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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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 タクシーを飛ばして向かった先は、都内でも有数の大学病院だった。

 詩さんのお父様が運び込まれたのは、ここの高度救命救急センターだという。


 夜間受付を通り、エレベーターで上層階へ。

 廊下は静まり返り、消毒液の匂いが鼻をつく。

 詩さんは、俺の手を痛いほど強く握りしめていた。


「……詩」


 待合室で待っていたのは、先ほど家に来た兄、高貴さんだった。


「来てくれたか」


「……お父様は?」


「心筋梗塞だ。発見が早かったのが不幸中の幸いだ」


 高貴さんは小さく息を吐いた。


「今はICU(集中治療室)の個室に移っている。意識も戻った」


「そうですか……」


 詩さんの表情は硬いままだ。

 安堵と、緊張と、まだ消えないわだかまりが入り混じっている。


「通常、ICUへの子供の入室は感染症予防の観点から断っているんだが」


 高貴さんが俺の抱いている陽菜に視線を落とした。


「今回は個室だし、俺の権限で特別に許可を取った。……父さんも、いつ急変するか分からない状態だ。会えるうちに、会っておいた方がいい」


「……いや、俺はここで陽菜と待ちます。親子水入らずで……」


「来てください」


 詩さんの手は震えていた。


「……お願いします」


「……」


 高貴さんを見ると、高貴さんも黙って頷いた。


「分かりました」




 ◇◆◇




 重厚な扉が開き、俺たちは病室へと足を踏み入れた。

 そこには、数々のモニターや点滴の管に繋がれた、一人の男性が横たわっていた。


 小日向厳(こひなた いわお)

 かつて、あの車寄せで俺たちを威圧し、圧倒的な存在感を放っていた財界の大物。

 しかし、今の彼はあまりにも小さく、弱々しく見えた。

 顔色は土気色で、呼吸器の音が規則正しく響くだけだ。


「……父さん。詩が来たぞ」


 高貴さんが声をかけると、ゆっくりと瞼を開けた。

 焦点の合わない瞳が彷徨い、やがて詩さんの姿を捉える。


「……う……た……」


 酸素マスク越しに、掠れた声が漏れた。


「……」


 詩さんがベッドの脇に立つ。

 その目には涙が滲んでいるが、彼女はそれをこらえていた。


「……なぜ、来た」


 父親は、弱々しい声ながらも、拒絶の言葉を口にした。


「私は……お前を勘当したはずだ。……今さら、何の用だ……」


「……優真さんが、行こうって言ったからです」


 詩さんは正直に答えた。


「私は来たくありませんでした。でも、優真さんが『後悔するな』って。……だから、文句を言いに来ました」


「……文句、だと?」


「はい。私は今、幸せです。お父様がいなくても、マンションがなくても。……優真さんと陽菜ちゃんがいてくれれば、私は生きていけます。それを見せつけるために来ました」


 それは、彼女なりの精一杯の強がりであり、そして勝利宣言だった。

 父親は、苦しげに顔を歪めた。


「……愚か者が。……そんな男と……」


 視線が俺に向く。

 以前のような鋭い眼光はない。けれど、まだ認めていないという意地だけは感じられた。


「……帰れ。……私の目の黒いうちは……認めん……」


 頑なだった。

 死の淵に立ってもなお、彼は自分の価値観を曲げようとしない。

 それが、彼をここまで大きくし、そして孤独にした原因なのだろう。


 詩さんが唇を噛み締め、肩を震わせる。

 やはり、来るべきじゃなかったのか。

 分かり合えないまま終わるのが、この親子の運命なのか。


「……やっぱり、来るんじゃなかった」


「詩……! 父さんは……」


「帰りましょう、優真さん。もうこの人は私の父なんかじゃ……」


 ――その時だった。


「……あう?」


 俺の腕の中で、それまで大人しくしていた陽菜が声を上げた。

 初めて見る場所、たくさんの機械、そしてベッドに横たわる老人。

 陽菜は興味津々な様子で、父親の方をじっと見つめていた。


「……またその赤ん坊か」


 父親が、不快そうに眉を寄せた。


「……あー!」


 陽菜は、父親の視線に気づくと、パッと顔を輝かせた。

 そして、俺の腕から身を乗り出し、ベッドの方へ小さな手を伸ばしたのだ。


「……っ、おい、近づけるな」


 父親が拒絶しようとする。

 だが、陽菜はお構いなしだ。

 俺は、何かに導かれるように、そっとベッドに近づいた。


 陽菜の小さな手が、父親の点滴だらけの手に触れた。

 シワだらけで、冷たい老人の手と。

 小さくて、温かい赤ちゃんの手。


「……!」


 父親が息を飲んだ。

 陽菜は、その手をギュッと握りしめ、そして無邪気な笑顔で言った。


「……じ、じ!」


 え?


 ただの喃語だ。

 意味のない言葉の羅列だ。

 でも、その場の全員には、明確にそう聞こえた。


「じ……じいじ?」


 高貴さんが呆然と呟く。

 詩さんも目を見開いている。


 そして、誰よりも動揺していたのは、父親自身だった。


「……いま……」


 父親の瞳が、大きく見開かれる。

 酸素マスクの下で、口が震えている。


「じいじ、と……言ったのか……?」


 陽菜は、そんな大人の事情など知る由もない。

 ただ、目の前のおじいちゃんが反応してくれたのが嬉しいのか、さらに畳み掛ける。


「じじ! きゃはっ!」


 満面の笑み。

 邪気のない、純度100パーセントの天使の笑顔。

 それは、どんな頑固な鎧も、一撃で粉砕する最強の武器だった。


 あの冷酷な父親の目から、ツーーーっと涙がこぼれ落ちた。


「……そうか。……じいじ、か」


 震える声。

 そこにはもう、威圧感も、頑固さもなかった。

 ただの、孫にデレデレになりかけた、一人の弱った老人。


 父親は、繋がれていない方の手をゆっくりと動かし、陽菜の小さな手をそっと包み込んだ。


「…………じいじ……か」


 その一言が、全てを溶かした。


「……お父様」


 父親は、涙を流しながら、俺を見た。

 その目は、初めて「人間」の目をして俺を見ていた。


「……君」


「……はい」


「……この子は……天使だな」


「はい。俺()()の、自慢の娘です」


 俺が答えると、父親は力なく、しかし満足そうに頷いた。


「……そうか。……自慢の、娘か」


 彼は、詩さんの方を見た。


「……詩」


「…………はい」


「……お前も、幸せそうな顔をしているな。前にあった時よりも、ずっと」


 詩さんは大きく頷いた。


「はい。私、今すごく幸せです」


「……そうか。……なら、いい」


 父親は、ふっと力を抜いた。

 それは、長い長い戦いが終わった瞬間だった。


「……悪かった。今まで」


 消え入りそうな声での謝罪。

 あのプライドの塊のような男が、娘に頭を下げたのだ。


「……もう、いいです」


 陽菜もつられて「うあー」と声を上げるが、その手はずっとおじいちゃんの指を握ったままだ。


 俺は、その光景を静かに見守っていた。


 ただ「存在するだけで愛される」という陽菜の力が、閉ざされた扉をこじ開けたのだろうか。


 それとも、素直になれなくて、こじらせた父親が、何かのきっかけを求めていただけだったのだろうか?


 もしかしたら……マンションに来たあの時も、この人はきっかけを求めていたのか?


 あんな結末を望んでいたわけじゃなかったのかもしれない。


 ……だって、この詩さんと、あの真面目で誠実そうなお兄さんの親だぞ。


 そうだ……この人が根っからの悪人なわけがない。


 でなきゃ、2人の子供を、こんなに立派に育て上げられるわけがない。

 陽菜ひとりを育てるだけで……俺は毎日死にものぐるいなのに。


 親の立場に立ってみればわかる。

 それがどれだけ凄いことか。


 ……そして、やっぱり陽菜は、天使だ。

 俺と詩さんを結びつけ、そしてこれだけこじらせたおじいちゃんすらもたった数秒で、1発の笑顔で、再生させてしまった。


「……ありがとうな、陽菜」


 俺は陽菜の頭を撫でた。

 陽菜は「えっへん」と言わんばかりに胸を張り、また「じじ!」と叫んで、病室を温かい笑いで包み込んだ。


 

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