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あの公園デビュー以来、俺と小日向さんの間には、何とも言えない微妙な空気が流れていた。
気まずい、というのとは少し違う。
むしろ、以前よりも親密さは増しているはずだ。
育児の相談は毎日のようにしているし、食材のお裾分けもしょっちゅうだ。
ただ、ふとした瞬間に目が合うと、お互いにパッと逸らしてしまったり。
物を手渡す時に指先が触れないように、妙に慎重になってしまったり。
会話の途中で訪れる沈黙が、妙に甘ったるく感じてしまったり。
あの時、公園からの帰り道で手が重なった感触を、俺たちはまだ引きずっていた。
まるで思春期の中学生だ。
32歳にもなって何をやっているんだと自分でも思うが、意識すればするほど、ドツボにハマっていく気がする。
そんな、ある平日の夕方。
俺たちは、マンションの近くにあるスーパーマーケットに来ていた。
最近は、小日向さんと買い物することが増えた。
お互い一人暮らしで(俺には陽菜がいるけど)野菜やら何やらをシェアできるのはいい事だからと小日向さんから言ってきたからだ。
おかげで、俺は野菜の摂取量が増えて健康的になってきた気がする。
「佐伯さん、今日の夕飯はポトフにしましょうか。お野菜がたくさん摂れますし、陽菜ちゃんも味付け前の野菜なら食べられますから」
「了解です。……キャベツと、人参と、あとじゃがいもですね」
俺は、陽菜を乗せたカートを押しながら、小日向さんの斜め後ろをついて歩く。
この「斜め後ろ」という位置取りが、今の俺たちの絶妙な距離感を表しているようで、少しもどかしい。
手を伸ばせば触れられる距離なのに、見えない境界線があるようだ。
かつての俺なら、スーパーなんてコンビニの延長線上でしかなかった。
必要な栄養素を効率的に摂取できる惣菜か、保存の効くレトルト食品をカゴに放り込むだけの場所。
滞在時間は5分もあれば十分だったし、店内のBGMなんて気にしたこともなかった。
でも今は違う。
野菜の鮮度の見分け方を小日向さんに教わり、離乳食に使えそうな食材を裏面の成分表示とにらめっこしながら選ぶ。
それが、こんなに楽しいイベントだなんて知らなかった。
陽菜と共に、俺も成長している気がした。
野菜売り場に到着すると、小日向さんは真剣な眼差しで人参を吟味し始めた。
「あ、佐伯さん。その人参より、こっちの方が色が濃くておすすめですよ。ヘタの切り口が小さい方が、芯まで柔らかいんです」
「え、そうなんですか? 俺には全部同じに見えますけど……というか、太いほうが立派でお得だと思ってました」
「ふふ、それもアリです」
小日向さんが悪戯っぽく微笑んで、俺のカゴに艶のいい人参を入れる。
その何気ない仕草が、まるで長年連れ添った夫婦のようで――俺の心臓が、また勝手に跳ねた。
スーパーの照明に照らされた横顔。
日常の中に溶け込む彼女の姿が、どうしようもなく愛おしいと思い始めている自分が……少し嫌になった。
彼女は好意で俺に付き合ってくれているだけなのに、俺は陽菜を利用して彼女と一緒に居ることを望んでるように思えて。
「きゃっきゃ!」
カートに乗った陽菜が、陳列棚のカラフルなパッケージを見て嬉しそうに声を上げる。
足をバタつかせ、小日向さんの方へ小さな手を伸ばす。
「陽菜も人参好きか? 小日向さんが選んでくれたやつだぞー。絶対美味しいぞー」
俺が陽菜に微笑みかけながら、その柔らかい頭を撫でた、その時だった。
「あらあら、可愛い赤ちゃんねぇ」
品出しをしていた年配の女性店員さんが、目を細めて声をかけてきた。
陽菜を見る目は優しく、いかにも「子供好き」といった感じだ。
「元気でいいわねぇ。……ふふ、パパに似て目がぱっちりしてるわね。鼻はお母さん似かしら?」
「えっ」
俺は思わず動きを止めた。
パパ。
そっか、俺、もう誰から見ても陽菜のパパなんだよな。
少し前までは「不慣れな男性」に見られていただろうに、小日向さんの指導のおかげで、抱っこの仕方もあやし方も板についてきたのかもしれない。
改めてそう言われると、ちょっと誇らしい。
店員さんが続けて、俺の隣に立つ小日向さんを見て言った。
「ママも美人さんだから、将来が楽しみねぇ。夕飯のお買い物? 幸せそうでいいわねぇ。若いうちが一番楽しいのよ」
ママ。
家族。
幸せそう。
その言葉の響きに、俺の思考回路が一瞬ショートした。
俺たちが、家族に見えている?
俺と、陽菜と、小日向さんが?
チラリと隣を見ると、小日向さんが顔を真っ赤にして固まっているのが見えた。
口をパクパクさせて、何か言いかけては飲み込んでいる。
否定しなきゃ。
彼女は独身の若い女性だ。未来ある保育士さんだ。
こんな子連れの三十路男の妻だなんて勘違いされたら、迷惑に決まっている。
彼女の評判にも関わるかもしれない。
そう思うのに、口が動かない。
いや、動かしたくなかったのかもしれない。
その誤解が、あまりにも心地よくて。
俺の心の中にある「願望」が、理性を押さえつけてしまった。
「……ありがとうございます。自慢の、娘なんです」
俺は、あえて「妻」の部分は否定せず、陽菜のことだけを答えた。
肯定もしていないが、否定もしない。
卑怯な大人の対応だ。
でも、どうしても「違います」と言いたくなかった。
店員さんは「まあ素敵。お幸せにね」と微笑んで、仕事に戻っていった。
残されたのは、微妙な空気の俺たち二人。
スーパーのBGMだけが、やけに陽気に響いている。
周囲の喧騒が遠のき、二人だけの世界に閉じ込められたような感覚。
小日向さんは、俺のことをどう思ってるんだろう。
いや……陽菜のパパ、そうとしか思ってないよな。
◇◆◇
「あの……」
会計を済ませ、スーパーを出たところで、俺は口を開いた。
夕暮れの空は茜色に染まり、街には家路を急ぐ人々の姿がある。
冷たい風が吹いたが、俺の頬は熱いままだ。
「すみません、変に誤解させてしまって。……すぐに否定すればよかったんですが、とっさのことで」
俺が慌てて謝ると、小日向さんは赤くなった頬を隠すように俯いたまま、黙り込んでしまった。
やっぱり、嫌だっただろうか。
迷惑だっただろうか。
俺のような男と夫婦だなんて思われて、傷ついただろうか。
俺の心臓が、嫌な音を立てる。
調子に乗った自分を殴りたい。
「……ご迷惑でしたよね。次からは、ちゃんと訂正しますから」
言い訳のように重ねると、彼女が小さく首を横に振った。
「……いえ」
「え?」
「その……嫌じゃ、なかったので」
蚊の鳴くような、消え入りそうな声。
でも、俺の耳には、その言葉がはっきりと届いた。
車の走行音にかき消されそうなほど小さな声だったけれど、確かに彼女はそう言った。
「え……?」
俺は思わず足を止めた。
小日向さんも立ち止まり、でも俺の方を見ようとはしない。
夕日のせいだけじゃない。彼女の耳まで真っ赤に染まっている。
嫌じゃ、なかった?
それって、どういう意味だ?
俺と家族に見られることが?
俺の妻だと思われることが?
期待と不安が入り混じり、心臓が破裂しそうだ。
何か言わなきゃ。
でも、なんて言えばいい?
「あ、な、なんでもないです! さあ、早く帰りましょう! 陽菜ちゃんお腹空いちゃう!」
彼女は慌てて早口でまくし立てると、下を向いた。その横顔がどことなく嬉しそうで、でも恥ずかしそうで。
「……っ」
俺は、高鳴る心臓を押さえながら、彼女の後を追った。
嫌じゃなかった。
その言葉を、反芻する。
何度も、何度も。
その言葉の意味を、都合よく解釈してしまいそうになる自分を必死に抑え込む。
期待していいのか?
彼女も、少しは俺のことを……?
会話はなかったけれど、沈黙は重苦しいものではなかった。
重たいレジ袋を持つ俺の左手と、彼女の右手が、触れそうで触れない距離で交差する。
でも、お互い距離を取ろうとはしなかった。
アスファルトに伸びる二つの影が、時折重なり合うのを、俺は愛おしく見つめていた。
このまま、家まで着かなければいいのに。
そんな、叶わない願いを抱きながら。




