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リイッタを背負い、両手に旅行鞄を持って歩くのは骨だった。しかし、体重より重い荷物を背負って地平線の先まで続く草原を歩き、雲を貫いてそびえる山を越えて行商をした子供のころを思えば大したことではない。服を挟んで密着する身体、じっとりと汗に濡れた感触は南国なのだから仕方がないと意識の外へ追いやる。
「ついてきてるか、フェル?」
「ああ」
いつものように淡々とした返事を背中に受けて、森の小路を進む。五分ほど進むと、少し開けた場所にログハウスが建っているのが見えてきた。小さな畑もあり、井戸のそばには水をくみ上げる壮年の男性の姿もあった。
「帰ったわ、ロレンス」
リイッタの呼びかけに、男性が弾かれたように顔を上げる。
「リイッタお嬢さん? ……どうなされた、そのお方は?」
男性が喋っているのは、綺麗なアクセントの共通語だった。遠目には褐色の肌に見えたが日焼けしているだけらしく、その証拠に顔立ちはエングランド系で彫りが深く、これも日に焼けた金髪の下で理知的な光を宿す碧眼をのぞかせている。
「彼はこの島の医者、ロレンスです。こちらは飛行艇乗りのユベール=ラ・トゥールさんと、航法士のフェル・ヴェルヌさん。水上機の故障で立ち往生していたところを、助けてくださったのです」
ユベールの背中から降りながら、手早く説明をするリイッタ。
「足首を痛めたの。治療を頼むわ」
「……どうか、そこを動かれませんように」
「え?」
リイッタの足首に視線をやって厳しい表情になったロレンスは、足早に歩み寄るが早いか彼女の脇に頭を突っこみ、そのまま肩の上にかつぎ上げる。ファイヤーマンズキャリーと呼ばれる、消防や軍隊で用いられるかつぎ方だ。
「ちょっと! お客様の前なのよ!」
「知りませんな。今のお嬢さんは小生の患者です」
「だからって、こんな荷物みたいな……!」
「怪我に響きます。どうか暴れませんよう。そちらの方たちも中へどうぞ」
文句はつけても足が痛むのか、おとなしくなって運ばれていくリイッタに続いてログハウスの中へ足を踏み入れる。最初に目に付くのは、天上から吊るされた大量の薬草とその匂いだ。壁にはタペストリーやローブらしきものがかけられ、棚には薬瓶に混じって動物の頭蓋骨や粗削りな彫刻が並べられている。壁際にはそこだけエングランド風のベッドがあり、部屋の奥には扉がつけられている。おそらくその向こうがロレンス医師の居住スペースになっているのだろう。
「驚かれましたかな?」
入り口で立ち止まるユベールに、ロレンスが声をかけてくる。
「小生は故郷で医学を学び、この島で呪いを学んだ、いわば呪医なのですよ」
「呪医……呪い師であり、医者でもあると」
「左様。島の人間には医学より呪いを欲する者も多いので、方便ですな」
「なるほど」
「もっとも、薬や物資が手に入りにくいこの島で小生ができることなど、骨折や切創の治療くらいのものです。現地で採れる薬草の種類など皆目わからず、初めのころは島の人々にこちらが教わる始末でした」
「こう見えてもロレンスは大学も出てる、きちんとした医者なのよ?」
「昔の話です。お二人は椅子へかけてお待ちください」
ロレンスは手早く道具を揃え、ベッドに腰掛けるリイッタの診察を始める。医者のところへ届けるという用事は終わったとも言えるが、彼女に今夜の宿を紹介してもらいたい。長くはかからなさそうなので、座って待つことにした。
「ふむ……」
患部を圧迫して包帯を巻き終えたロレンスが、何事か思案していた。
「どうしたの? まだなにか?」
「リイッタお嬢さま」
「なに?」
「今年の祭儀への参加は、どうか諦められますよう」
「……諦める? そんなの、許されるわけないでしょう!」
「許される許されないではなく、無理だと申し上げているのです」
「こんなのなんでもないわ! 少し休めば歩けるようになるもの!」
「カトラ火山は険しい」
「貴方に言われなくたって、知ってるわよ!」
「捻挫した脚で登り切るのは困難でしょう。無理をすれば、後遺症が残る」
「それくらいがなんだって言うのよ!」
「お嬢さまの立場を考えれば、重要なことです」
「代わりはいないの。私抜きで、今年の祭儀はどうするの?」
「取りやめるべきです」
「…………!」
頬を打つ音が、ログハウスに響く。押さえ切れない怒気と傷ついたような表情を浮かべたリイッタが、無言のままサンダルを履き直し、ログハウスを出ていく。
「……その、ロレンスさん。彼女を追った方がいいでしょうか?」
ユベールの申し出に、ゆっくり振り向いたロレンスが首を振る。
「いえ、その前にお聞きしたいことがあります。ユベールさんたちは、この島の祭儀についてどこまでご存じですか?」
「いえ、黄金の魔獣と銀色の女神について、かいつまんで説明を受けただけです」
「そうですか。では、祭儀がどういったものかはご存じないのですね」
「そんなに危険なんですか?」
「丸一日かけて行われる祭儀なので途中は省略しますが、最後に行われる火投げの儀。これは小生の目から見ても極めて危険です」
「どのようなものか、お聞きしても?」
「夜のカトラ火山を登り、黄金でメッキされた山猫の頭蓋骨を火口に投げ入れるのです。先頭を行くのは巫女であるリイッタお嬢さまの責務であり、灯りは従者が捧げ持つ松明のみ。足場が不安定なのはもちろん、発生するガスも危険です」
「巫女はリイッタさんだけなんですか?」
「左様。先代の巫女が急逝なさったため、まだ若いお嬢さまが去年からその役目を引き継がれたのです。本来ならば、大学を卒業してしばらくは見習いとして経験を積むのが慣例なのですが……お嬢さまは、務めをよく果たしていらっしゃる」
「なるほど、事情はわかりました」
うなずくユベールに向かって、ロレンスが頭を下げる。
「この件については、島の人間でない貴方たちから話してもらった方がお嬢さまも冷静になれるでしょう。ご迷惑とお思いでしょうが、どうかお嬢さまを探してやっていただけないでしょうか」
「……ええ、乗りかけた船です。いいな、フェル」
「大丈夫だ」
何度も頭を下げるロレンスに見送られ、ログハウスを後にする。リイッタがいそうな場所をいくつか教えてもらったので、順番に歩いて回ることにした。あの脚では遠くに行けるとは思えないので、まずは一番近い岬へと足を向ける。
「ユベール」
「ん?」
服のすそを引かれて振り返る。
「わたしはリイッタを助けたい」
「ああ、連れ戻してやらないとな」
「怪我をしたのはわたしのせいだ」
「……なるほどな、それを気にしていたのか」
普段から口数が多い方ではないが、いつにも増して静かだったのはリイッタの怪我に責任を感じていたからだと気付く。民を導く者として、無理を押してでも普段通りに振る舞わなければならなかった経験も彼女にはあっておかしくない。
「そうだな、できる限り力になってやろう」
「……すまない」
「いや、お前のせいじゃないさ。それと、ひとつだけ約束しろ」
「なんだ?」
「責任を感じ過ぎるな。冷たい言い方になるが、お前がバランスを崩したのは彼女が不用意な降り方をして桟橋が揺れたからだ。それに、祭儀はあくまでこのブレイズランドの人たちのものだ。俺たちは余所者として、できることとできないこと、していいこととしてはいけないことの見極めをしっかりつける必要がある」
ユベールの言葉を聞いたフェルの目がすっと細められる。
「では、逃げるのか?」
あからさまな挑発に、肩をすくめる。
「ああ、いざとなったら逃げる。当初の滞在期間を過ぎると次の仕事に影響が出るし、リイッタはお前の正体に気付きかねない」
「彼女になら知られても構わない」
「なら、プレンシア家には?」
「…………」
「忘れるな、フェル。お前の首には懸賞金がかけられてもおかしくないんだぞ」
「それでも、助けてもらった恩には報いたい」
「俺たちは医者じゃないんだぞ?」
「わかっている。それでも、できることを探したい」
「……わかったよ。だが、いいか? ブレイズランドでの滞在期間は三週間、これは動かせない。それまでは、フェル、お前の好きにすればいいさ」
「ありがとう、ユベール」
「俺が礼を言われることじゃないさ」
「それでも、だ」
再び歩き出すユベールの横に並ぶフェルを見て、ひとつ疑問が浮かぶ。
「ところで、怪我を魔法で治せたりはしないのか?」
ユベールが問うた瞬間、フェルが表情を消した。
「いや、答えたくないなら答えなくてもいいんだが」
「……治せない。魔法でできるのは、魔力を直接的な力へと変換するだけだ」
「そうか……ちなみに、魔法ってのは全部そうなのか? 使い手や技量によっては破壊以外の、例えば治療の魔法が使えたりはしないのか?」
「……魔法の性質は親から子へ伝わる。少なくとも、わたしの魔法はそうだ。他の魔法使いがどうなのかは、わからない。わたし以外の魔法使いがいるのかどうか、そういう魔法があるのかどうか、わたしは知らないから」
「そうか……いや、すまなかったな」
「構わない。リイッタを助ける方法を考えてくれたのだろう?」
そう言って、フェルは微笑む。出会ったころに比べればずいぶん柔らかくなった表情を、なぜかユベールは直視できなかった。




