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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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4

 

 小日向さんと「プライスレスな契約」を結んでから、数日が経過した。


 俺の部屋は、以前のような殺伐とした空気からは少しだけ脱却しつつあった。

 少なくとも、床に粉ミルクが散乱したり、使用済みのオムツが山積みになったりすることはなくなった。


 しかし、育児の難易度が下がったわけではない。

 陽菜は相変わらず、気まぐれで、繊細で、俺の想像の斜め上を行く怪獣だ。


 午後8時。

 寝かしつけの時間。


「……うーん、またか」


 ベビーベッドに置いた瞬間、陽菜が「ふえっ」と声を漏らし、顔をしかめた。

 いわゆる「背中スイッチ」の発動だ。


 俺はため息をつきながら、再びスマホを手に取った。

 検索窓に、慣れた手つきで文字を打ち込む。


 『生後8ヶ月 寝かしつけ 置くと泣く』

 『背中スイッチ 対策 最新』

 『赤ちゃん 睡眠時間 平均』


 画面には、膨大な情報が溢れ返る。


 『抱っこで寝かせるのはNG! 自力入眠を促しましょう』

 『いや、今は安心感を与える時期。とことん抱っこしてあげて』

 『添い乳が最強』『癖になるからやめるべき』

 『部屋を真っ暗に』『常夜灯をつけて』


 ……どっちなんだ。

 サイトによって言っていることが真逆だ。

 Aという育児書では推奨されていることが、Bというブログでは否定されている。


 俺は眉間に皺を寄せ、画面をスクロールし続けた。

 情報の海に溺れそうになる。

 正解はどこだ?


「……ネントレ、か。欧米式なら……」


 ブツブツと呟きながら、新しいタブを開こうとした、その時だった。


 ふわりと、視界に白い手が伸びてきた。

 その手は、俺のスマホの画面を優しく覆い、そのままテーブルの上に伏せた。


「だめです」


 顔を上げると、そこには小日向さんが立っている。

 今日は仕事帰りに「様子を見に来ました」と家に寄ってくれていた。


「佐伯さん。眉間のシワ、すごいことになってますよ?」


 彼女は苦笑しながら、俺の強張った肩を軽く叩いた。


「あ、すみません。どうしても寝なくて……今、最新のメソッドを調べていて……」


「その『調べる』の、一旦やめにしませんか?」


「え?」


 小日向さんは、少し困ったような、でも真剣な瞳で俺を見つめた。


「あのね、佐伯さん。できれば、ネットで調べるより前に、私に聞いてくれませんか?」


「いや、でも、小日向さんにばかり頼るのも悪いですし、自分で解決策を見つけないと……」


「ネットの情報が、全部正しいわけじゃないんです。間違った情報も多いですし、何より……」


 彼女はベビーベッドの中でグズっている陽菜に視線を移した。


「陽菜ちゃんは、『平均的な赤ちゃん』じゃありません。世界に一人だけの、陽菜ちゃんです。ネットに書いてある『正解』が、この子にとっての『正解』だとは限らないんですよ」


 ハッとした。

 言われてみれば、そうだ。

 俺はずっと、「一般的な正解」を探していた。


「……すみません。職業病かもしれません」


「分かります。不安なんですよね? 佐伯さんは。陽菜ちゃんのために何かしてないとって」


 小日向さんは優しく微笑むと、ベッドから陽菜を抱き上げた。


「ほら、陽菜ちゃん。パパが難しい顔してるから、不安になっちゃったかな?」


 彼女の腕の中に収まると、陽菜は安心したように身を預ける。

 その落ち着きようは、俺の抱っことは明らかに違っていた。


「コツを教えますね。佐伯さん、私の隣に来てください」


 促されるまま、俺は彼女の隣に立った。

 ふわりと、シャンプーのいい香りがする。


「まず、トントンのリズムです。佐伯さんはちょっと、早すぎるんです」


「早い、ですか? 心拍数に合わせているつもりなんですが……」


「もう少しゆっくり。……手、貸してください」


 小日向さんが、自分の右手を差し出した。

 俺がおずおずと手を重ねると、彼女は俺の手を自分の手で包み込み、陽菜の背中に当てた。


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 彼女の手は、驚くほど小さくて、温かかった。


「……このくらいです。とーん、とーん、って。波のようなイメージで」


「と、とーん、とーん……」


 彼女が俺の手ごと動かして、リズムを刻む。

 とーん、とーん。

 ゆっくりと、穏やかに。


「そうそう。その調子です」


 そのリズムは、俺が考えていたよりもずっと遅く、そして優しかった。


「焦っていると、どうしてもリズムが早くなっちゃうんです。大人の焦りは、赤ちゃんに伝わりますから。まずはパパがリラックスして、深呼吸して……」


 彼女の声自体が、子守唄のように心地よかった。

 俺の肩から、余計な力が抜けていくのが分かる。


 重ねられた手のひらから伝わる温もりが、陽菜の背中を通して、俺の心まで溶かしていくようだった。


「……こう、ですか?」


「はい。上手です。とっても優しい手ですね」


 褒められて、俺は耳が熱くなるのを感じた。

 こんな単純なことだったのか。

 何万件もの検索結果よりも、複雑なメソッドよりも。

 この温かさとリズムだけで、十分だったんだ。


 気づけば、陽菜はスヤスヤと寝息を立てていた。

 あんなに泣いていたのが嘘のように、安らかな寝顔だ。


「……すごい」


 俺は感嘆の声を漏らした。


「魔法みたいだ」


「魔法じゃありませんよ。陽菜ちゃんが、パパの手の温かさに安心しただけです」


 小日向さんは、そっと手を離した。

 離れた瞬間、少しだけ名残惜しさを感じてしまった自分に驚く。


「ありがとうございます、小日向さん。……俺、またロジックに逃げようとしてました。そういうのはもうやめるって決めたのに」


「いいえ。佐伯さんが一生懸命なのは伝わってますから」


 彼女はスマホを指差した。


「でも、これからは検索する前に、まずは陽菜ちゃんの顔を見てあげてください。答えは、案外そこにあるかもしれませんよ? ……それでも分からなかったら、いつでも私を頼ってください」


「はい。……約束します」


 俺は深く頷いた。

 もう、迷わない。

 俺の教科書は、ネットの中じゃない。

 目の前の陽菜と、そして隣にいてくれるこの人だ。


 俺はテーブルの上のスマホを手に取ると、ブラウザのタブを全て閉じた。

 検索履歴も、削除する。


 『最強の寝かしつけ』

 『泣き止ませる方法』


 そんな文字の羅列よりも、今、俺の手のひらに残っている温もりの方が、ずっと信じられる気がしたからだ。


「それと……佐伯さん」


「はい?」


「いつでも、本当にいつでも、LINE……待ってますから」


「えっ!? あ、は、はい……」


 なんでこんなに、ドキドキするんだろうか。


 俺って、変なおじさん?

 

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