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ぺトレールを水平に戻し、膝上の地図に目を落とす。ブレイズランド諸島には以前も飛んだことがある。エングランド王国最南端の港町サルソーから南東に800キロほど飛ぶと見えてくるはずだった。そういえば、リイッタが直線距離で852キロと妙に正確な数字を口にしていたと思い出す。
「リイッタはエングランドでなにをしていたんだ?」
お互いに一通りの自己紹介を済ませた後、フェルが問う。
「グラスフ大学で歴史を学んでいるの。ふふ、髪がさらさらで気持ちいい」
「……あまり指で触れないで欲しい」
「じゃあ頬ずりしちゃう。光の加減で白にも銀色にも見えて、本当に綺麗ね」
「…………」
フェルは閉口しているが、ユベールはリイッタの言葉に納得していた。グラスフ大学といえばエングランド王国でも有数の名門大学である。本人が優秀であるのはもちろん、質の高い教育を受けねばその門を潜るのも難しい。高等学校がないブレイズランドの生まれであれば、家庭教師から学ぶ以外に道はないだろう。冗談めかしてお姫様を自称していたが、彼女が裕福な家の生まれであり、なおかつ教育の重要さを理解する上流階級として育ったのは疑いようもない。
「ユベールさん、聞こえる?」
「聞こえてますよ」
「到着までどのくらいかかるのかしら」
「四時間ってとこですね」
「そう、ありがとう。たくさんお話しましょうね、フェルちゃん」
「……了解した」
「ところでフェルちゃん、貴方、生まれはルーシャでしょう?」
リイッタの発言に、ユベールは息を呑んだ。口調は全く変わっていないのに、機内の雰囲気が一変する。なにげない質問で相手の呼吸をつかみ、思い切りよく踏みこむ。会話の勘所を押さえた質問の仕方に、リイッタ・プレンシアという人間を侮っていたのでは、という後悔が生まれる。
「……そうだ。わたしはルーシャで生まれた」
ユベールは下手に口を挟めない。フェルに任せるしかなかった。
「メルリーヤ・ヴェールニェーバ。貴方は彼女によく似ている」
「リイッタは彼女を知っているのか?」
「肖像画を見たの。ルーシャの先代女王、メルリーヤ・ヴェールニェーバ。汚れなき新雪のような白銀の髪に、青紫の瞳は愛らしいスミレのごとく。救国の英雄にして絶対の支配者は、神さまの寵愛を一身に受けた人形のような美しさを誇ったとか。フェルちゃんも大人になったらあんな風になるのかしらね?」
「この髪や眼の色は、ルーシャでは珍しくない」
「そうなの? でもこちらでは珍しいわ。似ている、と思ったのはそのせいかしら」
「……似ている、とは故郷でもよく言われた」
「そうでしょう? だってフェルちゃん、すごくかわいいもの」
楽しそうに話すリイッタ、穏やかに答えるフェル。ユベールにはリイッタの真意が読めず、ただ二人の会話に耳を澄ますことしかできない。ケルティシュで出会ったロイド大佐のように、語学に堪能な者であればフェルの訛りから出身を推定できるのだということに、もっと注意を払っておくべきだった。
「私ね、シャイア帝国の歴史を学んでるの」
リイッタが続ける。
「だから、ルーシャについてもほんの少しだけ……そう、本当にちょっとだけ知っている。でも、それは本で得た知識でしかない。できたら、故郷を離れたルーシャ人であるフェルちゃんのお話を聞かせて欲しいの。もちろん無理強いはしないけれど」
「なにを聞きたいんだ?」
「なんでも。そうね、例えば、子供のころはどんな風に過ごしていたのかとか、トゥール・ヴェルヌ航空会社で航法士として働くようになった経緯とか」
「……簡単には説明できない」
「ゆっくりでいいわ。大丈夫、時間はあるもの」
リイッタの言う通り、ブレイズランドに到着するまで少なくとも四時間はある。その間、空飛ぶ密室となったぺトレールの中で密着する二人を引き離すことはできない。不慣れな共通語では真意を隠すのが難しいので、質問攻めにされたフェルがどこでボロを出すかわからなかった。上手くはぐらかすのが難しいなら、口を閉ざすのが最善なのだが、どうやったらフェルだけにそれを伝えられるかが難しい。
「……昔は、ずっと旅をしていた」
「それは、家族と一緒に?」
話し始めたフェルに、リイッタが質問を被せる。学究の徒らしい無遠慮さにいらだちを覚えながら思考を巡らせる。ルーシャに傀儡政権を樹立したシャイア帝国にとって、生死不明のフェルの存在は悩みの種となっているはずだ。彼女の生存と現在の居場所が知れれば、拉致もしくは暗殺を目的とした刺客が行く先々で待ち受けることにもなりかねない。ルーシャ人のフェル・ヴェルヌとしてならともかく、冬枯れの魔女が生存していると噂になるのは避けたかった。
「姉のような人だった。様々な場所を訪れた。ルーシャ国内の各地を巡った後は、ウルスタン、モルウルス……シャイアにも行った」
「中央エウラジアを一巡りしたのね。どんなものを見たの?」
「人の暮らしを。大地の在りようを。豊かな土地も……枯れた土地もあった」
「そう……色々なものを見てきたのね」
姉のような人、というのは以前も言っていた駐在武官の女性のことだろう。それにしても、フェルがシャイア帝国も訪れていたというのは初耳だった。彼女の身分を考えればそれなりの危険を伴う旅だったはずだが、見聞を広める以上の意味を持つ旅だったのだろうか、と考える。
「リイッタはなぜブレイズランドに戻るんだ?」
「私? 祭儀……えっと、神さまのためのお祭りって言った方がわかりやすいかしら? 色々と役割があって、年に一度は島に戻ることになってるの」
「リイッタの神さまはどんな神さまなんだ?」
「そうね……興味があるなら、きちんと説明するけど」
「ぜひ聞きたい」
「うん、じゃあ島に伝わる神話を教えてあげるね」
上手く話題を切り替えたフェルに心の中で拍手を送る。こういう手合いは説明を求められると話さずにはいられないのだ。短い期間ではあるが、同じ学究の徒であるジャックや老ジョージと過ごした経験が生かされているのかも知れない。
「火山と羊の島、ブレイズランド。緑豊かで平和な島を、ある日、魔獣が襲った」
先ほどまでの軽い口調とは打って変わった厳かな口調でリイッタが語り始める。
「黄金に輝く炎の魔獣は、森を焼き尽くし、人を喰らった。島一番の戦士も返り討ちに遭い、島は魔獣に支配され、人々は絶望に包まれた。けど、その時だった。灰色に曇った空がふたつに割れ、銀色に輝く女神が人々の前に降り立ったのは」
リイッタは言葉を切り、十分に間を置いて言葉を継ぐ。
「空から地上へ降り立った女神は人々を空飛ぶ船に乗せ、周囲の島へ逃がした。けど、小島で得られる食べ物は全員の腹を満たすにはほど遠い。ブレイズランドの人々は飢えて死ぬか、魔獣から島を取り戻すかの選択を迫られた」
再び言葉を切ったリイッタに、先を促すようにフェルが問う。
「それから、どうしたんだ?」
「人々は戦うと決めた。辛うじて持ち出せた武器を集め、女神にも助力を頼んだ。女神はそれを承諾すると自らも剣を取り、黄金の魔獣に立ち向かった」
再び言葉を切るリイッタ。フェルが問いを重ねる。
「勝ったのか?」
「悪しき魔獣の牙は女神に届くことなく、鋭き爪は腕ごと切り飛ばされた。息を合わせて戦う女神と人々によって島の中央にそびえる火山まで追い詰められた魔獣は、それでも諦めなかった。女神の剣で首を落とされ、首だけになってなお女神に噛みつくと、そのまま火口に身を投じた。女神が戻ってくることはなく、人々は彼女への感謝をこめて、毎年その時期になると祭りを開くようになった」
ジャックと老ジョージ、フィッツジェラルド家の二人が聞いたらよろこびそうな話だった。特に、黄金の魔獣というのは色々と示唆的でおもしろい。豊富な産出量を誇るブレイズランドの金鉱山と絡めて、興味深い仮説を語ってくれることだろう。
「ブレイズランドの発展は、海賊と交易を生業とするダーナ人が入植したことから始まるの。黄金の魔獣というのは金髪のダーナ人たちを指しているとも、彼らが黄金を掘ったことで流れ出した有毒物質やガスのことだとも言われているわ」
普段の口調に戻して神話の解釈を語るリイッタに、フェルが問い返す。
「では、女神は?」
「そう、そこがわからないのよね。勇気ある島の女性だったとか、島を訪れたダーナ人の女海賊だったとか、色々と説はあるんだけど、どれもしっくりこない」
すらすらとよどみなく神話を語る一方で、史学的な解釈を口にする。気さくな態度とバランスの取れた在りようは、多くの人々に親しみと好感を与えるだろう。プレンシア家におけるリイッタの位置づけがどのようなものかはわからないが、高い教育を受けていることを併せて考えても、将来のブレイズランドを背負って立つ指導者の一人として期待されているのかも知れない。
「ところでブレイズランドの食べ物はおいしいのか?」
会話が途切れるのを見計らって、フェルが質問を投げる。
「そうそう、食べ物は旅先での一番の楽しみよね。おいしいのはやっぱり魚、あとは果物かな。うん、エングランドよりおいしいものが食べられるのは保証するわ」
話題はそのまま島やリイッタの大学生活へと流れていく。フェルには悪いが、残り三時間あまり、そのまま当たり障りのない会話を続けてくれることを願った。




