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「分かっちゃいると思うけどね。私はアンタが嫌いだよ。」


 あの人はそう言って、ゆっくりと紫煙を吐き出す。


 美しい(ひと )だった。

 長い黒髪は艶やかで、夜のように深く濃く妖艶で怪しい。抜けるような白さの肌と相まって、儚げで近づき難い雰囲気を周囲に巻き散らしている。


「紺。」


 あの人がボクの名前を呼ぶ。


「私はアンタが嫌いだ。愛しちゃいるけどね。アンタが嫌いだよ。」

「ボクはあなたが大好きですよ。」


 あの人は鼻で笑い、続ける。


「…知ってるよ。だから、だから言葉にしてるんだよ、アンタが嫌いだって。アンタに侵食されないように、ね。」


 あの人の両目がボクを見つめる。何を考えているのか分からない真っ黒な瞳。


 ボクはいつも…あの人の眼を見つめ返す振りをして、あの人の泣きボクロを見つめる。自分と同じ位置にある自分との共通点。そんなことが堪らなく嬉しい。


「アンタは私と同じだよ。似ているんじゃ無くて、同じ。厄災の体現だ。アンタはそこに在るだけで、周りの人間を全て不幸にする。アタシと同じ。違うのは性別とアンタが私の息子だってことくらいだ。」


 言って、あの人は灰を落とす。


「そんなことは知っていますよ。…どうして突然そんな事を?」

「はは、そうか。確かに突然だね。どうしてだろう。私もやはり人間だったという事かな。」

「意味が分かりません。」


「今はまだ良いよ。いずれ分かる事だ。…所詮アンタも私と同じなのだから。」


 あの人は懐かしむように遠くを見つめる。


「アンタは一体どんな答えを見つけるんだろうね……。」


 零れ出た言葉を飲み込もうともせずに、あの人はそれっきり口を閉じてしまった。


 当時五歳の俺にあの人を問いただす事などできる筈も無く、いや今でも無理か。結局、俺がその時の会話を思い出したのはその会話から三年後、あの人の葬式の時だった。






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 見つめると夜の内に降り積もった雪が光を浴びてきらきらと乱反射をして綺麗だった。誰もこんな道端の雪になど目を落としたりはしないだろうケド、早朝の為まだ誰にも踏み荒らされていない一面、雪の世界は雨上がりの世界に似て、浮世離れした幻想的な光景が広がっている。


「ごめん、お待たせしちゃって。」

 彼女は懸命に玄関から車椅子を漕ぎながら言う。


「言うほど待ってない。」

 俺の言葉に彼女は小さく微笑む。

 俺はワゴンのドアを開け、彼女を迎える準備をする。本当は直ぐにでも彼女の後ろに回り車椅子を押してやりたいのだが、それを彼女が良しとしないことは身に染みて知っている。

 …何度も、何度も怒られた。「私は私の出来ることまで、誰かに遣って貰おうなんて思ってないわ。」なんて…。彼女は俺が世話を焼きたがっている事も理解している。だから、彼女は玄関から車までの間の雪を掃き、お湯を掛けて氷を溶かしておいた事に気付いていても俺に何も言わない。気が付かなかった振りをして、俺を許してくれている。


「隣でも良い?」

「あいよ。」

 彼女を抱えて助手席に座らせる。

何度目か分からないお姫様抱っこに未だに「きゃー。」なんて嬉々とした声を上げられる彼女に感心しながら、手早く車椅子を後部座席に片し、車を発進させる。


「ねえ、紺クン。お義父さんは?」

「さあ?知らんけど。」

「えー、昨日電話で話したら見送りに来てくれるって言ってたのにな。」

 ぷんすか。って擬音が似合いそうだな。

「なら、携帯の電源切っとか無きゃな。」

「なんで!」

「親父が見送りに来たら鬱っとおしいだろ。」

「騒がしくはあるね。」

 なはは。と苦笑がもれる。


「でもダメだよー。お父さんのことをそんな風に言っちゃ。」

「…分かってる。」

 それは彼女が十五の時だったらしい。

 別居していた彼女の父親が彼女と口論となり、彼女と彼女の母親を包丁で刺した。彼女は母親を守るようにして背中を刺され、彼女の足は動かなくなった。

 …もう戻ってくることのない母親と自分の両足とに彼女がどのように踏ん切りを付け、前を向いているのか、俺は知らない。簡単に触れても良い話でもないし、変に気を使うのも違うように感じるからだ。それに俺達はもう、…家族なのだから。


「それにしても、新婚旅行が出来て良かったね。」


 彼女は付箋でいっぱいになっているガイドブックを開ける。

『余すトコ無く教えるぜ、開いて見ようや!ドイツ版』なんてタイトルをこのガイドブックに付けた奴を少し見てみたい気もする。買った奴が隣にいるのは目を伏せてだが。


「紺クンも私も新婚旅行なんて面倒苦さがるタイプだもんね。」

「付箋たっぷりのガイドブック片手に言われてもな。」


 つい口を付いて出た言葉に彼女の目が細くなる。


「はっはーん。よく言うわね。私が調べなきゃホントに、ただ仕事して帰って来るだけだったくせに。」

 俺は苦笑を隠さないで無言の返事をする。


「やっぱドイツといったらビールよね。ビールとウインナー。」

「その辺は、アレだろ。一応歓迎パーティもあるみたいだから、そっちで出るだろ?」

 彼女の眼がキラリと光る。


「ふっふっふ。甘いよ、甘甘だよ。宮崎産完熟マンゴーくらいの糖度だよ。個人経営の大衆居酒屋で飲んでこその地ビールなんだよ。紺クンが仕事をしている間に私はれっつらドンなんだよ。」

「昼真っから飲むつもりか?」

「昼から飲んで、夜は歓迎パーティでフィーバーだよ。」

「…止めなさい。」

 本当にやりかねない、という思いで柔らかく制しておく。


 彼女は、頬杖をついて外を見る。


「冗談だよ、私にとってお酒なんてザルだからね。一人で飲んで、…酔えもしないお酒が楽しいわけもないよ。」


 俺は目を伏せ、今一度進行方向に注意を向ける。今自分が隣りに乗せている存在がどれ程自分にとって大切な存在なのか、護りたい人なのか。彼女の言葉の影に気が付く度に、強く思い起こさせられる。


「前に紺クンは言ったよね。自分は本当に人なのか分からない、って。」

「…言ったな。」

「私は、紺クンはもうどうしようもなく人らしいと思うよ。」


 彼女は窓の向こう側の世界から目を離さない。


「人が人たる根源は、人で在りたいと願う心だと私は、思う。私は一人の人として、紺クンの隣りに在りたいと思うから。」


 対向車線に車の姿は無い。早朝のまだまだ薄暗い世界に二人、人工灯に照らし出され、まるでこの世界には二人だけしか存在していないような奇妙な焦燥感と温かい満足感に包まれる。


「…俺は、」

 自分は幸せだ、とそう伝えたかった。自分の存在を認めてくれる人が、隣りにいる自分は本当に幸せなのだと言葉にして伝えたかった。

…だが、言葉が音としてこぼれる前に、それは起こった。


 視界に入り込む、辺り一面の明滅。


「地面が、光ってる…?」

 呟くような言葉は、自分の言葉だったのか、彼女の言葉だったか。


 幾何学的な数式のような何かが、地面を埋め尽くし蒼白く光る。


「……っ!」 

 不自然を絵に描いたような違和感に吐き気がする。背筋を悪寒が駆け昇り、声にならない声が漏れた。


 唐突に身体が座席へと縫い付けられる。ぎしぎしと軋む音が車内に響き、浮遊感浮に変わる。

タイヤのスキール音は響かない。慣性に揺さぶられ、どこからか生じた破裂音を聴いた。窓の外の世界は空と地の上下が逆転している。





 漸く静止した世界で暖かい物が身体から滴り落ちる。ぽたぽたという音はいつしかぴちゃぴちゃという音に変っている。

「は………っ。」

 身体は変形した車内に囚われ、視界には赤い色が灯っている。幸いなのか痛みは感じない、どころか頭に靄が掛かっており全ての感覚が酷く曖昧で霞んでしまっている。



「……う、…っん。」

 静寂に微かな音が射す。

導かれるように顔を向け、なんとか彼女を視界に納める。

「……くそ。」

 総てが全て不愉快不あった。ここに至った現状も二人ここに居る現状も、訳が分からないという怒りとこの場に在る全ての事象にする怒りと、それをどうすることも出来ない自分自身に腹が立って仕方がない。


「…くそっ。」

 身体中に走る痛みを無視して、必死に彼女に手を伸ばす。拉げたフレームも割れた車窓の破片も関係ない。邪魔をするモノは引き剥がしこじ開け、押し退ける。


…あと少し、あと少しで彼女に触れられる。

それで何がどうなる訳でもない。それでも手を伸ばさずにいられない。

「……ああ、ああ。」

吐き出した息は白く染まり、地面からせり上がってきた淡い光にのまれ見えなくなる。

「ああ、ああ……っ。」

 光が強くなり、視界も、音も、慟哭すらも飲み込んで、

そして…。






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