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プロポーズの場所は、正直全く迷わなかった。
そこしかないと思った。
俺たちに特別な場所なんていらない。
俺たちが一番長く過ごし、一番多く笑い合い、そしてこれからも生きていく場所。
この「家」こそが、誓いを立てるのに最も相応しい。
マンションのエレベーターに乗り込み、21階のボタンを押す。
数字が上がるにつれて、心臓の鼓動も高まっていく。
ピンポーン。
カードキーがあるのに、俺はわざとインターホンを鳴らした。
彼女の声が聞きたかったからだ。
『はーい! どちらさ……あ、優真さん!』
モニター越しに、詩さんの弾んだ声が聞こえる。
それだけで、仕事の疲れなど一瞬で吹き飛んでしまった。
ガチャリとドアが開く。
「おかえりなさい、優真さん!」
エプロン姿の詩さんが、満面の笑みで迎えてくれた。
後ろからは、トテトテと頼りない足取りで陽菜が近寄ってくる。
「まんまー! だっこ!」
「ただいま。二人とも、いい子にしてたか?」
俺は靴を脱ぐのももどかしく、二人をまとめて抱きしめた。
詩さんの柔らかい体温と、陽菜のミルクの匂い。
これが、俺の帰る場所だ。
世界で一番、愛おしい場所だ。
「……ふふ、どうしたんですか? 今日は甘えん坊ですね」
詩さんが俺の背中に手を回し、くすくすと笑う。
「……いつも甘えてるよ」
「はいはい。じゃあ、ご飯温め直すので、ちょっと待っててくださいね」
彼女は優しく俺の頭を撫でてから、キッチンへと向かった。
その背中を見送りながら、俺は改めて決意を固めた。
この幸せを、一生守り抜く。
そのための言葉を、今夜、伝えるんだ。
◇◆◇
夕食は、詩さん特製の唐揚げだった。
サクサクの衣と、ジューシーな肉汁。俺が世界一好きな味だ。
「ん、美味い。やっぱり詩さんの唐揚げは最高だ」
「もう、お世辞が上手なんだから。……あ、こっちの味付け、少し変えてみたんです。どうですか?」
「どれどれ……」
俺が箸を伸ばそうとすると、詩さんが自分の箸で唐揚げを摘み、俺の口元に差し出した。
「はい、あーん」
自然な動作だった。
俺は一瞬固まったが、すぐに口を開けてそれを受け入れた。
「……ん! こっちも美味い。生姜が効いててさっぱりしてる」
「よかった! じゃあ、今度からこっちもローテーションに入れちゃおう」
彼女は嬉しそうに笑い、自分もパクっと唐揚げを食べる。
間接キスだとか、そんなことを意識する時期はとっくに過ぎているはずなのに、彼女の唇が箸に触れるのを見て、俺はまたドキリとしてしまった。
陽菜も、手づかみ食べ用の小さな唐揚げを一生懸命頬張っている。
口の周りを油だらけにして、「おいちー!」と叫ぶその姿は、平和そのものだ。
「……幸せだな」
俺はポツリと呟いた。
「はい。……とっても」
詩さんも、穏やかな瞳で俺を見つめ返してくれた。
言葉にしなくても、通じ合っている感覚。
でも、だからこそ、ちゃんと言葉にしなきゃいけない。
◇◆◇
陽菜をお風呂に入れ、寝かしつけた後のこと。
リビングの照明を少し落とし、俺たちはソファで並んで座っていた。
テレビからは、静かな映画の音が流れている。
俺の肩に、詩さんが頭を預けてくる。
俺は自然と彼女の肩を抱き寄せ、そのさらさらとした髪を指で梳いた。
「……優真さん」
「ん?」
「なんだか今日、ドキドキしてる音がします」
彼女が俺の胸に耳を当てて、クスクスと笑った。
「心臓、早いです」
「……バレたか」
「ふふ、何か隠し事?」
彼女が上目遣いで俺を見上げる。
その瞳は、すべてを見透かしているようで、でもどこか期待に潤んでいるようにも見えた。
俺は観念して、テレビを消した。
部屋が静寂に包まれる。
聞こえるのは、俺たちの呼吸音だけ。
「……詩さん。少し、話があります」
「はい」
彼女は居住まいを正そうとしたが、俺はそれを制して、そのまま彼女の手を握った。
小さくて、温かくて、働き者の手。
「俺たちがここで暮らし始めて、もうすぐ半年になる」
「そうですね。……あっという間でした」
「最初は、陽菜のために必死だった。でも、いつの間にか……この場所が、俺にとってもかけがえのない居場所になっていた」
俺は言葉を選びながら、ゆっくりと話した。
「あなたがいてくれるだけで、家の中が明るくなる。
あなたが笑ってくれるだけで、どんな疲れも吹き飛ぶ。……俺は、あなたなしの人生なんて、もう考えられない。あなたがいない人生なんて、俺の人生じゃない」
詩さんの瞳が揺れた。
握り返す手に、力がこもる。
俺はポケットから、白い小箱を取り出した。
彼女が息を飲む。
「詩さん」
俺は箱を開けた。
シンプルな一粒ダイヤの指輪が、ダウンライトの光を受けて静かに輝く。
「……俺と、結婚してください」
飾り気のない、ストレートな言葉。
でも、それが一番、俺の偽らざる本音だった。
「そして、陽菜の母親になってほしい。……俺たち三人で、本当の家族になりたいんです」
詩さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は両手で口元を覆い、何度も、何度も頷いた。
「……っ……!」
声にならない、震える声が、俺の胸を震わせる。
「私で、いいんですか……? 家もなくて、取り柄もない、私で……」
「あなたじゃなきゃ、ダメみたいなんです、俺。……あなたに夢中だから」
俺は彼女の涙を親指で拭い、指輪を彼女の左手薬指に通した。
サイズはぴったりだった。
まるで、最初から彼女のために存在していたかのように。
「……綺麗」
彼女は指輪を見つめ、また泣き笑いのような表情になった。
「ありがとう、優真さん。……私、本当に、世界で一番幸せです」
「俺もです。……幸せにしてくれてありがとう、詩さん」
俺は彼女を引き寄せ、口づけを落とした。
長く、深い口づけ。
これまでの感謝と、これからの誓いを込めて。
唇が離れた後も、俺たちはしばらく抱き合っていた。
体温が溶け合うような感覚。
この腕の中にある温もりこそが、俺が守り抜くべき世界の全てだ。
「……まん、ま」
ふいに、寝室の方から陽菜の寝言が聞こえた。
俺たちは顔を見合わせ、吹き出した。
いつかの再現みたいだ。
「あはは、また!? 恋人になる時もこうでしたよね!」
「ふふ、今度はきっとお祝いしてくれてるんですよ。『パパ、ママ、おめでとう』って」
ママ。
その響きが、こんなにも心地よく響くなんて。
俺たちは立ち上がり、寝室の陽菜を見に行った。
スヤスヤと眠る天使の寝顔。
その枕元で、俺たちは指切りをした。
そして、またキスをした。




