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祈る手  作者: sakura
6/8

5 罰

 そもそも十代の少年期というものは不安定なものだ。

 それなりに平凡なものの影響を受ける程度ならまだ「まし」で、多くの場合、圧倒的に悪い影響をもたらすもののほうに魅了される。子供というものは得てして「そんなもの」で、そうして社会野中で大人としての価値観を学んでいく。だから思春期に暴力的な事柄に関心を抱くことは、とりたてて特別なことでもなければ、不思議なことでもない。仮に道を踏み誤れば、良識ある大人が強制してやれば良い。それが社会のありかただった。

 だからイーデンは少年がどうして戦争中の記録如きに気色ばんだのか、さっぱり理解できない。そうして、なぜオットーは戦争中の記録などが今現在発生中の犯罪行為と結びつけられるとお持ってしまったのだろう。

「なにも後ろめたくないなら、堂々としてればいいじゃないか。真相がたったひとつとは限らないが、真実は常にひとつしかない。それに殺人事件ってやつは発見者が発見者以外であることなんて推理小説でもあるまいし、そうそうあるわけもないし、そんな馬鹿馬鹿しい真相があってはならない」

 オットーの横に長い足を放り出して座ったイーデンは、少年を安心させてやるようにそう言った。

 刑事の青年の言葉に、しかし、うんともすんとも言わない少年はブラウンの髪をかすかに揺らすばかりだ。黙り込んだオットーの肩を、大きな手のひらで軽くたたいたイーデンはそうしてからことさらに穏やかな様子で立ち上がると、仕事に戻るよ、と告げて広い歩幅で少年のところから歩き去った。

 オットー・ダウディングはまるでなにかにおびえてでもいるようだ。

 ことさらに自分と犯罪を結びつけられる事態を恐れている。おそらく、水死体の発見現場にとどまったのは決して正義感や人道的な倫理感からではなく、自分自身の明白な正当性と潔白の主張のためなのだろう。

 まるで……――。

 イーデンはちらりと肩越しに視線を走らせた。

 まるで疑いを抱かれることに脅えている。

「もう、うんざりだ」

 傷つくことに脅えて、自分の心に閉じこもっているような、イーデンにはそんな印象を受けた。

 それから程なくして、結局、オットー・ダウディングは水死体の一件とは全くの無関係であるという結論にいたり、イーデン・エヴァーツの意識からやけに大人びた印象の話し方をする少年の圏は追いやられることとなった。

「水死体の身元は、ワシントン東部にあるクラブのアルバイト店員で名前はジェイミー・スーウェル。朝五時に勤務を終えて帰宅しようとしていたところを襲われた。財布と貴金属が持ち去られているということだから、単純な強盗殺人とも考えられるが、そうではない場合も考慮しようか」

 ワシントン市内で発生する事件は少なくない。

 事件性を考えても、たかだかアルバイト店員の水死体程度で大人数を動かす理由もない。主にざっくりと命令されてイーデンは自分の上司に向かってひょいと広い肩をすくめて見せた。

 アメリカ合衆国という国にとって、人間の価値とはせいぜいそんなものだ。

 価値のない命。

 どこぞの熱血刑事でもいたなら、激怒して否定のひとつもするかもしれないが、あいにくイーデンはそこまで熱心なタチではなかった。人の尊厳はさておいて、死んだ人間の全てに感傷的になっていては刑事は勤まらない。刑事であるからこそ、イーデンは生きる人間の命こそを優先した。死体に問いを投げかけるのは検死官で良い。

「いいか、イーデン」

 命令を受けてきびすを返した青年に、壮年の男の声が飛んだ。

「わかっていると思うが、時間をかけるな」

 捜査はスピードが勝負だ。

 そんなことは言われなくてもわかっている。

「了解」

 軽快に応じて、イーデンは今度こそ踵を返した。言われるまでもなく、水死体程度に時間をかけるつもりはなかった。なぜなら時間がたてば立つほど証拠は失われる。だからたとえばどんな事件であろうともスピード解決が望まれた。そして事件とはそれだけで終わりというわけでもない。次から次へと発生する新たな事件と立ち向かわなければならなかった。それが刑事の仕事だ。

「イーデン」

 オフィスを出ようとした彼を呼び止めたのは、女の声だ。もちろんエリザベス・ベハラノであることは言うまでもない。顔など見なくてもわかる。古いつきあいだ。

「その仏さんのことだけど、一週間前に勤め先のクラブで客と喧嘩しているところを見たやつがいるって。連絡先はここ」

 ぬかりない様子でイーデンの鼻先にメモ用紙を突きつけたエリザベスが口角を上げてからかすかに笑った。

「あの子を見つけてくれたお礼よ」

「俺の手柄じゃない。偶然だ」

「あら、運も実力のうちよ」

 臆面もなく言ってのけたエリザベスにイーデンもにやりと笑う。

「本当におまえはいい女だよ」

「ほめられた、と素直に受け取っておいてあげる」

 投げキッスと言葉を返したエリザベスは、そうして軽やかな足取りでパトロールのためにオフィスを去った。正直に言えばイーデンにとって恋愛対象にならないだけで、エリザベス・ベハラノは良い女だと思う。スタイルも良ければ顔立ちも花がある。さらに知的で闊達ともなればいったいどこに文句をつけられるというのだろう。そんなエリザベスと子供の頃から友人としてつきあいを続けてきたおかげでイーデンの女性に対する要求は自然とハードルを上げることになったのだが、これについてはイーデン自身が嫌みを言いたくなるほどのイケメンだったから、女性に対する要求が高くてもたいした問題は発生しなかった。つまるところ、イーデンの美人好きは主にエリザベスによるところだった。

「それで、結局ベスとつきあっているのか、つきあっていないのかはっきりしろよ、イーデン」

 エリザベスの投げキッスに片手を振って見送ったイーデンはややしてから同僚の私服警官に小突かれて肩眉をつり上げる。

「だから、俺は今までもベスとつきあったことはないし、これからもつきあう予定はない。だいたいベスの男に対する要求が異常に高すぎるんだよ」

 異性に対する要求が恐ろしく高いのは、イーデンだけではない。標準以上の美形であるイーデンと友人つきあいをしてきたエリザベスの美意識も相当だ。ちなみにエリザベスもイーデンも、どちらもそれを自覚せずに今に至っているからお互い様だ。

 特定のパートナーがいたエリザベスはともかくとして、女たらしの才能にかけては署内に類を見ないイーデンのほうはというと、新しい恋人ができては、その恋人からエリザベスと二股をかけているのではないかと疑いを抱かれ続けていた。つくづく女の嫉妬というのは恐ろしい。

「俺、今はフリーだからかわいい子がいたら紹介しろよ」

 ぬけぬけと言い放ったイーデンに、同僚の男の方は理解不能だとでも言いたげに平行してから肩を落とした。

「かわいい子がいたらみんなおまえさんが食い散らかすんだろ。誰がおまえみたいな尻軽に女を紹介する馬鹿がいるんだ」

「まぁ、まぁ、細かいこと言うなよ。友達だろ?」

 刑事だって欲求不満はたまるのだ。

 主に性的な意味で。

 けろりとして笑うイーデンという嫌みなイケメンは、そうしてから自分の腕時計を確認してからつまらない話を切り上げた。今考えなければならないことは、女の尻を追いかけることではない。

「じゃ、俺はベスの話の裏を取りに行ってくる」

「おぅ」

 軽く片手を上げて、イーデンもまたオフィスを後にした。



  *

 オットーは苛立っていた。

 生まれてこのかた、物心ついてから消えたことのない苛立ちは、彼のアイデンティティをひどく脅かし続けてきた。幼少の頃は自分の内側に潜む男の記憶と知識と、そして自分の感情との折り合いがつけられずにひどい癇癪を起こした。イントネーションがおかしいと、アメリカ式の発音を押しつけられることも気にいらなかった。こんな連中より自分の方が優秀だという自負もあって家族を認められずにいた。ようやく折り合いがつけられるようになったのは、エレメンタリースクールに通うようになってからだ。しかし、自分が年齢相応の子供なのだと思い込み、そのように振る舞おうと努めたために、オットーの中に再び(ひず)みが生じた。くだらない足し算だの引き算だのをさせられて腹も立った。唯一役に立つと思ったのは英語を一から学べたことくらいだが、それでもオットーは腹が立って仕方がなかった。

 ――彼は、天才かもしれない。

 ひそひそとささやくように彼を評価する声にすら半ばふてくされた。

 真面目に言われたその台詞を幼いオットーは真正面から全否定した。

「わたしは特別な人間じゃない。平凡な人間だ」

 平凡でつまらない人間だ。

 高い志を胸に抱きながら、なにも変えることができなかった敗北者。確固たる意思もなく、ただ支配者に翻弄された過去を悔いる。

 今は何に対して不満があるというわけでもないというのに、自分の子供としての感受性と感情では、持って生まれた知識と記憶とが処理できなかったわけだから、家族は相当手を焼いただろうというのは想像に難くないが、なにせ自分でもどうすることもできないのだからやむを得ない。結果的に距離を置く方法がわからずにオットーは家出を繰り返していた。

 どこにも行く当てなどない。

「特別、か」

 そんなものだったらどんなに幸せだったろう。

 何も知らないアメリカ人の「オットー」として生まれてくればどれほど無邪気に生きることができただろう。

 (らち)もないことを少年は祈らずにはいられない。

 ――今という時代には過ぎ去っただろう罪に苦しむ必要などないというのに。

 それでも苦しさは消えていかない。

 のどを焼き尽くすような苦しみから逃れるすべがわからない。

 もがき苦しむオットーは、かつての昔。鏡を見た記憶を思い出して両手の平で顔を覆った。

 鏡を見て、少年は絶望した。

 鏡の中にいたのは「彼」だった。見間違えるはずもない。それは自分だった。殺した人間の数だけ生まれ変わらなければならないのなら、神とはどうして自分にだけこんな「罰」を下すのだろう。

「……どうして、わたしだけ」

 どうして自分だけが苦しまなければならないのだろう。

 罪は償ったはずだ。

 ――自分の死と引き替えに。それでもまだ足りないというのなら、いったい自分はどうすればいいのだろう。

 答えが見つからないまま、オットーは自分の部屋のベッドに丸くなった。

 世界のなにもかもが見えなくなる。

 光にあふれた世界は、もう手が届かないところにいってしまったのだろうか。

「わからないんだ……」

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