3-7
風に流れて形を変える雲、大海原にぽつりと浮かぶタンカー。刻々と位置を変える太陽は平等に照りつけ、湧き上がった雲がスコールとなって降り注ぐ。同じ飛行機乗りでも、目印のない洋上飛行を不安で退屈なものとして嫌う者と、気楽で自由なものとして好む者がいる。ユベールはどちらかといえば後者だ。
空からの景色には飽きることがない。定期航路のパイロットですら、日々の飛行に新たな発見があるのだと話す者は多い。地上の人間は空をありふれたものとして気にも留めないが、それは思いこみに過ぎない。雲ひとつない青空でさえ、土地と季節が違えばその表情を変える。空はいつだってそこに在り、そして美しい。
「……ユベール、ここはどこだ」
伝声管からフェルの声が響く。目が覚めたらしい。
「太極洋のど真ん中を、サウティカに向けて飛んでいるところだ」
「火山は、リイッタはどうなった?」
「全員が無事に避難できたさ。お前さんのおかげでな」
「そうか……よかった」
避難が終わったという報せをエアが持ってくるまでは彼女も意識があったはずだが、そのまま気を失ったためか記憶が混乱しているらしい。あるいは最後の方は気力だけで道を維持していたのか。大したやつだ、との思いを新たにする。
「ユベール、しまった」
「どうした?」
「衣装を着たままだ」
「ああ……それなら記念に差し上げます、とさ」
「いいのか?」
「薄いからアクセサリーも含めて1000グラムくらいだろ? 問題ないさ」
「……そうか」
行く先々で重量物を買いこまれると困るが、フェルの場合は所有欲が薄いのか、それともユベールに遠慮しているのか、なにかが欲しいとはほとんど言わない。流石はプレンシア家と言うべきか、上品かつ丁寧に仕立てられた女神の衣装は新品同様で、公の場でもドレスとして通りそうだった。持っていて損はない。
「なあ、フェル。ひとつ聞いていいか?」
「なんだ」
「なんで魔法を使おうと思った?」
返事がすぐに返ってこないので、問いを重ねる。
「責めてるわけじゃない。自分の身を守るために使うのも嫌がってたお前さんに、どういう心境の変化があったのか気になっただけさ」
ケルティシュでビール輸送をしていて、アルメア軍の戦闘機に追われたときのことを思い出す。彼女は魔法を『使えないし使わない』と言っていた。
「……誰かを助けるためだからだ」
「ふうん……その誰かに、俺は入れてもらえてなかったってわけだ」
「……っ、そうでは」
「わかってるさ。冗談だよ、俺が悪かった」
機内に沈黙が落ちる。翼が風を切り、プロペラとエンジンが轟音を立てるのにしばらく耳を傾けていると、伝声管からフェルの声が流れてくる。
「わたしは、言われるがままに魔法を使ってきた」
真摯な口調で、フェルが語りだす。
「その結果として、国を滅ぼした。もう魔法は使わない。そう決めた。けど、リイッタに会って、色々話して、噴火があって……わたしにできることがあった」
そのできることというのが、海を割って道を作ることなのだからとんでもない。火山の噴火という緊急事態のどさくさに紛れて受け入れてしまっていたが、物理法則を無視するような非常識な力であることはユベールにも理解できる。
「推測だが、リイッタの母親は魔法が使えたのではないだろうか」
「……そりゃどうしてだ?」
「あの島には魔力が満ち溢れていた。噴火したのも、おそらくそれが原因だ。魔力の集まりやすい場所では、誰かが定期的に魔力を消費しないと天変地異が起きる」
「一昨年まではリイッタの母親がそれをしていたと? なるほどな」
母親が急死したのは一昨年の祭儀の後だとリイッタは言っていた。彼女の母親が巫女として必要な知識や儀式をリイッタに継承する前に死んでしまったのならば、およそ二年間は魔力が使われずに貯まり続けていたことになる。
「待てよ。すると、放っておけばまた噴火するってことか?」
ユベールの懸念に、少しだけ考えてフェルが答える。
「……いや、おそらく十年は大丈夫だ」
「今回は約二年で溢れたんだろう? 再来年あたり危ないんじゃないか?」
「わたしが全ての魔力を使ってしまった。回復には長い時間がかかる」
「あの道を開くために使った、ってことか?」
「そうだ」
「じゃあ、同じことをしようと思ったら十年待たなきゃいけないのか?」
「……そうだ」
「そりゃ、なんというか……」
酷く燃費の悪い力だ、というのが素直な印象だ。
「本来と違う使い方をしたからだ」
ため息をつくように、フェルが言う。
「あれは、津波を起こす魔法の応用だ。それを二時間も連続で使ってしまった。魔力を吸い尽くされたあの島は、これから酷い不作に苦しむだろう」
吸収と放出。小さな身体の冬枯れの魔女は、自らの魔法についてそんな風に表現していた。絶大な力の行使と引き替えに、年単位で土地ごと枯らしてしまう魔法。そんなものに頼って国家を運営すればどうなるか。魔法の存在そのものが、土地と国家、そこに住まう人々の人心を荒廃させる毒薬に等しいとユベールは思う。
「答えてくれ、ユベール。わたしは、同じ過ちを犯したのだろうか?」
その問いは正解のない問いだ。肯定しても否定しても、彼女自身は納得しないだろう。だからユベールはその問いにはすぐ答えない。
「フェル。お前さんはさっき、魔法の本来の使い方って言ったよな」
「……ああ」
「津波を起こすのが本来の使い方だなんて、誰が決めた?」
「それは……」
「お前さんは魔法が使える。そこに善悪はないと俺は思う」
「だが、わたしの魔法は多くの人を殺し、土地を枯らしてきた、呪われた力だ」
「そうだな。お前さんがその気になれば、世界を滅ぼすのも難しくはないだろうさ」
「だったら……!」
「フェルは、世界を滅ぼしたいのか?」
「……そんなことは、ない」
「高貴なる者が義務を負うように、魔法を行使する者の責任は重大だ。今回、フェルの力を目の当たりにして、俺はつくづくそう思ったよ」
「……わたしは」
「あの噴火で犠牲者が一人も出なかったのは、間違いなくフェルの功績だ。たとえ土地を枯らしてしまったのだとしても、あれだけ多くの人間が無事に生き延びたんだ。差し引きでプラスになったと俺は見る」
即物的な物言いしかできない彼の言葉に、それでも彼女は耳を傾けている。
「魔法はいい結果も、悪い結果も生むだろう。だが、魔法に限らず人間がすることってのは全部そうだ。シンプルに考えろ、フェル。いい結果が出たならいいことだし、悪い結果が出たなら悪いことだ。その基準に照らせば、今回お前さんが使った魔法はいい魔法だよ、誰がどう見てもな」
「ユベール……」
「それでも、もしお前さんが悪い結果を生むような魔法を使おうとしたのなら。そのときは俺が止めてやる。たとえお前さんを殺してでも、だ」
伝声管の前で、ふっと笑ったような気配があった。
「……そうか。そのときは、よろしく頼む」
ユベールには、フェルの考えていることがおぼろげながら理解できる。彼女はおそらく、果たすべき義務に応えられなかった自分を断罪して欲しいという気持ちを心の片隅に抱えている。しかし、その期待に応えられるのは自分自身しかいないこともユベールは知っている。彼女もきっと、それがわかっているはずだ。だからこそ、殺してでも止めるなどという言葉を気遣いだと理解できる。
「さてと。休暇はフイになっちまったし、次の仕事に向かうとするか」
「どこへ行くんだ?」
「砂漠の国、サウティカ。黒い泉の湧く国だよ」
第三話「銀の女神は魔女なりや」Fin.




