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プロポーズから数日後。
俺と詩さんは、改めて詩さんのお父様に挨拶へ行こうということになった。
以前、病院で会った時は緊急事態だったし、何より正式な婚約報告をしなければ筋が通らない。
兄の高貴さんに連絡を取り、面会の日程を調整しようとしたのだが……。
『父さんが、「わざわざ来るには及ばん。顔を見るだけで血圧が上がる」と言っていてね』
高貴さんは電話口で申し訳なさそうに言った。
『その代わり、テレビ電話なら繋いでやってもいい、とのことだ。……まあ、照れ隠しだろうが』
ということで、俺たちは今、リビングのソファに並んで座り、タブレットの画面を見つめていた。
「……緊張してきた……」
詩さんが、膝の上で手をきつく握りしめている。
左手の薬指には、俺が贈った婚約指輪が光っている。
「大丈夫だよ。俺がついてる、お父さんがキレだしたら、切っちゃおう」
「ぷっ。それ名案」
俺は彼女の手をそっと握り、もう片方の手で陽菜を膝に乗せた。
陽菜は状況が分かっていないのか、タブレットの画面に興味津々だ。
「よし、繋ぐぞ」
通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音の後、画面が切り替わった。
映し出されたのは、病院の個室。
ベッドに上体を起こして座るお父さんの姿があった。
顔色は以前よりだいぶ良さそうだが、その眉間の皺と鋭い眼光は健在だ。
傍らには、苦笑いを浮かべた高貴さんが立っている。
『……ふん。時間通りだな』
開口一番、お父さんはぶっきらぼうに言った。
「ご無沙汰しております、お父様。体調はいかがですか?」
詩さんが恐る恐る声をかける。
『誰がお父様だ。私はまだ認めた覚えはないぞ』
相変わらずの憎まれ口だ。
だが、以前のような刺すような冷たさは感じられない。
どこか、意地を張っているだけのように見える。
「本日は、改めてご報告があって連絡させていただきました」
俺は背筋を伸ばし、画面越しに頭を下げた。
「先日、詩さんにプロポーズをしました。……結婚します」
画面の向こうで、お父さんの眉がピクリと動いた。
「そして、陽菜とも正式に養子縁組の手続きを進める予定です。俺たちは、三人で本当の家族になります」
『……ほう』
お父さんは鼻を鳴らした。
『勢いだけで突っ走ったか。……まあいい。苦労するのは目に見えているがな』
「覚悟の上です」
『覚悟か、何度聞けば済むかな。……詩。お前も、それでいいんだな? 泥船に乗る覚悟はできたのか?』
矛先を向けられた詩さんは、一瞬怯んだように見えたが、すぐに顔を上げ、きっぱりと言った。
「はい。……泥船なんかじゃありません。ここは、世界一温かくて、幸せな場所です。私は、優真さんと陽菜ちゃんと生きていきます」
その目には、もう迷いはなかった。
お父さんはしばらく娘の顔をじっと見つめていたが、やがてふいっと視線を逸らした。
『……勝手にしろ。どうせ私の言うことなど聞かんのだろう』
それが、彼なりの精一杯の「許し」なのだろう。
素直じゃない。
でも、それがこの親子の距離感なのかもしれない。
重苦しい沈黙が流れた。
用件は済んだ。これ以上話すこともないのかもしれない。
俺が通話を切ろうと手を伸ばしかけた、その時だった。
「……じ、じ!」
俺の膝の上で大人しくしていた陽菜が、突然画面を指差して声を上げた。
画面に映るお父さんを見て、何かを思い出したらしい。
「じーじ!」
無邪気な声が、スピーカーを通して病室に響く。
その瞬間。
お父さんの鉄仮面のような表情が、音を立てて崩壊した。
『……っ!』
眉間の皺が消え去り、口元がだらしなく緩む。
目は驚くほど見開かれ、画面に釘付けになっている。
『い、今……また、じいじと、言ったのか……?』
震える声。
さっきまでの威厳はどこへやら、完全に孫に骨抜きにされた好々爺の顔だ。
「ええ、まあ……お父様の顔を見て、思い出したみたいで」
俺が苦笑いしながら答えると、お父さんは身を乗り出した。
『おい! カメラのアングルが悪いぞ! お前らはいいから陽菜ちゃんを映せ! もっと近くで!』
「えっ、あ、はい」
俺は言われるがまま、タブレットを陽菜の顔に近づけた。
画面いっぱいに陽菜の笑顔が映る。
「じーじ! キャハッ!」
陽菜が画面をペチペチと叩く。
『おお……おおお……! 笑った! 私を見て笑ったぞ! 高貴、見たか!?』
『え、ええ……見てますよ父さん。血圧上がるから落ち着いて』
後ろの高貴さんが若干引き気味に呆れたように諌めるが、お父さんは聞く耳を持たない。
『陽菜ちゃん、じいじだぞ〜。分かるか〜? 今度退院したら、一番高いおもちゃを買ってやるからな〜』
画面の向こうで、財界の大物が赤ちゃん言葉を使っている。
これがあの小日向厳かと思うと、笑いをこらえるのに必死だ。
隣の詩さんも、口元を押さえてプルプルと震えている。
「……ふふっ、お父様、デレデレ」
『うるさい! デレデレなどしていない! ……コホン。これは、将来の教育のための投資だ』
お父さんは慌てて咳払いをし、威厳を取り戻そうとするが、もう手遅れだ。
その目は、画面の中の陽菜から離れようとしない。
『……まあ、なんだ』
ひとしきり陽菜を愛でた後、お父さんは少しだけ真面目な顔に戻って言った。
『……結婚式くらいは、呼べ。……陽菜ちゃんの晴れ姿も見たいしな』
それは、彼が俺たちを「家族」として認めてくれた、何よりの証拠だった。
「はい。必ず、招待状を送ります」
俺が答えると、お父さんは「ふん」と鼻を鳴らし、でも少しだけ口角を上げて、通話を切った。
プツン。
画面が暗転する。
リビングには、温かい余韻が残っていた。
「……よかったね、詩さん」
「はい。……お父様、あんな顔するなんて、初めて見た」
詩さんは嬉しそうに涙を拭った。
「陽菜ちゃんのおかげだね。ありがとう、最強のキューピッドさん」
「まんまー!」
陽菜は訳も分からず、元気よく返事をした。
――さて。
一番の難関(だと思っていた)お父さんへの報告は終わった。
母さんには報告済みだし、あとは、もう一人。
俺たちのことを一番に応援してくれた、あの嵐のような恩人にも報告しなくてはならない。
「よし、次はアメリカに繋ぐか」
「起きてるかな?」
「時差があるからな……向こうは今、朝の8時くらいか。まあ、あいつなら起きてるだろ」
俺は連絡先リストから『玲奈』を選び、ビデオ通話を発信した。
数コールの後、画面がパッと明るくなった。
『あ、お兄ちゃん! 詩さん! やっほー!』
画面の向こうには、窓から差し込む朝日をバックに、トーストを齧りながら手を振る玲奈がいた。
背景には、アメリカらしい広い部屋が見える。
「おはよう、玲奈。元気そうだな」
『うん、超元気! ……で? わざわざ二人揃って電話してくるってことは、ついに?』
玲奈がニヤニヤしながら身を乗り出してくる。
俺は詩さんと顔を見合わせ、頷いた。
「ああ。……プロポーズ、成功したよ。結婚することになった」
俺が報告すると、玲奈はトーストを放り出して歓声を上げた。
『やったーーー!! おめでとう!! やっとかよ! 遅いよお兄ちゃん!』
「うるさいな。これでも最速で頑張ったんだよ」
『嘘つけ。私が背中蹴飛ばさなかったら、まだウジウジ悩んでたでしょー?』
玲奈の軽口に、俺たちは笑った。
否定できないのが悔しいところだ。
『詩さん! いや、もうお義姉さんか! 本当におめでとうございます!』
「ありがとう、玲奈ちゃん」
詩さんが画面に向かって、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「玲奈ちゃんのおかげだよ。玲奈ちゃんが背中を押してくれなかったら、私、逃げ出してたかもしれないから」
『えへへ、いいってことよ。……あ、そうだ』
玲奈が何かを思い出したように、少し真面目な顔になった。
『詩さん。……あの時の約束、覚えてます?』
「約束?」
詩さんが小首をかしげる。
『私が帰る時、お願いしたこと。……本当の家族に……って』
ああ、と詩さんが声を上げた。
旅立ちの朝、玲奈が泣きながら頼んだこと。
亡き姉が呼んでいた愛称で、呼んでほしいと。
詩さんは、少し照れくさそうに、でも愛しさを込めて画面の向こうの妹を呼んだ。
「……もちろん、覚えてるよ。……レイ」
レイ。
その響きを聞いた瞬間、玲奈の顔がくしゃりと歪んだ。
画面越しでも、泣きそうになっているのが分かった。
『……うん。……ありがとう、お姉ちゃん』
「……いつでも待ってるから、またすぐに、会いにきてね! ご飯いっぱい食べるんだよ? 野菜も食べて、夜更かしし過ぎないでね!」
『うん! 子供じゃないんだから分かってるよー! 結婚式には絶対帰るからね! それと、ブーケトス、私がキャッチする予定だから狙ってよね! そこだけはよろしく!』
「お前もマサくんとうまくやれよ」
『な、なんでマサのこと知ってんの!? お母さん!? お母さんでしょ!! あのお喋り!』
「照れんなよ」
『照れてねーし!』
玲奈が少し顔を赤らめる。
どうやら向こうも順調なようだ。
「だー! ねえ!」
陽菜がタブレットをペチペチと叩いている。
『あっ! 陽菜ちゃん! ねえって、ねーね!? 今、ねーねって言ったよね!? 二人とも聞いた!?』
こいつ、お父さんと同じ思考回路だ……。
「あー聞いた聞いた」
『感動〜!! もー! 今すぐちゅっちゅしたい! 陽菜ちゃんにちゅっちゅ!』
「ま、とにかくそういうことだから、マサくんによろしくな!」
『イジんな!』
「ふふっ。元気にやってね、風邪ひかないように」
『うん! ありがとう! 陽菜ちゃんも、またねー!』
玲奈が手を振り、通話が切れた。
静かになった部屋で、俺と詩さんはしばらく余韻に浸っていた。
色々なことがあったけれど、全てが繋がって、今ここにある。
「……本当に、いい子だね」
「ああ。……自慢の妹だよ」
俺は詩さんの肩を抱き寄せた。
彼女も俺の肩に頭を預ける。
やるべきことはあと一つだけ。
それが終われば、あとは、俺たちで歩いていくだけだ。




