7 イーデン
全く、あそこの部屋のにおいにね、困っているんですよ。本当に。聞いてます? 刑事さん。
短いがそれなりに深刻な風で訴えられて、イーデン・エヴァーツは視線をひらめかせてから、顎の下に手のひらを這わせると小さく息を吐き出した。世界一とも言われる先進国のアメリカ合衆国は、他国の人間が思う以上に犯罪もはびこっている。逆に言えば、犯罪に関わる違法な市場が巨大であるという言い方もできるのだが、それこそ豊かさと引き替えにした闇そのものとも言えるのかもしれない。闇はさらに深い闇を招き、犯罪の温床となる。誰かが違法行為を取り締まらなければ、アメリカという国はかつてそうだったように犯罪天国へと成り下がるだろう。そこに存在する闇は深まるばかりだ。
そのための警察組織だ。
ジェイミー・スーウェルと喧嘩をしたという男のアパートメントに情報収集のために訪れたイーデンは同じアパートメントに暮らす婦人から聴取をしながら犬のように鼻をひくつかせて眉をひそめた。
「わかりました、ありがとう」
短く形式的な礼を言ってから踵を返したイーデンは、肩を揺らさずに長身を翻す。長い足を踏み出した彼は、体力が資本の刑事だからどこからどう見ても立派な体格で何も知らない一般人が見れば、モデルかタレントかと思うかもしれない。とにかく目立つ。
男のひとりぐらしならゴミにまみれていてもおかしくはないし、イーデンは社会の底辺に生きる人間のくずと呼べるような人間を山ほど見てきた。えてしてそうした者たちほど、犯罪行為、あるいはそのすれすれの際どい世界に生きる場合がほとんどだが、往々にして彼らに同情の余地はない。転落するまでの過程で、彼らはそれでもなお更正の余地はあったはずだ。光の世界へ抜け出すすべはあったはずだというのに、楽な道を選び取った彼らはそうして自らの選択権を放棄したのである。言うなれば、社会の底辺へと転落するのは自己責任だ。
冷淡に考えてから、歩を進めるイーデンは無意識に腰の拳銃を指先で確認してから表情を改めた。時には凶悪犯の追跡にも当たる危険な仕事だ。特にアメリカでは銃が一般的にも入手可能だったし、州によってはもっと簡単に手に入れることもできる。闇ルートともなれば言うまでもない。制服警官たち以上に危険に晒されるイーデンはごく自然に差し迫る危険に対処する慎重さを身につけていた。
エリザベスに教えられた住所を、確認した。
アパートメントの廊下を通り抜け、その部屋に近づくにつれて確かにひどい臭気が鼻腔を刺激した。
警察に所属する狙撃手だからといって、四六時中、銃をぶっ放しているわけではなく、普段はごく平凡な捜査官だ。いわゆる一芸というやつで、特に軍隊での訓練などの経験はしていなかったが、やはり狙撃手として任務に就いていた父と祖父からは多くのものを学んだ。
捜査令状もない事情聴取だったからアパートメントの部屋に強行突入するようなまねは許されないし、いくら大胆不敵が絵に描いたようなイーデンであってもその程度の常識はわきまえている。
「どうも、警察の者ですが、ちょっとお聞きしたいことがあってね。あんた、メルメさん?」
話しながら身分証を差し出したイーデンに、やたらと臭う部屋の奥から姿を現した金髪の巻き毛の男は一瞬ひるんだようにわずかに顔色を変えた。その一瞬の変化を、もちろんイーデンは見逃さなかった。
肌は白く病的だ。
無精ひげを生やしていて見るからに不衛生で、ひっかけたシャツは黄色いシミがついていて、青い瞳はどこかドロリとしていて商店を結ばない。明白な以上に青年刑事は長い腕を伸ばして男を押しのけて室内へと踏み込んだ。
「お、おい、刑事さん……」
「外には俺の相棒がいる、逃げようなんて馬鹿なことを考えてみろ。公務執行妨害で即逮捕してやるからな。覚えておけよ」
長い指先を男の鼻先に突きつけて、高圧的に言い放つとイーデンは相手の戸惑いにもお構いなしへ臭い室内へと侵入する。おそらく、ドラッグのたぐいだろう。まだラリってるな、と内心で大きなため息をつきながら、室内を見回した。
スラムにドラッグはつきものだ。
人を堕落させるものには、蠱惑的な魅力がある。
誘惑に打ち勝つのは、事故を厳しく律する者にとってもなかなか難しい。
人とは弱い生き物なのだ。
いきなり逮捕だなんだと言われた男は面食らったのか、青白い顔のままでボリボリと頭をかきむしった。
踏み込んだ部屋の惨状たるやひどいもので、食べ残しのピザや冷凍食品が腐ってひどい悪臭を放ち、部屋の至る所がゴミ山だ。一瞬、眉をしかめたイーデンだったが次の瞬間には自分の職務を思い出した。
殺人事件とは関わりがないかもしれないが、明らかにドラッグの常用者ともなれば見逃すわけにはいかない。それに末端を押さえることによって芋づる式に組織を一網打尽にできるかもしれない。犯罪の芽は早々に摘み取るべきだ。
見逃してはならない。
床のゴミのひとつも蹴り飛ばさないようにと、あたりに注意を払いながらどんよりと濁った瞳のままで混乱している男の耳をつまみあげてから部屋の外へとって返した。同時に携帯電話を慣れた仕草で操作した。数度のコールで所属する捜査本部へつながって、鑑識の手配をしてからスラックスのポケットからラテックスの手袋を取り出して両手にはめる。
「おい、イーデン、なんかあったか?」
パトカーで待っていたのはもうひとりの刑事で、名前をクライド・カーティスという。イーデンが薄汚れた男を半ば引きずるようにして歩いてくるのを認めて、運転席から出てきた。
「薬中だ。調べればドラッグの販売ルートを押さえられるかもしれない」
「オーケイ、しかし、小物だなぁ」
「全くだ」
短い相づちを打ちながら、イーデンは男をにらむ。
とりあえず、エリザベスの情報通りならこの薬物中毒の男はジェイミー・スーウェルと喧嘩をしたということになる。イーデンが追いかけているのは麻薬の密売組織ではなく、殺人事件だ。違法ドラッグのたぐいについては然るべき部署が対応することになるだろう。
イーデンの青く鋭い瞳に射すくめられて、金髪の巻き毛の男はおどおどとしてから視線をさまよわせた。
もしかしたら、生粋の悪人ではないのかもしれない。
それでも。
弱さとは罪の証だ。
これは後からシラミの一つも繁殖しそうだから、パトカー内を消毒しなければならないか、と頭の片隅でイーデンは割とどうでも良さそうなことを考えたが、それ以上は言葉にせずに、乱暴に臭くて仕方がないが男をパトカーの後部座席へと押し込んだ。
*
「あいつは、俺が……。俺が汚ぇからって言ったんだ。それで喧嘩になった。けど、その後俺はやつにも会ってねぇし、名前も知らねぇ」
狭い取調室の椅子に座らされて、男は自分をにらみ付ける青年刑事にたどたどしく弁解した。
「そうだろうな、そのかっこじゃな」
「み、店に行ったときは、もっとましなかっこだったさ。これは部屋着で……」
「ヤクをやってる時はハイになっているからな。どうせそのほかの服だって、おまえさん自身にはわからないだけでひどい臭いだったんだろうよ。スーウェルが臭いと言ってたんなら、それが正しかったんじゃないか? だいたいおまえの部屋を俺も見たがろくな場所じゃなかった。おキレイな服なんて持ってるのかどうかも怪しいもんだな」
あえて高圧的に言ったイーデンは、金色の神を指先でかきあげてから青い瞳をひらめかせた。
「そ、それは、その……」
「汚いと言われて腹が立った。だから殺したんじゃないのか? どうなんだ? どうせヤクが切れててむかついてたんじゃないのか?」
どもりがちになる男に対して、イーデンは強い口調でたたみかける。
大きな拳でスチール製のテーブルをたたきつけてから、彼は強い眼差しのままことさらに威圧感をみなぎらせた。
「ほ、本当だ。殺してなんてねぇよ。喧嘩にはなったけど、殴っただけだ。あいつも俺のことを思いっきり殴ってきやがったし、お互い様だ!」
「こっちは殺人事件を追ってるんだ、おまえが多少痛い目のあったとしても俺の知ったことじゃない」
バンと、イーデンは再びテーブルを手のひらでたたいた。
オドオドしたこういう手合いは、一度徹底的にたたきのめすの一番手っ取り早い。厳しく咎められることに慣れていない半端物など刑事として経験を積んできたイーデンには取るに足りない相手だった。
「本当なんだ、調べてくれればわかる」
ふーん、と疑わしげにイーデンに見詰められて、男は居心地悪そうにもじもじと尻を浮かせてから椅子に座り直した。
殺人事件の捜査に人権もへったくれもないのは周知の事実だ。
一見、アメリカは自由と人権の国ということになっているが、真相は大違いだった。正義の力を行使するためには暴力も厭わない。そういう国だ。
「少しそこで頭を冷やしてろ」
どかりと靴音を鳴らして、椅子を蹴るようにしながら立ち上がったイーデンは荒々しい所作で取調室を後にした。
もちろん、演技だ。
「おまえ、あの男が薬中だって知ってたのか?」
「あら、わたしは街のヒーローよ。そんな後ろ暗いことするわけがないじゃない?」
濃紺の制服を身につけた美女を扉の先で見つけて思わずイーデンが不平を口に漏らすと、厚めの唇でにやりと笑ったエリザベスは立派な胸の前で腕を組み直してから、片方の眉尻をつり上げた。
「刑事さんたちの手柄をとったら、悪いでしょ」
「そんなことばっかり言ってるから昇進に響くんだ」
「昇進なんてくそ食らえ、よ」
ばっさりと一刀両断した彼女は、それからひらりとイーデンの目の前にタイプライターで打ち込まれた始末書をひらめかせてからくるりと背中を向けたのだった。
大胆不敵なこの美女が改心する時は、いつかやってくるのだろうか。
要するに始末書を覚悟の上で、麻薬中毒者を見ていなかったということにしていたのだろう。なにが目的だったのかはいまひとつ不明だが。結果的にエリザベスはそのために始末書となったわけだ。
当然、彼女の様子を見る限り反省している様子はない。
つまり、そういうことだ。