4 傷
アメリカ合衆国――自由の国。その街は決して安全に満ちあふれた世界ではない。放たれる光が強ければ強いほど、そこに差す陰は深く暗い。そんなアメリカという国だからこそ、先進国であるにも関わらず多くの年で発生する事件の多くが迷宮入りすることも稀ではない。
アメリカという巨大な栄光の向こう側には、深すぎる闇が生まれた。
*
ポトマック川の川辺で見つかった水死体。その現場の捜索を任されたイーデン・エヴァーツは川岸を見渡せる公園の芝生に半ば転がったようにして本を読んでいる少年の姿を見つけて片目を細めた。遠目から見る限り事件の捜査を行う警察が珍しくて見物に来ているわけでもなさそうなところが、またイーデンの興味を引きつける。十代の子供たちにはありがちな反応だ。野次馬根性でなんにでも首を突っ込みたがる。
今回の水死体――そもそもワシントンでは水死体どころか、死体そのものがそれほど珍しいたぐいのものではない――の第一発見者を名乗る少年が現場を見に来ているというのは、少しばかり軽率ではないか? とも思うが、とりあえず、現状の全てを疑ってかからなければならないのが警察という商売だ。
傍目には、何気ない足取りで。
署内では現場の捜査を行う刑事警察でもあるが、彼はワシントン警察でも生え抜きの狙撃手でもある。ごく自然に身についた立ち居振る舞いは大男にしては大胆でありながら慎重だ。
読書と捜査状況に意識を向けている少年の神経の外で行動することなど難しいことではない。もちろん、悪気はなかったし少年を疑っているわけでもなかったが、長年、狙撃手として活躍する彼にしてみれば気配を殺すことはそれほどごく日常的なことに過ぎない。
「ドイツ語か」
唐突に頭の上から振ってきたイーデンの声に、文字通り飛び上がって驚いたのはオットーの方で、読んでいた本をいきなりバタンと閉じると芝生に寝そべっていた腹の下に隠してしまった。しかし驚きすぎたのか、横に積み上げられた本はそのままにされている。顔色がさっと変わったのはおそらく、それこそ驚いたせいによるのだろう。
「……なんだ、刑事さんか」
「隠さなくてもいいだろう。勉強熱心なことは良いことだ」
両膝に手をついて腰をかがめたイーデンが気安く笑うと、青白い肌の少年はなざぜかますます表情を険しくして、なんとも居心地の悪そうな顔つきになった。
本人が家出の常習犯であり、さらに今回の水死体の第一発見者でもあるという事情もあったからなのかもしれない。もっとも警察官と一緒にいて緊張するなというほうがどだい無理な話かもしれないが、どちらにしたところで今更イーデンが職業を変えることもできないというのも現実だ。
「たいした内容じゃない、子供でも読める」
オットーはそう言ってから、腰をかがめるようにして自分の顔をのぞき込んでくるイーデンの視線から顔を背けた。
「捜査の現場を第一発見者が見に来ていて、素知らぬふりをしろというほうが無理がある。まだ昨日の今日なんだから、疑ってくださいと言っているようなものじゃないか」
冷静なイーデンの指摘に、けれどもオットーはますます眉間のしわを深く刻み込んでから不機嫌な顔つきで考え込んでしまった。
ちなみにイーデンがほとんど気配もなくオットーに歩み寄ったことには、少年の方は気がついていないようだ。こんな大男が近づいてくることに気がつけなかったと言うことを、失態だとでも思っているのだろうか。
「本気でわたしを疑っているのか? だいたいわたしくらいの十代の子供ならこういった事件が身の回りで起これば何らかの興味を持ってもおかしくない。ただの野次馬根性だろう」
どこか苛つく様子でつぶやいた少年の言葉は、精神分析官や心理学者が言ったものであれば「あぁ、そんなものか」と納得できるし、そうした方面の専門家ではないイーデンが考えても「そんなもの」なのだが、いかんせん当人の口からそんな台詞が出てくるのだから、いったい誰がオットーの言葉を額面通りに受け止めるだろう。
「本当に?」
「わたしの行動は別に不自然ではない。本当にわたしが単に……、警察の捜査とやらがどんなふうに進むのか見てみたかったというのもあったし、今日は天気がいいし……、それだけだ」
時折、なにか考え込むように口ごもる彼は、だけれどもよどみのない口調で応じてから息を吐く。
確かに天気が良い。
「だが、雲が出てきた。またぞろ竜巻でも発生するかもしれない。雨合羽は持っているのか?」
「……親が持って行けとうるさい」
眉はしかめられたままだ。
なにか言いたそうにさまよった瞳は、しかし、結局言葉にできなかったのか目の前の刑事に意識を引き戻されたようだった。
「座っても? 何の本を読んでいた?」
「これは小説だ。別に高尚なものじゃない」
芝生の上の置かれた本の方に視線をやったイーデンの耳に、鋭く叱責するような声が飛んだのはそのときだった。
「……それは、駄目だ!」
ぴしゃりと告げられた言葉にイーデンは刑事の大胆さで、少年の短い腕が本を取り上げる前にさっとハードカバーのものものしげな本を持ち上げて頭上に高く上げる。
「返せ!」
さっと題字に視線を通した。
それは第二次世界大戦――東部戦線の記録か。
難解な専門書で、おそらく大学教授の論文だろう。
「子供が読むには少々刺激的だ」
少年期特有の暴力性の発露は、それほど珍しくない。死体などに対する興味も同じだ。だが、多くの場合それらの関心はより直接的な「暴力」という姿で張るとする。たとえば近代兵器や、銃器や刃物などを対象とするもので、戦車や軍艦が嫌いな男の子を探す方が大変だろう。そしてそうした暴力への関心は、少年が大人へと移り変わる時へ肉体の成長と同じように性的な衝動として発生し、認識する。
群れを支配し、その頂点へと立とうとするのはオスの本能とも言えるかもしれない。
未熟な子供たちは、動物的な本能に逆らうことはあらがいがたい。それゆえに、多くの子供たちが自分の道を踏み外していく。
それらの平凡な子供たちの性的衝動の発露と比較しても、オットーのそれは一種異様で、常識的なものではない。むしろ普通の大人であれば多感な子供たちがそんな記録に接することなど望みはしないだろう。
大人になってから知れば良いことも、世の中には山ほどある。
イーデン・エヴァーツもそんな汚い大人の世界を、成人してから知った。
かつて、世界を巻き込む大戦争があった。
そしてその戦争はありとあらゆる国々へと飛び火して、最終的にドイツとアメリカ、そしてソビエト連邦の激突という形を迎えることになった。
オットー・ダウディングが持ってきていたのは、その時の記録だ。中でも残酷な虐殺劇とささやかれるナチス親衛隊の特別行動部隊に関する報告書である。
「別に、そんなものは過去の記録だ! こんなくだらないものをわたしが持っていたと言うだけで、わたしが人を殺すことに興味を持つようなくだらない人間だと思っているなら、ひどい人権侵害だ!」
叫ぶように、言い訳するようにくってかかるオットーの、あまりの剣幕に、イーデンは驚いて瞠目した。
たかが本一冊でこんな反応を示すとは思わなかった。
ややあっけにとられたイーデンは、血相を変えてくってかかる少年の剣幕に、やれやれと首をすくめてからその両手の中に本を返してやった。
「その本のことは、その、……わたしが軽率だったから見なかったことにしてくれないか」
困惑しきってイーデンに告げる少年はほんの一瞬だけ、泣く寸前の表情になる。
不安定に揺らめく彼の心。
子供の多感さと、大人の聡明さとが同居しているようにも見える精神。
「俺にだけ、話してくれないか? ”君”が不安に思っていることを」
「……警察は信用できない」
オットーは青年刑事の言葉を受けて、右の手のひらで口元を覆って数秒考えるとぽつりとはぐらかすようにつぶやいた。
まるで、信用してなるものか、という強い意志が伝わってくるようだ。
彼はいったいなにをそんなに警戒しているのだろう。
「とにかく、刑事さんはわたしの言うことなど信用しないかもしれないが、わたしはやっていないし、……わたしはもう二度と手を汚さないと誓った。わたしは……。わたしはもうなにもかもがうんざりなんだ。悲鳴も、批難もなにもかも」
なにもかもうんざりなんだ……――。
吐き出すようにそう言って、イーデンの視線から逃れるように起き上がった彼は膝を抱えてから顔を埋めた。
嗚咽は聞こえなかったが、肩が震えた。
全てを拒絶するオットーの態度にイーデンはなんとなく――ほとんどイーデンの勘だが――彼の心の底に追った深い傷が家出を繰り返す原因となっているのではないかと思った。