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プロポーズから半年。
俺と詩さんは、区役所の前に立っていた。
空は高く澄み渡り、心地よい風が吹いている。
「……いよいよだね」
詩さんが、少し緊張した面持ちで俺を見上げた。
その左手薬指には、半年前に贈った指輪が馴染んでいる。
俺たちは、プロポーズの直後に婚姻届を提出し、法的にはすでに夫婦となっていた。
すべては、今日この日のため。
「……長かったような、あっという間だったような」
有馬の徹底的なサポートのおかげで、調査官の家庭訪問も、審判も、驚くほどスムーズに進んだ。
そしてついに先日、審判が確定したのだ。
「パパ、いく?」
俺の足元で、陽菜がズボンを引っ張った。
1歳7ヶ月になった陽菜は、もうしっかりとした足取りで歩けるようになり、言葉も驚くほど増えた。
意思表示もはっきりしてきて、毎日が発見の連続だ。
「ああ、行こうか陽菜」
俺はしゃがみ込み、陽菜の目線に合わせて微笑んだ。
陽菜は「あい!」と元気よく返事をして、俺の手をぎゅっと握った。
小さくて、柔らかくて、でも力強い手。
この手を引いて、俺たちは未来へと歩き出す。
◇◆◇
戸籍課の窓口。
俺の手には、クリアファイルに入った一枚の重要な書類がある。
『特別養子縁組届』だ。
これを提出すれば、陽菜は戸籍上も俺たちの「長女」となる。
亡くなった義兄さんの名字「東」から、俺たちと同じ「佐伯」の名字に変わる。
「陽菜、今日からお名前が変わるんだよ」
詩さんが、膝の上の陽菜に優しく語りかける。
「なまえ? かわる?」
陽菜が不思議そうに首を傾げる。
「そう。佐伯陽菜になるの。パパとママと、一緒のお名前だよ」
「いっしょ……!」
陽菜の顔が輝いた。
「いっしょ」という言葉の意味を、彼女なりに理解しているのだろう。
パパとママと同じ。それは、幼い彼女にとって何よりの喜びのようだった。
「ひな、パパとママと、いっしょ!」
陽菜は嬉しそうに手を叩いた。
少し前までは、姉ちゃんたちの名字を消してしまうことに、一抹の寂しさを感じていた。
まるで、姉ちゃんたちが生きた証を消してしまうような気がして。
でも、今は違う。
姉ちゃんたちはきっと、空の上で笑ってくれているはずだ。
「幸せになりなさい」と、背中を押してくれているはずだ。
陽菜が笑顔でいられる場所、それこそが、姉ちゃんたちが望んでいた未来なのだから。
「佐伯様ー」
名前を呼ばれ、俺たちは立ち上がった。
「はい、書類は全て受理されました。……おめでとうございます」
係の女性が、温かい笑顔で言ってくれた。
その一言で、肩の荷がふっと降りた気がした。
受理された。
その瞬間、陽菜は俺たちの「娘」になった。
新しく発行された住民票を受け取る。
そこに印字された文字を見るだけで、目頭が熱くなった。
『世帯主 佐伯優真』
『妻 佐伯詩』
『長女 陽菜』
たった数行の文字列。
けれど、ここには俺たちが積み重ねてきた日々の全てが詰まっている。
苦しかった夜泣きの日々も、初めて笑い合った日も、この一枚の紙の上に結実している。
涙が出そうになる。
「……佐伯、詩。佐伯、陽菜」
詩さんが、新しい名前を指でなぞりながら呟いた。
「なんか、不思議な感じ。本当に……陽菜が……。……すごく、嬉しい」
「俺も。……これで、俺たち、本当の家族になれたんだ」
「ふふ、そうね。……よろしくお願いします、あなた」
彼女が悪戯っぽく呼び方を変える。
その響きに、胸がキュンと鳴った。
「……うん。よろしく」
◇◆◇
役所を出て、俺たちは近くの公園に寄った。
陽菜は鳩を追いかけて元気に走り回っている。
よちよち歩きだった頃とは違い、今はしっかりとした足取りで地面を蹴っている。
転んでも、すぐに自分で立ち上がり、土を払ってまた走り出す。
その逞しい背中を見ているだけで、胸がいっぱいになった。
「大きくなったよね、陽菜」
詩さんが目を細めて言う。
「ああ。……本当に、大きくなった」
俺が引き取った時は、泣くことしかできなかった小さな命が、今はこうして自分の足で世界を探索している。
その成長の一瞬一瞬に立ち会えたことが、俺の誇りだ。
「パパ! ママ! みてー!」
陽菜がどんぐりを拾って、得意げに見せてくる。
「おお、すごいの見つけたな! 帽子被ってるぞ」
「きれいなドングリだね。宝物だね」
俺たちは陽菜を真ん中にして、ベンチでお弁当を広げた。
詩さんが早起きして作ってくれたサンドイッチだ。
「陽菜、あーん」
「あーん! ……おいちぃ!」
陽菜が満面の笑みで頬張る。
その笑顔を守るためなら、俺は何だってできる。
どんな困難も、どんな壁も、この子の笑顔のためなら乗り越えられる。
風が吹き抜け、枯れ葉が舞う。
もうすぐ冬が来る。
でも、俺たちの周りは温かい。
「陽菜、ほっぺについてるよ? もう、食いしん坊なんだから」
「ママ! パパ! すき!」
「ママも!」「パパも!」
「「陽菜が大好き!」」
◇◆◇
帰り道。
夕焼けに染まる街を歩く。
遊び疲れたのか、陽菜の足取りが少し重くなってきた。
「……パパぁ、抱っこぉ」
陽菜が立ち止まり、両手を広げて甘えてくる。
普段なら「もう少し頑張ろうか」と言うところだが、今日は特別だ。
「よし。今日はスペシャルだぞ!」
俺は陽菜を抱き上げると、ひょいっと肩の上に乗せた。
肩車だ。
「うわぁ! たかーい!」
視界が一気に高くなり、陽菜が歓声を上げる。
俺の髪の毛を小さな手でギュッと掴み、足をバタつかせる。
「パパ、すごーい!」
「だろ?」
肩にずっしりと乗る重み。
1歳7ヶ月分の体重。
それは、俺が一生背負っていくと誓った「責任」の重さであり、同時にかけがえのない「幸せ」の重さでもあった。
「いいなぁ、陽菜。パパの肩車、特等席だね」
隣を歩く詩さんが、羨ましそうに見上げてくる。
「詩さんも乗る?」
「えっ!? む、無理でしょ! 優真さんの腰が砕けちゃう!」
「失礼な。まだまだ鍛えてるから大丈夫なのに」
「もう……すぐからかうんだから」
詩さんが頬を膨らませる。
そんなやり取りすらも、愛おしい。
俺の左手は、陽菜の足を支えている。
空いた右手で、俺は詩さんの手をそっと握った。
彼女は驚くこともなく、自然に握り返してくれた。
温かくて、優しい手。
肩には娘。
手には妻。
かつて、全てを失いかけ、孤独に震えていた俺の体温は今、二人の温もりで満たされている。
マンションのエントランスが見えてきた。
そこはもう、ただの住処ではない。
俺たちの「ホーム」だ。
「……ただいま」
俺が呟くと、二人の愛しい女性が同時に答えた。
「ただいまー!」
「たぁーいま!」
三人で声を揃えて、自動ドアをくぐる。
今日から、本当の家族としての生活が始まる。
大変なこともあるだろう。喧嘩もするかもしれない。
陽菜が大きくなれば、反抗期だって来るだろう。
本当の親のことで、衝突する時が来るかもしれない。
でも、俺たちなら大丈夫だ。
どんな困難も、「持ちつ持たれつ」で乗り越えていける。
「詩さん」
「ん?」
「愛してる」
「……うん、愛してる」




