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その日は、朝から曇り空が広がっていた。
陽菜がお昼寝に入り、俺が一息ついていると、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。
画面を見ると、『玲奈』という文字が表示されている。
『お兄ちゃん。もうすぐマンションつくよ。迎えきてよ』
『オートロック開けるから上がって来てくれ。陽菜が寝てるから離れられない』
そう返信すると、すぐに既読がつき、秒速で返事が返ってきた。
『いや、エスコートできない男は嫌われるよ。あと荷物多いから、来て』
……相変わらずだな。
俺はため息をつきながらも、仕方なく立ち上がった。
陽菜はぐっすり眠っている。ベビーモニターをスマホと連携させ、急いで玄関を出た。
エントランスに降りると、ちょうど一台のタクシーが横付けされたところだった。
トランクから運転手さんが大きなスーツケースを降ろしている。
一つ、二つ……三つ。
「おいおい……」
呆れている俺の前に、タクシーから一人の女性が降りてきた。
サングラスを外し、派手なコートを翻すその姿。
少し痩せたようだが、勝気そうな瞳は変わっていない。
「久しぶり」
「ああ。……てかお前、荷物多すぎだろ。家出でもしたのかって」
俺がスーツケースの山を指差すと、玲奈は悪びれもせず言った。
「女の子は色々あんのよ。お土産も詰まってるんだから感謝してよね」
「さっさと部屋戻るぞ。陽菜が起きるかもしれない」
「……」
玲奈の表情が、ふっと曇った。
さっきまでの強気な態度が消え、どこか儚げな色が浮かぶ。
「……お兄ちゃん」
玲奈が俯き、震える声で俺を呼んだ。
「ん? どうした」
「……お姉ちゃんに……会いたかった……」
その言葉は、俺の胸をも鋭く突き刺した。
玲奈は、姉ちゃんのことが大好きだった。
体調を崩して帰国をドクターストップされていた玲奈は、葬儀にも出られなかった。
一番辛かったかもな。
「……うん」
「うぅ……っ、ぐすっ……」
玲奈の大きな瞳から、ポロポロと涙が溢れ出した。
張り詰めていた糸が切れたように、玲奈は俺の胸に顔を埋めてきた。
俺は、背中に手を回し、優しく頭をポンポンと撫でた。
昔、泣き虫だったこいつをあやしていた時のように。
「よく帰ってきたな。まずはゆっくり休め」
「うん……ごめん……」
◇◆◇
「ふぅ……。今日は陽菜ちゃん、起きてるかな〜」
マンションのオートロックが見えてきて、ふと足を止める。
見覚えのある、背の高い男性。
佐伯さんだ。
「あ、佐伯さ……」
声をかけようとして、その言葉は喉の奥で凍りついた。
「……えっ?」
佐伯さんは、一人ではなかった。
彼の胸には、女性がしがみついていた。
派手なコートを着た、とても綺麗な、若い女性。
佐伯さんは、その女性を優しく抱きしめ、愛おしそうに頭を撫でている。
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
私は反射的に、柱の陰に身を隠してしまった。
見てはいけないものを見てしまったような。
あるいは、見たくない現実を突きつけられたような。
(……誰?)
あんなに親しげに。
あんなに優しく。
女性は泣いているように見えた。
佐伯さんは、何かを囁きながら、ずっと彼女の頭を撫でている。
私には見せたことのない、甘い表情で。
「……恋人……なのかな」
ポツリと、独り言が漏れる。
……なんだろうこの気持ち。
胸の奥が、ぎゅっと握りつぶされるように痛い。
息が苦しい。
なんで私、隠れてるんだろ。
ただの隣人なら、「こんばんは」って挨拶して通り過ぎればいいのに。
でも、足が動かない。
(……そうだよね、佐伯さんみたいに素敵な人に、恋人がいたっておかしくないよね)
独身で、イケメンで、優しくて。
私なんかが「いい雰囲気」だなんて思ってたの、馬鹿みたいだ。
あの「嫌じゃなかった」なんてセリフ、ただの自意識過剰な勘違い女の戯言だったんだ。
しばらくして、二人は離れた。
女性が涙を拭い、佐伯さんが笑顔で何かを言いながら、三つの大きなスーツケースを運び始める。
二人は寄り添うようにして、エントランスに入っていった。
「…………そう、だよね」
私は一人、立ち尽くしていた。
◇◆◇
自分の部屋に入ってからも、胸のモヤモヤは晴れなかった。
お風呂に入っていても、シャワーの音に混じって、あの二人の姿がフラッシュバックする。
泣いている女性を抱きしめる佐伯さんの手。
私に向けられたものとは違う、特別な優しさ。
「……はぁ」
バスタブの中で膝を抱える。
考えなくていいことばっかり考える。
あの人は、誰なんだろう。
どんな関係なんだろう。
お風呂から上がっても、髪を乾かす気にもなれず、ぼんやりとスマホを眺めていた。
その時、通知音が鳴った。
画面に表示されたのは、『佐伯優真』の文字。
ビクッと肩が跳ねる。
『小日向さん? まだ仕事中なんですか?』
あ……。
いつもなら、帰宅したら「帰りました」ってLINEを送るのに。
今日は、ショックで送るのを忘れていた。
どうしよう。
なんて返せばいい?
「見てました」なんて言えるわけがない。
『すみません! 送れたと思ってたら送れてませんでした! 今お風呂に入ってますよ!』
……嘘をついた。
指先が震える。
こんな嘘、つきたくなかったのに。
あのスーツケースの数。
これから、佐伯さんの部屋に泊まるのだろうか。
陽菜ちゃんと、佐伯さんと、あの人と。
三人で過ごす夜を想像して、胸がズキズキと痛む。
そんな事ばかり考えていたら、すぐに返信が来た。
写真付きだ。
『もう帰ってたんですね! 良かったです。今日もお疲れ様でした。今日の陽菜送ります』
送られてきたのは、スヤスヤと眠る陽菜ちゃんの写真。
その天使のような寝顔に、少しだけ心が救われる。
「ふふっ。笑ってる。可愛い」
でも、この写真を撮っている佐伯さんの隣には、きっとあの人がいる。
『可愛いです。……あの、今日ってこのあと空いてたりしますか?』
送信ボタンを押してから、ハッとした。
何送ってんだ、私。
これじゃまるで、探りを入れてるみたいだ。
最低だ。
返信を待つ時間が、永遠のように長く感じる。
既読がついた。
そして。
『ごめんなさい! 今日はちょっと。でも、明日なら全然空いてますよ!』
ズキン。
胸が、決定的に痛んだ。
今日はダメ。
やっぱり、そうなんだ。
あの人が来ているから。
あの人と、水入らずで過ごすから。
……お泊まり、するのかな。あの女の人。
涙が滲んでくるのを、必死にこらえた。
分かっていたことだ。
私はただの、都合のいい隣人。
育児を手伝ってくれる、便利な保育士さん。
それ以上でも、以下でもない。
『分かりました! 気にしないでください! 明日は私、少し都合が悪いので、また後日で!』
また、嘘をついた。
明日の予定なんて、なんにもない。
仕事が終われば、真っ直ぐ帰ってくるだけだ。
できるだけ、佐伯さんと陽菜ちゃんのために時間は空けてある。
……会いたいから。
でも、明日は会いたくない。
あの人の匂いがする佐伯さんになんて、会いたくない。
私はスマホを伏せ、ベッドに潜り込んだ。
暗い部屋の中で、閉じた瞼の裏に、佐伯さんが誰かを抱きしめる姿が焼き付いて離れなかった。
「……何考えてんだろ、私」




