酒も飽きてたところだ!」
「フィッツジェラルド少将に乾杯!」
「乾杯! 乾杯!」
「おい、このビール冷えてるぞ!」
高度4000メートルを運んできたビールは氷のように冷え切っている。汗ばむ陽気に恵まれた初夏のケルティシュ共和国で汗水垂らして仮設飛行場を整備した兵士たちにとっては天上の甘露にも等しい味わいと口当たりだろうとユベールは思う。胴体内の貨物スペースに積んできた煙草と併せ、戦場ではなによりも尊ばれる物資。それは混じりもののない旨い酒なのだ。
「なあなあ、あんたらが運んできてくれたんだろ? よかったら一杯飲んでいけよ! なんだったらお嬢ちゃんもどうだ?」
気のよさそうな兵士に背中を叩かれる。
「ああ、ありがとよ。フェル、お前も飲むか?」
「もらおう」
「……冗談だぞ?」
「わたしの国ではもう飲める年齢だ」
「そうなのか? まあ、いいだろう」
あっという間に体積を減らしていくビール。マグカップに注いだそれを喉に流しこむと、確かに冷えていて旨かった。一仕事を終えた満足感の味だ。フェルも小さな手で水滴の浮かぶカップを傾け、こくこくと喉を鳴らしている。いい飲みっぷりだが、勢いで許可してしまったことに今さらながら不安が募ってくる。
「フェル、質問なんだが、お前さん、酒を飲んだことはあるのか?」
「ある」
「そうか、それなら……」
「いま飲んでいる」
「やっぱり初めてじゃねーか!」
マグカップを取り上げる。しかし中身はもう空っぽだった。
「遅かったか……まあビールだし……っておい、大丈夫か?」
「問題ない」
顔色は変わらないが、フェルの身体が前後左右にゆっくり振れている気がする。
「ユベール」
「なんだ?」
「もう一杯、飲ませてもらえないだろうか?」
「やめとけ」
「…………」
じっとこちらを見つめていたかと思ったら、素早く立ち上がってマグカップを奪い返すフェル。見た目では分からないが、酔っぱらっているのだろう。どことなく猫っぽい仕草はかわいくもあるが、これ以上呑ませると面倒なことになると直感する。
「お前、酒癖悪いな……!」
「そんなことはない」
「いいからやめとけ。今は大丈夫でも、空に上がるとアルコールが一気に回るぞ」
「……了解した」
「仕方ないな……焦る旅じゃないし、酒が抜けるまで待っててやるよ」
「……すまない」
「まあ、何事も経験だ。会話も沢山できただろう?」
「話し方がおもしろい、と言われた」
「そうか」
「わたしの話し方はヘンテコだろうか?」
「ヘンテコ? またおかしな言葉を……いや、別におかしくはないぞ」
「…………」
フェルはユベールの言葉にも納得いかない様子でうつむく。兵士たちも悪気はないのだろうが、フェルにとってはおもしろがられたのがよほどショックだったのか。いい機会なので、かねてよりの疑問を直接ぶつけてみることにする。
「ところでフェル。お前さん、共通語は誰に習ったんだ?」
「……家庭教師だ。彼女は軍人だった。駐在武官、と言っていた」
「駐在武官? しかも女性? 察するに、なかなかのエリートだな。そうか、その妙に硬い口調と変に偏った語彙はそのせいか」
「やっぱり、ユベールもヘンテコだと思っていたのか」
肩を落とすフェル。失言だったと気付くが、手遅れだった。気まずい雰囲気になるが、ちょうどバーンスタイン大佐が姿を現したのでこれ幸いとその場を離れる。
「やあ、ユベール君。楽しんでいるかね?」
「ええ、おこぼれにあずかっていますよ」
「結構。それで依頼の話だが……おや、あちらのかわいらしいお嬢さんは?」
「相棒のフェルです。航法士見習いとして連れてきました」
「ふむ……」
つかつかとフェルに歩み寄る大佐。止めることもできずに見守っていると、なんとフェルの腰掛ける木箱の前にひざまずいてうやうやしく礼を取るではないか。
「我々に生命の水を届けてくれた女神というのは君かな?」
「貴方は?」
「この基地を預かるバーンスタイン大佐だ。ロイド、と呼んでくれて構わない」
「ロイド?」
「そうだ」
渋い笑みを浮かべてうなずいた大佐は、思慮深い面持ちで続けて口にする。
『もしやとは思うのだが、こちらの方が話しやすいかね?』
大佐の口から流れ出たのは、フェルの母国語だった。周囲の兵士たちは耳慣れない言語に顔を見合わせるが、フェルは大きく目を見開いている。そうしてしばらく固まっていたかと思えば、うれしそうに頬を緩めて流暢に喋りだす。
『……ええ、大佐。驚きました、わたしの国の言葉がおわかりなのですね』
『やはりそうか。貴方のアクセントの付け方からそうではないかと思ってね。失礼を働かずに済んだようでほっとしている』
『失礼だなんて……お気遣い、ありがとうございます』
『貴方のような麗しい女性と話せて光栄だよ』
『お上手ですね、大佐』
『とんでもない、本心だよ。さて、相棒を少しだけお借りするが、よろしいかね』
『仕事のお話ですね? ええ、ごゆっくりどうぞ』
『名残惜しいが、またお会いできる日を楽しみにしているよ』
『わたしもです、大佐。ごきげんよう』
すっかり機嫌の直ったフェルと微笑み交わし、握手をして戻ってくる大佐。こっそりウインクを送られて、助け舟を出されたのだと気付く。流石は紳士の国、エングランド王国。ジェントルマンの鏡のような態度には感心するしかなかった。
「……大佐。仕事の件ですが、割引させていただきます」
「そうかね? それはすまないね」
感謝の言葉を述べるのも違うだろうと口にした言葉だったが、大佐は片眉を上げるユーモラスな表情と飄々とした口調でそれを流し、男前な微笑みを浮かべてみせる。
「だが私の実家も商売を営んでいてね。決して損はさせないと約束しよう」