6 自由の国
オットー・D……――。
自分のイニシャルを間違えて書きそうになったことを思い出して、少年は左右にかぶりを振った。未だにこのイギリス式の姓になじめずにいる自分に嘲笑めいたものが漏れる。名前とは究極的な自己のアイデンティティだと、オットーは思う。親からつけられた名前によって一生を縛り付けられる。だから、正直にオットーは両親に尋ねたものだ。ほかの名前の選択肢など、それこそいくらでもあっただろうに、どうして自分の名前はオットーなのか、と。
「あまりにもおかしな名前を子供につけるものじゃない」
父親には真顔でそう言われた。
唯一の救いは、かつての「彼」とは違ってセカンドネームがあることだが、いまだかつてセカンドネームのほうで呼ばれたことなどない。
それも当然と言えば当然か。
頭ではわかっていても、心はひどい拒絶感にばらばらになりそうだ。ふたりの自分の間でオットーは行き場のない感情をもてあます。そんな自分にぞっとして背筋を震わせた。
ふらりと地下鉄とバスを乗り継いで、その日も西ポトマック公園を訪れたオットーは水死体の上がった川縁を眺めて芝生に腰を下ろした。そうして両方の膝を抱えると「水死体程度」と口の中で自分の台詞を繰り返した。
生命の火の消えたただの肉の塊に対して、「たかが水死体」と氷のように受け止める一方で、その記憶は「少年」の感受性を強く揺さぶった。唐突に呼吸が浅くなり動悸がする。手のひらで自分の胸を押さえたオットーはきつく目をつむって、意識的に呼吸を整えようとして肩を揺らした。
「子供」の頃からオットーは、「子供たち」の泣き叫ぶ声が嫌いだった。自分も子供だというのに。両親の怒鳴りつける声は耐えられた。しかし、「女子供」のヒステリックな叫び声だけはどうやっても耐えられなかった。聞きたくなくて、耳をふさいでも聞こえてきて、その度にオットーはその場所から逃げ出した。兄弟の泣き叫ぶ声すら我慢ならずに激怒した記憶は数知れない。
とにかく理屈ではない。
我慢できないのだ。
聞くに堪えない。
――いや、そうではなかった。
聞きたくなかったのだ……。
思い出してしまった情景を振り払おうとして必死にかぶりを振ったオットーは、両手でさらに強く自分の膝を抱えたまま、いったいどれだけの時間がたっただろう。
「また、家出と間違われるぞ。青少年」
不意に飛んできた明るい女の声に、オットーは顔を上げた。さすがに十五年生きてきて現実が認識できなくなるほど病んではいない、はずだ。
性別の違いこそあれど、あの裁判で飽きるほど聞かされた不愉快なイントネーション。
また、アメリカ人だ……――。
「今は家出じゃない」
ぼそりとつぶやいて思わず横を向いた。
それからしばらく黙り込んで、女が立ち去る気配がないことに苛立つ様子でちらりと目を上げる。視線の先には黒人系とヒスパニッシュの混血だろう美女が相変わらず中腰で自分をのぞき込んでいて、あきらめ気味に鼻から息を抜いた。
自由と人権の国。
そう謳っていながら有色人種に対する偏見が非常に強いのもアメリカという国のゆえんだ。相手の女性に対してではなく、皮肉を感じてフンと鼻を鳴らしたオットーに美人警官は片方の眉毛をつり上げた。
「なに?」
「皮肉なものだと思っただけだ」
オットーはアメリカで生まれて、時間を惜しんで記録をたどった。そこにはアメリカという国家の闇があった。イギリスの植民地時代と独立戦争、奴隷制度と重度の差別主義。そして二度にわたる世界を巻き込んだ大戦争。オットーの知るヨーロッパ世界の闇を、まるでそのまま写し取ったような深い闇。
ヨーロッパから新天地を求めて移住した先でならば、特権階級に帰り咲くことができると思った愚か者たちが作り上げた歪な国家。
「どういうこと?」
「あなたのことじゃない」
他人行儀に言い捨ててオットーはまぶたをしばたたかせてからブラウンの睫毛を伏せた。
「おまわりさんは、いつもみんなの味方だらから困ったことがあったら相談してほしいな」
「わたしは……、きれい事は嫌いだ。口先だけなら何とでも言える」
そんな連中をそれこそ山のように見てきた。彼自身を含めて、人間とは身勝手な生き物なのだ。
「……いや、あなたが悪いわけじゃない。すまない」
皮肉げに考えていたが、そこでオットーは目の前の女性が有色人種であると言うことを思い出してとっさに詫びる。目の真野の女性も、もしかしたらアメリカという国の暴力に振り回された人間なのかもしれない。そう思った。
「君はすごい秀才くんね。きっとそのせいでたくさん嫌な思いをして、でもわたしたち大人ってやっぱり自分勝手だから、君みたいな子のことをわかってあげられずにきっとたくさん傷つけてしまっているんだろうなって思うの」
人間って馬鹿だから、自分が心ない言葉を投げかけられて、やっと気がつくのよ。みんなそう。励ましているようで、力づけているようで、その実、人のことなんてどうでもいいって人たちばかり。きっと、わたしもそうだった。
どこか遠い目をして、そっと片目をすがめると女性警官は黙り込んだ。
良かれと思ってとった行動が、結果的に相手を傷つける。大人同士でもそうなのだから、立場の弱い子供はなおさらだろう。人とは思いもよらない他者の行為に傷つけられるものなのだ。
「警察官が……」
そう言ってオットーは目を伏せた。
ひとつ呼吸をおいてからまぶたをあげた。
「警察官が、素行の良くない子供を補導するのは義務であり、職務だからいちいち子供の気持ちを傷つけたと気をもむだけしようもないし、取るに足りない。法を守り、その番人として使命を全うできれば良いのではないか」
どこか気難しげな顔のまま、オットーはそう言うと言葉を探すようにして顔を背けた。
隣座るね、と女性警官は言ってから少年の隣に座り込む。
「変な子ねぇ」
長い黒髪はくるりと大きなウェーブがかかっていて、人種という垣根を越えても目の前の女性が文句なしの美人に入るだろうことは、オットーの数少ない人生経験でもわかる。どうしてこんな上等の美人が警官なんてやっているのだろう、という男としては至極まっとうな疑問を抱いたが年齢差もあったからあえて彼は質問をすることをしなかった。
しげしげと美女の横顔を見詰めている少年に、女性警官はにこりと笑う。
「ベスって呼んで」
気安く名乗った女にオットーが小首をかしげた。
「エリザベス・ベハラノ。愛称はベス」
たかだか女性警官とはいえ、一応、相手は年上だ。それなりに年上は尊重しなければならないとは思っているし、かつて過ぎ去った記憶が残っていたとしても、それはあくまでもオットーの中に住み着いている遺物にすぎない。
だから、彼は困惑した。
相手にどう接すればいいのかわからないのだ。
「おばあさんが北部の黒人系で、ヒスパニックのクォーターなのよ」
聞いてもいないのにエリザベスは自己紹介をした。
「えぇと……、その」
口ごもって閉口した。
明るいラテンの太陽そのままの朗らかな笑顔がオットーにはまぶしくて、彼は常と同じように眉間にしわを一筋寄せると唇を引き結んだ。
「ベス、……わたしは、あなたに普通に接することができないかもしれない」
ヒスパニックや黒人系の人間とほとんど接したことのないオットーには距離感がまるでわからないのだ。ただでさえ人種のるつぼといわれるアメリカという異国に放り込まれて距離感をはかれずきたのだから、今更といったところなのかもしれないが。
「君なりに、でいいと思うわ。わたしはね」
はっとするほど笑顔のすてきな美人はスラックスをはいた膝を抱えてオットーに首を回すと大きな唇でほほえんだ。
普通に人並みでなければならないと意識するから無理が生じる。とりあえず、とエリザベスは考えた。オットー・ダウディングの問題らしい問題と言えば、家出癖くらいのものでその他の素行不良はないと言ってもいいくらいだ。
数多くの不良共を補導してきたエリザベスにはかわいい相手だ。
少し人と比べて変わっていることくらい、いったい何だというのだろう。