3-6
リイッタのアイデアを成功させるためには、ユベールとフェルの顔ができるだけ知られていない方がよかった。すでに見られてしまった分は仕方がないとして、それ以上の接触を避けるため、その日はロレンスのログハウスに泊めてもらうことにした。明日の祭儀に向けた準備があるというリイッタとは別れ、ロレンスと世間話をして時間を潰す。陽はすぐに落ち、月と星が空を埋めていく。
「フェル? ロレンスさんが呼んでるぞ。飯ができたとさ」
灯りもなく星明りの下にたたずむフェルを見つけて、声をかける。
「……ユベールか」
「なにか珍しいものでもあったか」
深い意味もなく口にした言葉に、彼女がうなずく。
「元から濃かった島の魔力が、さらに濃くなっている」
「魔力? そりゃ魔法を使うための力って意味だよな?」
「祭りの前夜だから、だろうか……?」
不思議そうに首をかしげるフェルに、ユベールも肩をすくめる。
「さてな。専門外の俺にはわからんが、そいつは危険だったりするのか?」
「……わからない。こんなことは初めてだ」
「なら、そこまで気にすることもないんじゃないか? それより飯が冷めるぞ」
「ああ、すまない」
男一人だと料理も張り合いがなくていけない、と言いつつロレンスが振る舞ってくれた料理は、シンプルでありながら素材のよさが引き出されていて、どれも美味だった。疲れていたのか、夕食の後は早々に眠ってしまったフェルをベッドまで運んでから食卓に戻る。夕食の皿は片付けられ、代わりにユベールの持ちこんだスコッチと、ロレンスの提供してくれた島で採れた珍味の数々が並べられている。
「おお、懐かしい。故郷の酒はやはりよいものです」
琥珀色の酒をグラスで揺らして、ロレンスが相好を崩す。
「そうだろうと思いました。こいつは瓶ごと差し上げます」
「やや、これはかたじけない。お返しできるものがあればよいのですが……」
「泊めてくださるだけで十分ですよ」
そうして夜は更け、いつの間にか眠りに就き、目覚めてみればロレンスの姿はすでになかった。食卓には書き置きが残されていた。几帳面な文字で、祭りで怪我人が出るのに備えて早めに現地へ向かうこと、リイッタが案内の人間を寄越すまではここで待機していて欲しい旨が記されていた。外の井戸で顔を洗い、軽く伸びをしてから屋内に戻ると、雪白色の少女が音もなく起き出してくる。
「ん、起きたかフェル」
「……おはよう。よい朝だな」
決まり文句を口にするフェルだが、まともに目が開いていない。
「全然そうは聞こえんがな。朝食は食べるか?」
「食べる」
朝食を食べながら、今日の予定を考える。ロレンスが祭りの会場にいることは皆が知っているから、ここには誰も来ない。案内役が来るまで待っていればいいはずだ。祭りは朝から始まり、夜通し騒ぐらしく、リイッタがカトラ火山に登るのは一番最後、明日の夜明け前なので、それまではやることがない。
「退屈な待機も仕事のうち、か。フェル、お前さんも体力を温存しておけ」
「了解した」
気温は高いが、湿度が低いので日陰にいれば快適だった。フェルの共通語の勉強に付き合い、紙で折った飛行機を使って動翼と機動の関係について講義をする。昼食の後は昼寝をして、目が覚めてからはロレンスの書斎にあった本を読んで過ごす。
「ユベール、人が来た」
「ん、案内人ってやつか」
雲が赤く染まるころ、慣れた感じで勝手口から入ってきたのは、中年の男性と少女の二人連れだった。どちらも民族衣装らしき服装を身にまとい、少女の方は大きな荷物を手に提げている。すっかり失念していたが、言葉は通じるのだろうかと不安になったところで、男性が優雅に一礼し、流暢に挨拶の言葉を述べる。
「初めまして。私はイルッカ・プレンシアと申します。昨日は娘が大変お世話になったそうですね」
「ユベール=ラ・トゥールです。どうぞよろしく」
「フェル・ヴェルヌだ」
イルッカはフェルに視線を移すと、彼女にも握手を求める。
「なるほど、貴方がリイッタの言っていた……女神のように美しいお嬢さんですね」
「イルッカはリイッタの父親なのか」
「ええ、そうですよ、お嬢さん」
リイッタの進学を強く推したという義父、イルッカ・プレンシア。お手本のように綺麗な発音、柔らかで洗練された物腰は高い教養を感じさせる。
「こちらは姪のエアです。早速ですが、フェルさんの衣装を合わせましょう」
イルッカの紹介に黙って頭を下げた少女が、フェルの手を引いて奥の部屋に消える。手に持っていた荷物は衣装だったのだろう。
「この度は無理な依頼をお引き受けいただき、感謝の言葉もありません」
「いえ、仕事として正当な報酬をいただいておりますので」
「お二人は休暇を兼ねてこちらの島へいらしたのでしょう? 娘の勝手で窮屈な思いをさせてしまって誠に申し訳ありません。色々とご不満もお持ちでしょうが、なにか不足しているもの、不満に思うことなどございますか?」
「滅相もない。ゆっくり休ませていただいてますよ」
礼儀正しいが、芯の強さを感じさせる口調がリイッタと似ている。一族の反対を押し切ってもリイッタを巫女の座につけ、大学に進ませた人物だけはある。感心しつつも世間話をしていると、奥の部屋から少女たちが戻ってくる。
「ほう? 似合ってるじゃないか、フェル」
「ヘンテコではないだろうか」
「似合ってるさ。お前さんは自分のかわいさにもっと自信を持て」
「……了解した」
顔を隠そうとハンチングに手をやりかけるフェルだが、今はかぶっていないと気付くと顔を背けてしまった。ともあれ準備は整った。どこからか聞こえる太鼓の音を聞きながら、イルッカと手順について確認をしていくことにする。実業家の一族であるプレンシア家の人間らしく、イルッカの言葉は非常に明晰、かつ細やかな部分にまで配慮が行き届いたものだった。話し合いは長引き、フェルがランプに火を灯すまで辺りが暗くなっているのにも気づかなかった。
「……ん、いつの間にか寝ちまってたか」
「そろそろ起こそうかと思っていたところです」
イルッカとの打ち合わせを済ませた後、ロッキングチェアにかけたまま、うたた寝をしていたようだった。食卓を挟んだ向こう側にはイルッカの姿があり、少し離れたベッドには並んで座ってぎこちない会話を交わすフェルとエアの姿もあった。
「では、そろそろ出発いたしましょう」
イルッカの言葉に全員がうなずき、動き出す。ロレンスのログハウスを出て、向かう先はぺトレールを停泊させてある入り江だ。衣装を機体のどこかに引っかけかねないフェルはイルッカに任せ、ユベール一人で機体に乗りこむ。エンジンをかけて、岬を挟んだ反対側の海岸までプロペラの推力で海上を移動する。イルッカの指示で新たに設置された浮き桟橋に機体を寄せれば、準備は完了だ。
「そろそろ火送りの儀が始まります。巫女に率いられた島民たちがやってきますので、私はいったんこの場を離れます。どうぞよろしくお願いします」
イルッカが桟橋を離れ、ぺトレールの操縦席に乗ったままのユベールと、桟橋に立つフェルが残される。やや緊張した面持ちの彼女に言葉をかけてやるべきかと迷ったが、後方に松明の灯りが見えたので口をつぐむ。おそらく先頭に立つのは巫女として先導するリイッタだろう。普段ならカトラ火山に向かうはずが、海岸へ向かって進んでいるため人々は動揺しているのか、風に乗ってざわめきが届く。
リイッタの掲げる松明が目くらましとなって、機首を外海に向けたぺトレールはちょうど闇に紛れている。それでも、リイッタが砂浜に足を踏み入れ、立ち止まると、一部の島民はようやくぺトレールの存在に気付く。それを待ってフェルがマッチで松明に火を灯して掲げると、人々の間に大きな動揺が広がった。
『あれなるはブレイズランドを救いし伝説の女神である』
凛とした巫女の声が、闇を切り裂く。
『女神は天翔ける船を駆り、いま再び我らの前に御姿を顕された』
ブレイズランドの言葉を、ユベールは解さない。ただ、人々がリイッタの言葉に打たれたようになり、一斉に頭を垂れるのはわかった。薄絹に金細工の装飾をふんだんにまとったフェルの姿は、松明の灯りを照り返して銀色にも見える雪白の髪と抜けるように白い肌も相まって、ただそこに佇むだけで神々しさを感じさせる。
巫女は従者に松明を渡し、代わりに妖しく輝く黄金の頭蓋骨を受け取る。山猫の頭蓋骨を金メッキしたそれは、島を襲った黄金の魔獣を象徴するのだろう。それをカトラ火山の火口に投げ入れる火送りの儀とは、女神による魔獣退治の神話を再演するものに他ならない。
従者が松明を消し、灯りはフェルの持つ松明だけになる。黄金の頭蓋骨を捧げ持つリイッタが砂浜を踏みしめて歩むのを、誰もが見つめていた。その歩みに不自然さを見て取れた者は少なかっただろう。フェルも巫女を迎えるように歩み寄り、浮き桟橋の両脇に置かれたかがり火台に松明で火を移していく。
燃え盛るかがり火の間を抜けてリイッタが進む。ユベールはぺトレールの後席に二人が乗りこんだのを確認して、エンジンに火を入れた。突然の轟音に人々が驚きの声を上げ、漕ぎ手もいないのに進み出したのを見てさらに驚愕する声が聞こえてきた。リイッタが島とエングランドの往復に使っているフロート機を見たことのある者はいても、飛行艇を見るのは初めてだったのも大きいだろう。
「後はお任せします、ユベールさん」
伝声管を通して、リイッタの声がコクピットに響く。
「任されました。が、最後は決めてもらわないと困りますよ」
「ふふっ、そうね」
速度を上げて離水、あえて低空で180度の旋回をかけ、島民の真上をフライパス。このご時世、飛行機の存在を知らない者ばかりではないだろうが、神話に謳われる女神と空飛ぶ船の登場に人々は手を打ち鳴らして盛り上がっていた。薄青に明るんできた空の下、ぺトレールはカトラ火山へ向けて真っ直ぐに飛んでいく。
「今さらだが、投げ入れるところを見せなくていいのか?」
「大丈夫、みんな目がいいから」
「なるほど、納得だ」
周囲も次第に明るくなってきている。海岸から火口までは直線距離で10キロメートル程度なので、視力のいい人間であれば太陽に煌めく黄金の頭蓋骨を目視するのも不可能ではないだろう。
「火口の周辺で旋回します。できるだけ近くに寄せはしますが……」
「わかってる。危険を感じたら離脱して」
カトラ火山は活火山とされている。ユベールとしては火口の上を飛ぶのは初めてなので、溶岩の熱で生み出される上昇気流がどれほどのものか、有毒ガスの危険はあるかなど、不安材料はいくつもある。それでも引き受けたのは提示された報酬が高額だったのに加えて、自分が甘いからだという自覚がある。
「風防を開ける。フェルちゃん、これ持ってて」
「了解した」
リイッタが風防を開けるのが、操縦桿にかかる重みのわずかな変化で伝わってくる。ユベールも風防を少しだけ開き、妙な臭いがしないことを確認する。気休めに過ぎないが、それでもやらないよりはましだ。ある程度の距離を置き、火口の周りをなぞるように緩やかな旋回に入る。
「投げるわ。せーのっ!」
ぺトレールの陰に隠れないよう、火口を挟んだ反対側に海岸がくるタイミングを見計らってリイッタが投擲する。狙いは外れず、黄金の頭蓋骨は綺麗な放物線を描いて火口へと吸いこまれていく。その瞬間、大地が鳴動し、機体が大きく揺れた。
「……離脱する!」
操縦桿を倒し、スロットルを全開に入れる。空気の振動が機体を叩いたのだと、遅れて理解が追いつく。とにかく火口から離れるべきだと直感が告げていた。
「魔力が……火と岩が溢れる……!」
伝声管からフェルの声が響き、背後で爆発が起きた。
「くそっ……!」
空高く打ち上げられた細かな噴石がばらばらと機体を打つ。
「フェル、後方監視! でかいのが飛んできたら教えろ!」
返事はない。急激な機動で態勢を崩しているのだろうと判断する。
「舌噛むなよ!」
巨大な噴石が翼を直撃したら終わりだ。頭上と後方を注視しつつ、とにかく距離を取ることを優先する。一瞬だけ見えた火口付近からは、赤熱した溶岩が流れ出しているのが見えた。溶岩の流れる方向は、人々の集まる海岸であることにも気付く。
「リイッタさん! 聞こえてるか?」
「……ええ!」
「火山が噴火した。溶岩が海岸に向かって流れ始めてる。指示をくれ」
「え? 指示って、そんなの……!」
「指示がないなら、貴方の安全確保が最優先だ。このまま島を離れる」
「待って!」
ユベールの言葉を受けて、リイッタの口調が微妙に変わる。
「……皆に避難を呼びかける必要があります」
「噴火は海岸からも見えているはずです。それでも、ですか?」
「それでも、です。巫女である私が逃げたとなれば、島民に混乱が広がります。無用の混乱と犠牲を防ぐため、彼らには私の言葉が必要です」
「了解です。しかし、申し上げにくいのですが、一度ぺトレールから降りたら、もう乗れなくなるかも知れないことは覚悟してください」
「承知の上です。お願いします」
「了解しました。海岸に向かい、機体を桟橋につけます」
ぺトレールから降りたリイッタは、おそらく戻ってこれなくなる。一人だけ再び機体に乗りこもうとすれば、島民たちの目にはリイッタが一人だけ逃げようとしているように映るからだ。そうなれば、ぺトレールが島民に襲われかねない。その覚悟があるのかどうか、ユベールには確かめておく必要があった。
「……わたしのせいだ。すまない、リイッタ」
「え?」
伝声管を通じて、フェルとリイッタの声が聞こえてきた。
「予兆を感じ取れていたのに、警告できなかった」
「フェル!」
制止の声を発するユベールに構わず、リイッタが問いを口にする。
「……フェルちゃんは、カトラが噴火するってわかってたの?」
「なにかおかしい、と感じていた。それなのに、深く考えなかった」
「うん、そっか。でも、それならフェルちゃんは悪くない」
「だが……」
「フェルちゃん、いい? この島の巫女である私が察知できなかったのに、それ以外の人間が気付けるはずがないの。だからフェルちゃんは悪くない。むしろ危険に巻きこんでしまってごめんなさいね? ユベールさんも、本当は私を降ろすのに反対なんでしょう? 無理を聞いてもらって、ありがとうございます」
フェルを危険に晒したくないというユベールの内心も、リイッタに読まれていた。伝声管越しだというのにそこまで察知できる勘のよさには驚嘆するしかない。
「降ろします。少々揺れますが、ご勘弁を」
「お願い」
ぺトレールを浮き桟橋につけると、それに気付いた人々が殺到してくる。最悪の事態に備えて座席の下に隠した拳銃に手を伸ばしかけるが、数人の男が桟橋の手前で壁を作って島民たちが殺到するのを防いでくれた。その中にイルッカの姿もあるのを見て、彼が気を利かせてくれたのだと察する。
「リイッタさん」
「ええ、私が降りたら避難してくださって結構です」
「……すみません」
「報酬は用意しておきますので、きちんと取りにきてくださいね?」
「ええ、必ず」
リイッタが機体から降りる。
それに続いて、フェルもぺトレールから飛び降りた。
「ばっ……なにやってる、フェル!」
叱責するユベールの顔を、フェルがまっすぐに見返す。
「わたしにもできることがある」
「できることって……格好を考えろ! 下手を打てば吊るし上げに遭うぞ!」
重ねての叱責に、言葉を探すような素振りを見せるフェル。島民には女神として認識されている今の彼女が出ていけば、大きな期待を寄せられることは理解しているのだろう。ようやく口にした言葉は、答えにもならない答えだった。
「……わたしに考えがある」
ユベールは天を仰ぎ、深呼吸した。それからフェルの顔を見て、答える。
「わかった、行け」
「いいのか?」
「お前さんが考えもなく動くやつじゃないのは、わかってきたさ」
「ありがとう、ユベール」
「礼を言われるようなことじゃないさ」
ケルティシュ、そしてハイランドでも、フェルの機転で事態が好転した。彼女の判断と行動に信頼を置き始めている自分に、ユベールは気付く。先に機体を降りて、衣装のせいで降りるのに手間取るフェルを助けてやる。
「お前さんだけ行かせるわけにもいかんだろう」
照れ隠しのようなユベールの言葉に、フェルが微笑む。
「わたしの騎士に任ぜよう」
「せめてボディガードと言ってくれ」
イルッカとその部下、そしてリイッタの声で島民は落ち着きを取り戻し、海岸に集結しつつある。刻々と迫りつつある溶岩から逃れるため高台へと避難する必要があるが、そもそもこの島におけるもっとも高い山であるカトラが噴火しているのだ。空から眺めた記憶をたどっても、ユベールには避難に適した場所が思い当たらない。
『リイッタさん、ルーシャ語はわかるかしら?』
ルーシャ語に切り替えて、フェルがリイッタに話しかける。
「フェルちゃん? え、えっと『少しだけわかる』かな?」
『返事は共通語で構いません。共通語だと子供たちに通じてしまうから』
フェルの言葉にリイッタがうなずき、巫女として女神への対応に切り替える。
「……わかりました。それで、お話とはなんでしょうか、女神さま?」
『わたしが道を開きます。貴方には皆を誘導して欲しいの』
「道、ですか……?」
困惑するリイッタにうなずきかけたフェルが、打ち寄せる波に足を踏み入れる。
彼女は上体を折ると、日に焼けない小さな手のひらで、海面をそっと撫でる。
繰り返し寄せては砕ける波が、すうっと引いていくのが当然であるように。
朝焼けに染まる蒼海は左右に分かたれ、濡れた砂の道が姿を顕していた。
『この道の果てに島があることは、地図で確認しています』
手のひらを海に浸したまま、淡々と女神の格好をした少女は告げる。
『巫女よ、道は開きました。人々を導き、進みなさい』
海を割って現れた一本の道。目の前で起きた奇跡に、その場の誰もが言葉を失う。それがフェルの持つ魔法の力だと推測できるユベール、彼女を女神だと信じる島民たちとは違い、見た目通りの少女だと思っていただろうリイッタの驚きは並々ならぬものであったはず。しかし、現実を受け入れるための時間を状況が許さない。
背後で悲鳴が上がる。振り返ると、炎と黒煙が盛大に上がっているのが見えた。距離からして、カトラ火山のふもとに広がる森林地帯のあたりだろうと見当をつける。いよいよ溶岩が迫ってきたらしい。カトラ火山は緩やかな稜線を持つ火山で、そうした火山が噴火したときに流れ出す溶岩は粘性が低く、流れるのが速いと耳にしたことがある。時間の猶予はもうないだろう。
「……女神よ、貴方にお伝えしたいこと、お聞きしたいことが沢山あります」
迫る溶岩と砂の道を見比べていたリイッタが言う。
「しかし、時間がありません。ですから、いつか……」
『ええ。落ちついたら、また会いましょう?』
「貴方にお会いできてよかった。今はただ感謝を」
『……いいえ、感謝しているのはわたしの方。貴方のおかげで、ようやくわたしはやるべきことを見つけられたのだから。さあ、行って。全員が避難を終えるまで、この命に代えても道は維持し続けるから』
「……ええ! 貴方も無事で!」
フェルとリイッタが言葉を交わす間も、イルッカが指示を出し、部下たちが列を整理している。海を割って開かれた道という奇跡を素直に受け入れやすい子供を先頭に立て、女と老人がそれに続く。男たちは手斧で伐採した樹木を組んで、後方に即席の防壁を作っている。溶岩に対してどこまで有効なのかはわからないが、黙って順番を待つよりは身体を動かしていた方がパニックも起きないという判断だろう。
『……聞け! 女神の恩寵により道は開かれた!』
ユベールには理解できない言葉で、リイッタが人々に呼びかける。
『かつて黄金の魔獣がこの島に現れたとき、我らの祖先は女神に導かれてベレン島に逃れた。カトラの噴火を予見された女神は、いま再び我らの前に御姿を顕された。我らには女神の加護がある! 幼い者から順に、私に続いて避難するのだ!』
ブレイズランド諸島を形成する島のひとつであるベレン島は、本島であるブレイズランドから5キロほどの距離にある。海水の壁に挟まれた道は大人でも五人並んで歩けるほどの幅があるので、急げば数千人の避難が一時間ほどで完了するだろう。もし全員の避難が間に合わなくても、人数のボリュームを数百人まで圧縮できれば岬などのわずかな高所に逃げ場を求められるようになる。
『……避難が終わるまで一時間かかります。それまで持ちますか?』
島民にわからないよう、ユベールもルーシャ語で問いかける。
『持たせるわ、必ず』
求めた答えとはニュアンスが異なる返答だが、集中を維持している彼女に重ねて問うのはためらわれた。もし体調に異変をきたすようなら制止するとだけ心に決めて、フェルの様子に気を配り続ける。リイッタは周囲の人々に気付かれないよう目礼をユベールに投げて、ベレン島へと続く道へと歩を進める。
「女神さま、ありがとうございます!」
「がんばって、女神さま!」
子供たちは共通語でフェルに声をかけながら、リイッタに続いていく。微笑みかえすフェルの頬骨を伝い落ちる汗が次第に上がってきた南国の気温のためか、それとも魔法の行使に伴う負荷なのか、ユベールには判断がつかない。
「よろしいですか、ユベールさん」
部下を指揮していたイルッカが、いつの間にか隣にいた。
「イルッカさん。そちらの状況は?」
「溶岩が森に阻まれて速度を緩めています。避難は間に合うかと」
「そうですか。不幸中の幸いですね」
「ですが、それはフェルさんの作ってくださった道がそれまで持てばの話です。正直なところ、娘が海の底を歩いているというのはぞっとしませんね」
「それは……ええ、本人は避難が終わるまで必ず持たせる、と」
「承知しました。引き続き、よろしくお願いいたします」
「イルッカさんは、最後までここに?」
歩き去りかけたイルッカが、人を安心させるような微笑を浮かべて振り返る。
「ええ。これでもプレンシア家の一員ですから」
それ以上の話題はないとわかると、イルッカは足早に去っていく。誰もが自分の成すべきを成すために動く中、ただ浮き桟橋に突っ立ってフェルを見ているだけの自分がとんでもない無能であるように思えてならなかった。
「ユベール」
タイミングを見計らったように、フェルから声がかけられる。
「どうした。俺にできることがあるか?」
ユベールも海に入り、フェルの側で膝をつく。
『……溶岩はどこまで来てるの?』
共通語で話す余裕がないのか、ルーシャ語での問いかけだった。
「火山と村の間に挟まる森林のあたりだと聞いている」
『もう、そんなところまで来ているのね……』
フェルが避難民に視線を投げる。海底の濡れた砂に足を取られるためか、列の進みは予想以上に遅い。地形が平坦になって溶岩の速度がさらに落ちるとしても、あとどれだけの猶予があるのかは誰にもわからない。加えて、時間が延びればフェルが道を維持し続けられるという見通しもない。先ほどはフェルの体調だけに気を取られて気付かなかったが、もしフェルが途中で魔法を解除したなら、海の底で全員が溺れ死ぬことにもなりかねないのだと、イルッカとの会話で気付いてしまった。
『ユベール。お願いがあるの』
「なんだ?」
『イルッカさんに、村の周辺から人を退避させるよう伝えて』
「なぜだ? ……そうか、魔法で溶岩を押し留める気か」
『ええ。そうすれば時間が稼げるはず』
「ダメだ。お前はこの道の維持に専念しろ」
『なぜ? わたしの魔法なら……』
なおも言い募るフェルを遮る。
「お前はすでに数千人の命を背負っていることを忘れるな。こっちは俺とイルッカに任せて、道の維持に専念するんだ。いいな?」
フェルが北方の生まれで暑さに弱いことを差し引いても、衣装が肌にぴったりと貼りつくほどの汗は異常だ。声の調子は普段と変わらないように思えるが、それが取り繕ったものであることがわかる。それだけ彼女に余裕がないということだ。
「……ユベールは、さっきから立っているだけだ」
共通語に戻して、冗談めかしてフェルが言うのにユベールも合わせる。
「上司として、部下が体調を崩さないか見張っているのさ」
『……いいわ、わかった。わたしはこちらに専念します。けど、どうか。この仕事を最後までやり遂げさせてください』
「借金を抱えた航法士に死なれちゃ困る。こっちこそ頼むぞ」
『ふふ……任せて』
祈りの言葉をつぶやき、あるいは女神を伏し拝みつつ、海底に開かれた道へと人々が吸いこまれていく。溶岩の進行を遅らせるための即席の防壁もある程度は形になったようで、イルッカが部下を連れて戻ってくる。岬の方を指差しているのを見ると、海岸まで溶岩が到達した場合に備えた指示を出しているのだろう。
「荷物、持ってきた」
「君は……エア、だったか」
肩を上下させ、ぶっきらぼうな共通語でユベールに声をかけてきたのは、ロレンスのログハウスで出会ったイルッカの姪、エアと名乗った少女だった。
「イルッカに言われた。受け取って」
「まさか、ログハウスまで取りに行ってくれたのか?」
「そう」
イルッカに言われて、とエアは言った。イルッカはこの状況下でユベールたちの荷物を気にかけ、わざわざエアに命じて危険を冒してまで取りに行かせてくれたのだ。イルッカが特別なのか、プレンシア家の人間が皆そうした訓練を受けているのかはわからないが、非常時における視野の広さが尋常ではない。
「助かった。ここは危ないから、君も避難するといい」
「あたしは伝書使だから。島で一番足が速いから、溶岩に捕まったりしない」
ちらちらと後ろを気にするエアを説得するのは難しそうだった。
「……そうか。なら、イルッカに助かったと伝えてくれ」
「わかった。……フェルも、またね」
言うが早いか、踵を返して駆け去ってしまうエア。その背をフェルの視線が追い、わずかに目が伏せられる。魔法を目の当たりにしても全く動じず、彼女を女神ではなくフェルとして扱い続けるのは、伯父であるイルッカの薫陶だろうか。
それから一時間後、ようやく最後の避難民がベレン島に上陸したとの報せがもたらされた。報せを持ち帰ってくれたのは、避難民の最後尾について、上陸を見届けてから駆け戻ってくれたエアだ。これでブレイズランドに残されたのはユベールとフェル、イルッカとエアに、ロレンスを加えた五人だけとなる。かなり消耗した様子のフェルはぺトレールの後席で休ませているので、砂浜に立つのは四人だけだ。
「本当によかったのか?」
フェルが海に浸していた手を引き上げると、道はすぐに閉じてしまっていた。
「ええ。島のどこかに取り残されている人がいるかも知れませんので」
ごく当然といった様子でうなずくロレンスに、イルッカも応じる。
「全員がこの島から避難できたと確信できるまで、プレンシア家の人間が誰か一人は残らねばなりません。ロレンス医師、貴方も含めてです」
責任感の強さにかけてはいい勝負の二人の横では、当然のような顔をしてエアも立っている。命令を待つ子犬のような風情の彼女に気付くと、イルッカはユベールに向きなおって頭を下げる。
「ユベールさん。重ねてのお願いで誠に申し訳ないのですが、彼女をベレン島まで運んでやっていただけませんか?」
「ええ、構いませんよ。代わりと言ってはなんですが、その、今回のことは」
「島の危機に女神さまが再臨なされた。そういうことにしておきましょう」
「ありがとうございます」
フェルが海を割って道を作る姿は、多くの人間に目撃されてしまった。箝口令を敷くのは現実的ではなく、かえって情報の信憑性を高めてしまいかねない。伝説にある女神が再び現れて奇跡を起こしたと真実をありのままに語った方が、かえって信じる者も少ないはずだった。
「そういうわけです、エア。ユベールさんのお世話になりなさい」
頭に手を置こうとしたイルッカから、後ろに飛んでエアが逃れる。
「……絶対、イヤ」
「エア」
「あたしはイルッカと一緒にいる。ご飯を作ったり、逃げ遅れた人を探したり、あたしの方が上手くできる。絶対に役立つから」
「エア。わがままを言うものでは……」
「なら、あたしを捕まえてみてよ」
脚力に絶対の自信を持つ伝書使が笑みを浮かべるのを見て、イルッカが首を振る。
「助けが来るまで自給自足です。耐え抜く自信はありますか?」
「はい!」
「……いいでしょう。ロレンス医師、彼女を助手として使ってやってください」
ロレンスがうなずき、話がまとまったようだった。
「必要であれば、物資の輸送を請け負いますが?」
「いえ、幸い小生のログハウスは溶岩流から外れたようです。島民の残した食料もあれば、当面の間は問題なくやっていけるはず。イルッカさんはどうですか?」
「ロレンス医師と同意見です。これで私どもからの依頼は完了です」
そう言うと、イルッカは純金の腕輪を外してユベールに差し出す。
「換金のお手間を取らせてしまって申し訳ないのですが……」
「とんでもない。報酬としては十分ですよ」
「いえいえ、フェルさんには多くの島民を救っていただいたのです。復興が成った暁にはこの島をお尋ねください。今度こそゆっくりと休暇を過ごしていただけるよう、プレンシア家の威信にかけてお二人を歓待いたしますので」
「それはありがたい。ええ、ぜひそうさせていただきます」
ロレンスとイルッカ。容姿は似ても似つかなくとも、人としての在りようでどこか共通する二人と握手を交わし、別れを告げる。ぺトレールの後席でうとうとしているフェルを起こさないよう、十分な滑走を取って丁寧に離水する。
「おつかれさん、フェル。お前はすごいやつだよ、本当に」




