24
タクシーを飛ばして向かった先は、都内でも有数の大学病院だった。
詩さんのお父様が運び込まれたのは、ここの高度救命救急センターだという。
夜間受付を通り、エレベーターで上層階へ。
廊下は静まり返り、消毒液の匂いが鼻をつく。
詩さんは、俺の手を痛いほど強く握りしめていた。
「……詩」
待合室で待っていたのは、先ほど家に来た兄、高貴さんだった。
「来てくれたか」
「……お父様は?」
「心筋梗塞だ。発見が早かったのが不幸中の幸いだ」
高貴さんは小さく息を吐いた。
「今はICUの個室に移っている。意識も戻った」
「そうですか……」
詩さんの表情は硬いままだ。
安堵と、緊張と、まだ消えないわだかまりが入り混じっている。
「通常、ICUへの子供の入室は感染症予防の観点から断っているんだが」
高貴さんが俺の抱いている陽菜に視線を落とした。
「今回は個室だし、俺の権限で特別に許可を取った。……父さんも、いつ急変するか分からない状態だ。会えるうちに、会っておいた方がいい」
「……いや、俺はここで陽菜と待ちます。親子水入らずで……」
「来てください」
詩さんの手は震えていた。
「……お願いします」
「……」
高貴さんを見ると、高貴さんも黙って頷いた。
「分かりました」
◇◆◇
重厚な扉が開き、俺たちは病室へと足を踏み入れた。
そこには、数々のモニターや点滴の管に繋がれた、一人の男性が横たわっていた。
小日向厳。
かつて、あの車寄せで俺たちを威圧し、圧倒的な存在感を放っていた財界の大物。
しかし、今の彼はあまりにも小さく、弱々しく見えた。
顔色は土気色で、呼吸器の音が規則正しく響くだけだ。
「……父さん。詩が来たぞ」
高貴さんが声をかけると、ゆっくりと瞼を開けた。
焦点の合わない瞳が彷徨い、やがて詩さんの姿を捉える。
「……う……た……」
酸素マスク越しに、掠れた声が漏れた。
「……」
詩さんがベッドの脇に立つ。
その目には涙が滲んでいるが、彼女はそれをこらえていた。
「……なぜ、来た」
父親は、弱々しい声ながらも、拒絶の言葉を口にした。
「私は……お前を勘当したはずだ。……今さら、何の用だ……」
「……優真さんが、行こうって言ったからです」
詩さんは正直に答えた。
「私は来たくありませんでした。でも、優真さんが『後悔するな』って。……だから、文句を言いに来ました」
「……文句、だと?」
「はい。私は今、幸せです。お父様がいなくても、マンションがなくても。……優真さんと陽菜ちゃんがいてくれれば、私は生きていけます。それを見せつけるために来ました」
それは、彼女なりの精一杯の強がりであり、そして勝利宣言だった。
父親は、苦しげに顔を歪めた。
「……愚か者が。……そんな男と……」
視線が俺に向く。
以前のような鋭い眼光はない。けれど、まだ認めていないという意地だけは感じられた。
「……帰れ。……私の目の黒いうちは……認めん……」
頑なだった。
死の淵に立ってもなお、彼は自分の価値観を曲げようとしない。
それが、彼をここまで大きくし、そして孤独にした原因なのだろう。
詩さんが唇を噛み締め、肩を震わせる。
やはり、来るべきじゃなかったのか。
分かり合えないまま終わるのが、この親子の運命なのか。
「……やっぱり、来るんじゃなかった」
「詩……! 父さんは……」
「帰りましょう、優真さん。もうこの人は私の父なんかじゃ……」
――その時だった。
「……あう?」
俺の腕の中で、それまで大人しくしていた陽菜が声を上げた。
初めて見る場所、たくさんの機械、そしてベッドに横たわる老人。
陽菜は興味津々な様子で、父親の方をじっと見つめていた。
「……またその赤ん坊か」
父親が、不快そうに眉を寄せた。
「……あー!」
陽菜は、父親の視線に気づくと、パッと顔を輝かせた。
そして、俺の腕から身を乗り出し、ベッドの方へ小さな手を伸ばしたのだ。
「……っ、おい、近づけるな」
父親が拒絶しようとする。
だが、陽菜はお構いなしだ。
俺は、何かに導かれるように、そっとベッドに近づいた。
陽菜の小さな手が、父親の点滴だらけの手に触れた。
シワだらけで、冷たい老人の手と。
小さくて、温かい赤ちゃんの手。
「……!」
父親が息を飲んだ。
陽菜は、その手をギュッと握りしめ、そして無邪気な笑顔で言った。
「……じ、じ!」
え?
ただの喃語だ。
意味のない言葉の羅列だ。
でも、その場の全員には、明確にそう聞こえた。
「じ……じいじ?」
高貴さんが呆然と呟く。
詩さんも目を見開いている。
そして、誰よりも動揺していたのは、父親自身だった。
「……いま……」
父親の瞳が、大きく見開かれる。
酸素マスクの下で、口が震えている。
「じいじ、と……言ったのか……?」
陽菜は、そんな大人の事情など知る由もない。
ただ、目の前のおじいちゃんが反応してくれたのが嬉しいのか、さらに畳み掛ける。
「じじ! きゃはっ!」
満面の笑み。
邪気のない、純度100パーセントの天使の笑顔。
それは、どんな頑固な鎧も、一撃で粉砕する最強の武器だった。
あの冷酷な父親の目から、ツーーーっと涙がこぼれ落ちた。
「……そうか。……じいじ、か」
震える声。
そこにはもう、威圧感も、頑固さもなかった。
ただの、孫にデレデレになりかけた、一人の弱った老人。
父親は、繋がれていない方の手をゆっくりと動かし、陽菜の小さな手をそっと包み込んだ。
「…………じいじ……か」
その一言が、全てを溶かした。
「……お父様」
父親は、涙を流しながら、俺を見た。
その目は、初めて「人間」の目をして俺を見ていた。
「……君」
「……はい」
「……この子は……天使だな」
「はい。俺たちの、自慢の娘です」
俺が答えると、父親は力なく、しかし満足そうに頷いた。
「……そうか。……自慢の、娘か」
彼は、詩さんの方を見た。
「……詩」
「…………はい」
「……お前も、幸せそうな顔をしているな。前にあった時よりも、ずっと」
詩さんは大きく頷いた。
「はい。私、今すごく幸せです」
「……そうか。……なら、いい」
父親は、ふっと力を抜いた。
それは、長い長い戦いが終わった瞬間だった。
「……悪かった。今まで」
消え入りそうな声での謝罪。
あのプライドの塊のような男が、娘に頭を下げたのだ。
「……もう、いいです」
陽菜もつられて「うあー」と声を上げるが、その手はずっとおじいちゃんの指を握ったままだ。
俺は、その光景を静かに見守っていた。
ただ「存在するだけで愛される」という陽菜の力が、閉ざされた扉をこじ開けたのだろうか。
それとも、素直になれなくて、こじらせた父親が、何かのきっかけを求めていただけだったのだろうか?
もしかしたら……マンションに来たあの時も、この人はきっかけを求めていたのか?
あんな結末を望んでいたわけじゃなかったのかもしれない。
……だって、この詩さんと、あの真面目で誠実そうなお兄さんの親だぞ。
そうだ……この人が根っからの悪人なわけがない。
でなきゃ、2人の子供を、こんなに立派に育て上げられるわけがない。
陽菜ひとりを育てるだけで……俺は毎日死にものぐるいなのに。
親の立場に立ってみればわかる。
それがどれだけ凄いことか。
……そして、やっぱり陽菜は、天使だ。
俺と詩さんを結びつけ、そしてこれだけこじらせたおじいちゃんすらもたった数秒で、1発の笑顔で、再生させてしまった。
「……ありがとうな、陽菜」
俺は陽菜の頭を撫でた。
陽菜は「えっへん」と言わんばかりに胸を張り、また「じじ!」と叫んで、病室を温かい笑いで包み込んだ。




