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『分かりました! 気にしないでください! 明日は私、少し都合が悪いので、また後日で!』
小日向さんから届いたLINEを見て、俺はため息をついた。
(……明日は会えないのか)
残念だ。
こんなことなら、今日会えますって言うべきだった。
玲奈がいたら小日向さんが落ち着かないと思って断ったけど……。
こっちから、小日向さんの家で会いたいですなんて言うのも変だし。
かと言って家に呼べば、玲奈がいるし。
小日向さんの顔を見ないと、なんだか一日が終わった気がしないというか、調子が出ないというか。
会いたかったなぁ。
俺がスマホ画面を見つめてため息をついている横で、パシャパシャとシャッター音が鳴り響いている。
「やばい! 可愛い! 今のあくび見た!? 天使じゃん!!」
玲奈がスマホを構え、ベビーベッドの中の陽菜を連写していた。
さっきまでの涙はどこへやら、完全に「叔母バカ」モードに突入している。
「……お前、切り替え早いな」
「だって! こんなに可愛いんだよ!? お姉ちゃんの小さい頃にも似てるけど、目がパッチリしてるところは義兄さん似かなぁ。はー、尊っ」
「まあ、元気になってなによりだ」
俺は苦笑しながら、小日向さんに返信を打った。
『分かりました。俺はいつでも空けておくので、いつでも言ってください! おやすみなさい』
送信ボタンを押す。
既読はすぐについたが、返信はない。
忙しいのかな。それとも、疲れて寝てしまったのかもしれない。
「……ふぅ」
俺はキッチンでコーヒーを淹れ、ソファに腰を下ろした。
「お前、コーヒーいる?」
「甘い?」
「苦い」
「じゃあいらない」
「はいはい。相変わらずお子ちゃまだな」
玲奈も撮影会をひとまず終えたのか、俺の向かいに座る。
「……ねえ、お兄ちゃんさー」
玲奈がジトッとした目で俺を見てきた。
「ん?」
「彼女できた?」
「ぶっ!」
俺は思わず、口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。
「ちょっ! きたなっ!」
「お、お前何言い出すんだ! いきなり!」
俺はティッシュで口元を拭いながら抗議した。
「いや、だってさ。お兄ちゃん、あんな可愛いお皿使わないでしょ」
玲奈が指差したのは、キッチンの水切りカゴに置かれた一枚の深皿だ。
パステルカラーの、花柄があしらわれた可愛らしいデザイン。
俺の趣味であるモノトーンの食器たちの中で、そこだけメルヘンに異彩を放っている。
「そ、それは……」
昨日、「肉じゃがを作りすぎたから」と小日向さんがおすそ分けに持ってきてくれた時のお皿だ。
洗って返そうと思っていたのを忘れていた。
「……なーんか、この部屋、女の影を感じるんだよね。洗面所にも、なんかいい匂いのするハンドソープあったし」
「……べ、別にお前に関係ないだろ」
「ふーん? そう返すってことは、いるんだ。彼女」
玲奈がニヤニヤしながら身を乗り出してくる。
「か、彼女は……いない」
「……彼女『は』?」
「お前、なんなんだよ! 詮索しすぎだろ!」
「どんな人?」
「……」
「さっきからLINEポチポチしてる人?」
「お前……エスパーなのか?」
図星を突かれて、俺は言葉に詰まった。
玲奈は「やっぱりね」と鼻を鳴らし、ニヤニヤしながら面白そうに頬杖をつく。
「気になるだけよ。あのお兄ちゃんが、仕事以外の誰かと連絡取ってるなんて珍しいし。……で、どんな人なの?」
どんな人、か。
俺は少し考えてから、正直に答えた。
「……優しい人だ。陽菜のことを本当によく可愛がってくれて、育児のことも教えてくれて……陽菜の恩人でもある」
「……恩人?」
俺は、小日向さんとのこれまでの経緯を玲奈に説明した。
俺が育児に失敗して追い詰められていたこと。
閉め出された夜に助けてくれたこと。
それからずっと、俺と陽菜を支えてくれていること。
話し終えると、玲奈はポカンと口を開けていた。
「……マジで言ってんの? お兄ちゃん、それ」
「……? なにがだよ」
玲奈は天を仰ぎ、深い深いため息をついた。
「い……いやいやいや……信じらんない」
「はぁ?」
「……嘘でしょ……2人ともがこんなに鈍感なことってあるんだ……」
「お前こそ何言ってるんだよ。小日向さんは親切な隣人だよ。俺みたいな子持ちのおっさんにも優しくしてくれてさ」
「はー……。あのねぇ、お兄ちゃん。世の中の『ただの隣人』は、肉じゃがのおすそ分けなんてしないし、毎晩LINEもしないのよ。頻繁に会ったりもしない」
「それは、彼女が子供好きで、陽菜のことを気に入ってくれてるからだろ!」
「……ダメだこりゃ」
玲奈は大袈裟に肩をすくめた。
何がダメなのかさっぱり分からない。
俺は事実を述べただけだ。
「……ま、いいや。陽菜ちゃんのこと大切にしてくれる人なら」
「ああ。すごく可愛がってくれてる。自分の子供みたいに」
「はいはい。ごちそうさま」
玲奈は呆れたように手を振った。
「とにかく、私はしばらくここにいさせてもらうからね。家事も育児も手伝うし、その『小日向さん』への恩返しも、私が手伝ってあげよっか?」
「恩返し?」
「そ。恋愛偏差値ヤンキー高のお兄ちゃんの代わりに、私がいろいろ見定めてあげるってこと」
玲奈は不敵な笑みを浮かべた。
嫌な予感がする。こいつがこういう顔をする時は、ろくなことを企んでいない時だ。
「なにもしなくていい。小日向さんとのことはほっといてくれ」
「はいはい」
玲奈の表情が、ふと真面目なものに戻った。
彼女は、眠る陽菜の方を優しく見つめた。
「……お兄ちゃんが一人で頑張ろうとしてたのも、限界だったのも……私がそばにいなかったからだよね。ごめんね。家族なのに」
「気にするな。お前は自分の体調を治すのが先決だったんだから。それに、お前は学生だろ。お前がそもそもまだ子供だろうが」
「うん。……でも、その小日向さんには、本当にお礼言わなきゃね。私にとっても、恩人だわ。姪っ子を助けてくれたんだから」
そう言って微笑む妹を見て、俺は少し安心した。
なんだかんだ言っても、こいつは家族思いのいいやつなのだ。
「ま、お前が変なこと言わないって約束するなら、今度紹介するよ」
「うん、楽しみにしてる」




