2-5
前席にユベールと老ジョージ、後席にフェルとジャックを乗せてストルクは飛ぶ。高原の薄い空気に合わせてチューニングされたエンジンは快調そのもので、大人二人に子供二人、合計200キログラムの荷物を載せてするすると上昇していく。
「見て、フェルさん。あれがペン・ニヴァスだよ」
「山の名前か?」
「そう。エングランド王国の最高峰、ペン・ニヴァス。古ガエリグ語で『毒竜の住まう山』あるいは『天空へ至る山』という意味なんだ」
「意味が全然違うのでは?」
「うん、不思議だよね。語源を調べていくと、どっちとも取れるんだ。ハイランダーにとって、ペン・ニヴァスは信仰と畏怖の対象だったんだ」
二人の会話を聞きながら、長く伸びるペン・ニヴァスの尾根筋に接近していく。急角度で切り立った斜面は緩やかに湾曲しており、山裾から吹き上がる風が上昇気流を生み出している。ストルクのような軽飛行機で山岳を飛行するときは、地形によって複雑な変化を見せる風を計算に入れて飛ばなければならない。
機体を押し上げる風の手応えが操縦桿に伝わってくる。視界は広く、視線は前へ。風の通り道を予測し、風の力を借りて高度を上げていく。目的地は尾根筋の頂上付近だが、まっすぐ突っこむのは避けて、大きく円を描くようにいったん尾根を越える。出力には余裕を持たせ、決して山のある側へ切りこむ方向への旋回は行わない。大切なのは常に逃げ道を確保しておくことだ。
「やはり、きみの操縦は心地よいな」
ユベールの操縦を見つめていた老ジョージが言う。
「光栄です、ミスター・フィッツジェラルド」
「君たち飛行機乗りには風が見えているのかね?」
「見えませんが、予測はできます」
「興味深いね。例えばどのように?」
「そうですね……あの山と、さらに奥にある山の頂上は見えますか?」
「うむ。ほぼ直線上に並んでいるな」
「操縦桿はニュートラルで飛ばしています。位置関係を見ていてください」
「ふむ……奥にある山が左へ流れていくな」
「ええ。この機体が右から風を受けている証拠です」
「……なるほど。つまり、視差を利用しているのだね」
「ご明察です」
横風を受けて機体が左へ流れれば、より遠くにあるものが左へ流れる。右目で見て直線上に並んでいる二点が、左目で見ると奥側にある点の方が左へずれるのと同じ理屈だ。山の頂上に限らず、距離に差のあるふたつの目標があれば、この方法で機体が横風の影響を受けているかどうか把握できる。
「非常に興味深い話だ。いや、仕事の邪魔をしてすまなかった」
「いえ、構いませんよ。そろそろ見えてきますしね」
「うむ。ジャック、レディ・フェルに説明して差し上げなさい」
老ジョージの言葉に、ジャックが機敏に反応する。
「はい、おじいさま」
「なにかあるのか?」
「あれを見て、フェルさん」
ジャックが指で示したのは、鋭く切り立った尾根上に唐突に現れる平坦な地面と、そこに立つ無数の石柱だった。平坦な地形は約300メートルに渡って続き、石柱はその中央付近、もっとも横幅が広い箇所に集中している。高山植物の緑に覆われてはいるが、人為的に切り開かれた場所であることは明白だ。
「中央にあるものが見える?」
「村の近くにあった石の柱と同じだ」
「そう。これもかつてのハイランダーたちが作ったものなんだよ」
「だが、こちらは壊れていない」
「うん、村の遺跡もかつてはこんな姿だったはずなんだ」
「……そうなのか」
「……なにか気になる?」
微妙に歯切れの悪い返答をするフェルが気になったが、今は相手をしている時間がない。着陸できるかどうかの判断に、全神経を集中させなければならなかった。いくら平坦に均されているとは言っても、数百年前のハイランダーによる工事である。去年は大丈夫だったとしても、今日までの間にどこか崩れていて、それが高山植物にカモフラージュされていないとも限らない。もしストルクが脚を折るようなことがあれば、老人と子供を連れて徒歩で下山しなければならないのだ。
「ミスター・フィッツジェラルド。着陸できます」
「よろしい。君の判断に任せよう」
黙ってうなずいて、アプローチに入る。尾根を越えた風は渦を巻き、ときに斜面へ向かって突風のように叩きつけられる。不安定な気流にコントロールを奪われないよう、慎重かつ大胆に寄せていく。ストルク以外の飛行機で同じことをやれと言われたら、どれだけ金を積まれても拒否するだろう。
「少々揺れます。舌を噛まないようにしてください」
機体へのダメージやトラブルのリスクを軽減するため、滑走距離はできるだけ短くしたかった。限界まで速度を落としても失速しない、ストルクの機体特性が頼もしい。前輪の接地が左右で同時になるよう、傾きに合わせてわずかなバンク角を取るよう操縦桿を操り、咲き誇るシスルの花畑へ機体を降ろしていった。
「見事な着陸だったよ、ユベール君」
揺れの収まった機内で、老ジョージが笑みを浮かべる。
「……お褒めに預かり光栄です」
完全に停止したストルクの操縦席に体重を預け、ユベールはいつの間にか止めていた息を大きく吐き出す。高い位置にある操縦席からは地面が見えず、まるで宙に浮いているようだった。エンジンを切り、静寂に包まれた操縦席から眺める雄大なハイランドの景色は、まるで天国のようだった。
全員がストルクから降りたのを確認して、ユベールも機体から降りた。車止めをはめて、肌寒いほど冷たい空気を肺に取りこむ。老ジョージとジャックはさっそく石柱の間を歩き回り、去年と変化がないかを調べている。もっとも、尾根の上にあるので落石の危険性はほとんどなく、大規模な雪崩でもない限り壊れることはない。
「ジャック、聞いていいか?」
見れば、フェルがジャックに問いかけていた。
「うん、なにかな?」
「この石の柱は、村の近くのものと同じ時代のものなのか?」
「そうだよ」
「では、なぜこんなに違うんだ?」
「えっと、なんで村の近くの石柱は壊れていたのかってこと?」
「……そうだ」
「うーん、それはね……なんて説明したらいいのかな」
「隠すことはなかろう、ジャック」
言い淀むジャックを見て、老ジョージが会話に割って入る。
「我々の祖先が壊したのだよ、レディ・フェル」
「ダーナ人が?」
「ダーナ人だけではない。ガエリグ人、つまりハイランダーも遺跡の破壊に加担したことが過去の調査で判明している」
「遺跡はハイランダーが作ったものではないのか?」
「うむ、作ったのも壊したのもハイランダーということになるな」
「……わからない。なぜそんなことを?」
「家を建てるためだよ。礎石という言葉はわかるかね?」
「家の土台のことか?」
「左様。直接的には人口が増加したこと、間接的には信仰心が薄れつつあったことが影響したのであろう。村のそばに、誰のものでもない、手頃な大きさと形の石柱がある。遠くから石を切り出してくるより再利用した方が楽ではないか、というわけだ。村の教会の礎石など、ほとんどがそうだ」
「そうか……」
老ジョージの言葉に考えこむ様子を見せるが、ほどなくして顔を上げるフェル。
「もうひとつ、いいだろうか」
「ふむ。なんでも聞いてくれたまえ」
「……正しい円ではないのは、なぜだろうか」
「うん? どういう意味かね?」
上手い表現が見つからないのか、言葉に詰まるフェルだが、彼女の言いたいことは理解できた。言われてみれば、ユベールにも思い当たる節があった。
「フェルが言っているのは、こっちの遺跡はシスルを描く石柱が楕円……押し潰された円状に配置されてるってことじゃないかと思うんですが」
フェルにもわかるよう、言葉を選んで喋る。
「その通りだ」
「楕円……ふむ、確かにそうだな」
フェルが同意し、老ジョージも納得がいったようにうなずいている。村の遺跡とこちらの遺跡の違いは、壊れているかどうかだけではない。ほぼ正円の範囲に収まる村の遺跡に対して、こちらの遺跡は引き延ばしたような楕円状に石柱が配置されているのだ。上空から見ればそれが一目瞭然となる。
「土地に制約があったからではないでしょうか?」
ジャックの発言に、老ジョージがうなずく。
「あるいは測量技術の未熟。従来はそう考えていたが……本当にそれだけだろうか? ふむ、一考に値するテーマかも知れんな。ユベール君はどう思うかね?」
生き生きとした様子でユベールに話を振る老ジョージ。探求心に火がついたらしく、瞳は子供のように輝いている。
「そうですね……同時代に作られたものと言っても、並行して作ったわけではないでしょう。こちらで積んだ経験が、村の遺跡に活かされたのでは?」
「うむ、明晰な回答だ。しかし地理上の問題を加味してみたまえ。成分分析の結果から、これらの石柱は現場で切り出したものではなく、わざわざ他所から運びこんだものであると判明している。まず工事の容易な村の近くで作り、次いで本命であるこちらに着手したと考えた方が自然ではないかね?」
「確かにそうでしょうね」
老ジョージの指摘は、実のところユベールも思いついていた。そもそも門外漢であるユベールが易々と真実に至れるとは思っていないので、あっさり引き下がる。代わりに言葉を継いだのはジャックだった。
「ユベールさんの考えを聞いて思いついたのですが、ここもまた本命ではなかった、という説はどうでしょうか」
「私もそれを考えていたところだ。そもそもユベール君に来てもらったのは、まだ発見されていない遺跡を空から探すためでもあるのだからね」
老ジョージの言葉は、フェルのためのものだろう。ランチを食べてここを飛び立ったら、今度は空から遺跡の痕跡を探す予定になっている。これは一年でもっとも気温が高く、山頂の雪が解けるこの季節しかできない。
「他にもあるのか?」
フェルがジャックに問いかける。
「それを探すんだよ」
「どこにあるか、推測できないのか?」
「どうだろう……なぜここなのかも、まだわかってないから」
ジャックの答えにまた視線を伏せて考えこむ様子を見せるフェル。やがて顔を上げると、真剣な表情でこう口にした。
「シスルは、誰に捧げられたものなんだ?」
その言葉に、全員が黙りこんでしまう。ユベールはもちろん、ジャックもその問いに対する答えは持ち合わせていないらしい。全員の視線が老ジョージに集まり、彼が雷に打たれたように硬直していることにユベールは気付いた。
「……ミスター・フィッツジェラルド?」
ユベールが声をかけると、老ジョージはゆっくりと視線を合わせ、そして天を仰いだ。天啓を得た、と言わんばかりにその口元には笑みが浮かんでいる。
「レディ・フェル」
「なんだ」
「君の問いに答えよう。シスルは人々が竜に捧げたものだ」
「……竜?」
「より正確に言えば、ペン・ニヴァスの竜に捧げたものと言えよう。かの山に住む竜は厄災をもたらす毒竜として、また加護を授ける神竜としてハイランダーの畏敬の念を集めていた。決して枯れないシスルはそうした二面性を持つ竜へ捧げる供物であったということに、君とユベール君の言葉で気付けたのだよ」
「俺の言葉、ですか……?」
老ジョージの言葉にユベールは困惑を隠せなかった。つい素が出てしまう。
「ここに来る途中、視差について教えてくれただろう?」
「ええ、それがどうか……ああ、もしかして」
「そう、シスルは誰に捧げたものなのかを考えれば、円が歪んでいる理由……いや、円は歪んでなどいないことがわかるのだよ」
「どういうことですか、おじいさま」
機内でのユベールと老ジョージの会話を聞いていなかったらしいジャックとフェルはまだ理解が追いついていないようだった。そんな二人に老ジョージは愉しげに微笑みかけ、そして言うのだった。
「どういうことなのか、それをこの目で確かめに行こうではないかね?」
詳しく教えてくれとせがむジャックを急かして再びストルクに乗りこみ、飛び立つ。咲き乱れるシスルが車輪に巻きこまれ、赤紫の花弁が風に散っていく。土が崩れないよう石垣で固められた周縁部から、そのまま飛び出した。一瞬だけ重力から解き放たれ、翼が空気を捉える。速度のついた機体はたちまち上昇に転じる。
「目指すはペン・ニヴァスの頂上、でよろしいですね」
「うむ。頼むよユベール君」
空は晴れているが、雲が出始めている。低くたれこめると遺跡を隠してしまいかねないので、急いで高度を上げる。効率は悪いが、遺跡とペン・ニヴァスの頂上を直線で結んだルートをまっすぐ飛ばしていく。
「ミスター・フィッツジェラルド。あまり離れ過ぎてもわかりにくいかと」
「うむ。方角と角度は保っているね? ではこの場で旋回してくれたまえ」
「了解しました」
ラダーで機体を左に振ってから、右旋回する。ペン・ニヴァスの頂上に立って見下ろしたときと同じ方向、角度で尾根上の石柱遺跡に正対する。そこには高原植物の緑にくっきりと浮かび上がる、黒のシスルの紋章があった。
「諸君、見たまえ。竜に捧げられし石の花、永遠に枯れないシスルだ」
老ジョージの言葉に、ジャックが首をかしげる。
「……あれ? 楕円じゃない?」
「そうか、こうやって見るのか」
理解した様子のフェルに、老ジョージが笑みを深めて言う。
「引き延ばされた円を斜めから見下ろしているから正円に見えるのだよ、ジャック。錯視と呼ばれる現象だ。緻密な計算、そして精度の高い工事によってのみ成し得る美しさと言えよう。測量技術の未熟などと、とんだ勘違いであったな」
自らの誤りを認めつつも、老ジョージは終始楽しげだった。その脳内では、新たな発見による興奮と、それがもたらす新たな研究課題についての思考が渦巻いているのだろう。貴族でありながら学者の気質を持つ老ジョージにとって、こうしたひとときこそがもっとも楽しい時間であるに違いない。
「ユベール君、カメラはどこかね? ぜひあれを撮っておきたい」
「ここにあります、おじいさま」
取り出したカメラを構えるジャックの前に、フェルが顔を出す。
「それはなんだ?」
「あっ……」
ジャックが声を上げ、ストルクの機内にシャッター音が鳴る。
「えっと、これはカメラだよ、フェルさん」
「……わたしの知っている写真機はもっと大きかった」
おそらく写真にはフェルが写りこんでしまっているだろう。彼女は自らの失敗が気恥ずかしかったのか、言い訳めいた言葉を吐いて顔をそらしてしまう。
「あはは……まだ撮れるから大丈夫だよ」
「……すまない」
「ううん、気にしないで」
再びシャッター音が鳴り、窓越しに遺跡の姿が写真に収められる。
「撮ったな? 旋回するぞ」
飛行機は空中には留まれない。話しているうちに角度が変わって円が歪んできたので、旋回してコースを修正する。特定の方角、特定の角度でなければ綺麗な正円には見えないので中々難しい。何度も後方を振り返って確認しつつ、ペン・ニヴァスの山頂と遺跡を結ぶ直線をイメージして、それに沿って飛ぶ。
「けど、おじいさま。昔は空なんて飛べなかったのに、なぜこんなことを?」
「やれやれ、まだわかっておらんのか?」
納得がいかない様子のジャックに、老ジョージがため息をつく。
「空を飛ばずとも、人は雲よりも高き視点を持ち得るのだよ」
「空を飛ばなくても……?」
「ジャック」
ジャックの隣にいるフェルが彼の肩を叩き、窓外を指差す。
「ペン・ニヴァス……? あ、ああ!」
フェルが指で示したのは、エングランド王国の最高峰。
雲海を突き抜けて悠然と佇む、ペン・ニヴァスの天頂だった。




