9
翌朝。
玲奈が来てから初めての朝を迎えた。
リビングには、昨晩玲奈が広げた荷物がまだ少し残っているが、陽菜の機嫌はすこぶる良い。
やはり女性の手があるというのは、それだけで家の中が明るくなる気がする。
「悪い玲奈、ゴミ出してきてくれないか? 同じ階にゴミ出すとこあるから、そこに置いといてくれればいい」
俺は陽菜の着替えを手伝いながら、ソファでスマホをいじっている妹に声をかけた。
「ふーん。タワマンって凄いね。24時間ゴミ出し放題ってやつ?」
「まあな。もっと良いとこだと、部屋の前に出すだけで回収してくれるコンシェルジュサービスもあるらしいけどな」
「へえー、さすがエリート。これ一つ?」
「ああ、頼む」
「はーい」
玲奈は軽い調子でゴミ袋を掴むと、サンダルを突っかけて部屋を出て行った。
◇◆◇
「……切り替えないと。仕事仕事」
私は自分の頬をパンパンと叩いた。
昨日の夜は、あまり眠れなかった。
目を閉じると、佐伯さんがあの女性を抱きしめている光景がフラッシュバックして、胸が締め付けられたからだ。
でも、今日は仕事だ。
子供たちの前では、笑顔でいなければならない。
私は深呼吸をして、ゴミ袋を手にドアを開けた。
廊下に出る。
その時だった。
「あっ……」
息が止まるかと思った。
数メートル先、同じ階にあるゴミ置き場の方から、一人の女性が歩いてきた。
派手な部屋着に、ラフなまとめ髪。
昨日の人だ。
佐伯さんの……恋人。
彼女の手は空だったが、ゴミ置き場から戻ってくるということは、そういうことだ。
佐伯さんの部屋のゴミを出しに来た。
(お泊まり、したんだ)
当たり前の事実が、鋭いナイフのように胸を抉る。
一緒に夜を過ごして、朝を迎えて。
まるで夫婦のように、当たり前の顔をしてゴミ出しをしている。
その日常感が、私と佐伯さんの間にある「超えられない壁」を突きつけてくるようだった。
「あ、おはようございまーす」
彼女が、私に気づいて声をかけてきた。
屈託のない、明るい声。
自分がこの場所の「主」であることに、なんの疑いも持っていない余裕のある声。
「お、おはよう、ございます……」
私は震える声で、精一杯の挨拶を返した。
逃げ出したい。
今すぐ部屋に戻って、鍵をかけたい。
すれ違いざま、彼女が足を止めた。
「……んっ? ……2104……」
「えっ?」
彼女が私の部屋番号を呟いた。
驚いて顔を上げると、彼女はジッと、値踏みするように私を見ていた。
大きな瞳が、私の頭のてっぺんから爪先までを観察している。
「……な、なにか……?」
「いえ、なんでも」
彼女はニカっと笑うと、そのまま2102号室――佐伯さんの部屋へと向かっていった。
私は呆然としながらゴミを出し、逃げるようにエレベーターホールへと向かった。
ボタンを押して、振り返る。
廊下の奥。
佐伯さんの部屋の前で、彼女がまだこちらを見ていた。
そして、私と目が合うと、ニコニコと微笑みながら小さく手を振ったのだ。
(……何、今の……?)
なんで、私に手を振ったの?
余裕の表れ?
それとも、『お隣さん、いつも彼がお世話になってます』っていう挨拶?
どちらにしても、私には勝ち目なんてない。
あんなに堂々としていて、綺麗な人。
ズキズキと痛む胸を抱えながら、私は到着したエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まる瞬間まで、彼女の笑顔が焼き付いて離れなかった。
◇◆◇
「ただいまー」
玲奈が部屋に戻ってきた。
「ありがとな。助かった」
「……んー。うん」
玲奈の返事が、どこか上の空だ。
いつもなら「ジュース一本ね」とか軽口を叩くはずなのに、妙に考え込んでいるような顔をしている。
「ん? お前、なにかあったか?」
「……ねえ。小日向さんって、2104、だっけ」
「ん? ああ。そうだけど」
俺が頷くと、玲奈は「ふーん」と意味深に呟き、ニヤリと口角を上げた。
「……?」
「陽菜ちゃ〜ん! 玲奈おねぇちゃんでちゅよ〜! 今日も可愛いね〜!」
玲奈は急にテンションを上げ、陽菜に抱きついた。
なんだ? 情緒不安定か?
その時、俺のスマホがピロンと鳴った。
小日向さんからのLINEだ。
『今日も、お仕事頑張ります。陽菜ちゃんは変わりないですか?』
いつも通りの、丁寧な文面。
でも、どこか他人行儀な感じがする。
『気を付けて行ってきてくださいね。陽菜はご機嫌ですよ』
そう返すと、すぐに返信が来た。
『そうなんですか。あやすのが上手い人でもいるんですかね?』
……んっ?
あやすのが上手い人?
え、俺?
いや、それにしては言い回しが妙な気も。
というか、なんか、いつもとLINEの感じが違う。
昨日の『後日で!』という断り方といい、今日の文面といい。
その時、ふと背中に視線を感じた。
振り返ると、玲奈が俺のことをジッと見ていた。
目が合った瞬間、フイっと逸らされる。
「……」
「玲奈、お前さ、小日向さんと会った?」
陽菜をあやしていた玲奈の手が、ピタリと止まる。
「なんで?」
「いや……なんとなく」
「なんとなくで、そう思うんだ」
玲奈は試すような目で俺を見る。
「別にいいだろ。なんか、小日向さんのLINEが変だからさ……気になって」
「変って、どんな?」
「……よそよそしいっていうか……なんか、いつもより距離があるっていうか」
「……ふーん」
玲奈の反応もおかしい。
ゴミ捨てから帰ってきてから、明らかに何かが変わっている。
「お前、本当に会ってない?」
「会ったよ」
玲奈はあっさりと白状した。
「2104から出てくるの見たから、間違いないと思う。清楚で可愛らしい人だった」
「……えっ?」
「挨拶したよ。おはようございますって」
「そ、それだけ?」
「…………お兄ちゃんさ」
玲奈は陽菜をベビーベッドに戻すと、真剣な顔で俺に向き直った。
「私がいること、言ってあるよね?」
「……ん? ……いや」
俺はLINEの履歴を遡る。
昨日のやり取り。
『明日は都合が悪い』と言われて、『分かりました』と返しただけだ。
妹が来たなんて、一言も書いていない。
「……言ってない、な」
玲奈は天を仰ぎ、今日一番の大きなため息をついた。
「……終わってるわ」
「は?」
「……お兄ちゃんさ、本当に気をつけた方がいいよ」
「な、なにが……」
「LINEが変だったって、具体的にどんな風に変だったの?」
「それは言えない。個人のやり取りなんだから」
「……『一人なんですか』とか、『誰かいるんですか』とか、聞かれなかった?」
ドキッとした。
『あやすのが上手い人でもいるんですかね?』
確かに、そう聞かれたようなものだ。
「……いや、直接は聞かれてないが……似たようなことは」
「……ふーん。やっぱり」
玲奈は腕を組み、やれやれと首を振った。
「お前、さっきからなんなんだ。言いたいことがあるなら言ってくれ。言ってくれなきゃわからないだろ!」
「そういうとこだよ」
「……えっ?」
「デリカシーないね。本当」
玲奈の目が、ゴミを見るような目に変わった。
実の妹にここまで言われる筋合いはないと思うのだが。
「どういう……」
「小日向さんのこと好きなら、なんで言わないの? 私が来てること」
「えっ……? 別に言う程のことでも……」
妹が遊びに来ただけだ。
わざわざ報告するようなことでもないだろう。
それに、話の流れ的に言うタイミングもなかったし。
いきなり自語りみたいに「妹来てます!」なんて言うのも変な気がするし。
「……その程度でしか想ってないなら、やめちゃえば。会うの」
玲奈の声が、低く冷たくなった。
「は、はぁ!?」
「小日向さんに失礼だよ。もっと大事にしてあげてよ」
「な……俺だって大事にしてるつもりだ!」
「つもり、でしょ。相手を不安にさせてる時点で、大事になんてできてない」
玲奈は一歩、俺に詰め寄った。
「私だったら、嫌だよ。知らない女が、気になってる人の家に入り込んでるのを見るの。しかもお泊まりして、朝からゴミ出しまでしてんの」
「気になってる……?」
そこでようやく、俺の思考が繋がった。
小日向さんが、俺のことを気にしてくれている?
そして、玲奈と俺がいるのを……どこかで見かけて、まさか、こいつを彼女だと勘違いしている!?
「……あ」
昨日のLINEの『今日は都合が悪い』。
あれは、俺が誰かと一緒にいるのを察して、遠慮したのか?
そして今の『あやすのが上手い人』というのは……。
血の気が引いた。
「気づいた? おっそ」
玲奈がジト目で見上げてくる。
「……お兄ちゃん。今から作戦会議をはじめます」
「……はあ!?」
「はあ!? じゃないでしょ。誤解解かないと、このまま終わるよ? それでもいいの?」
だめです。
よくない。
絶対に、よくない。
俺は玲奈の前に正座した。
「……お願いします。ご指導ご鞭撻のほど」
「よし。まずはその終わってる鈍感な頭を叩き直すところからね」
玲奈の目が、かつてないほどキラリと光った。




