23
陽菜の1歳の誕生日を幸せに迎え、俺と詩さんが恋人同士になってから、数週間が過ぎた。
穏やかな日曜日の昼下がり。
俺たちはリビングで、陽菜の新しい絵本を読んでいた。
ピンポーン。
不意に、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、スーツ姿の若い男性が映っていた。
整った顔立ちに、仕立ての良いスーツ。どこか詩さんと似た雰囲気がある。
「……え……お兄ちゃんだ」
詩さんが呟いた。
彼女には医者の兄がいると聞いていた。父親の期待を一心に背負い、優秀な。
俺は詩さんの顔を見た。
彼女は小さく頷き、インターホンの通話ボタンを押した。
「……はい……」
『……詩か? 高貴だ。……少し、話がある』
◇◆◇
俺たちは、兄――小日向高貴さんを玄関先へ招いた。
彼は部屋の中には入ろうとせず、靴を履いたまま土間に立っていた。
「突然申し訳ありません、佐伯さん。住所は、父から聞きました」
高貴さんは、俺に軽く会釈をした後、詩さんに向き直った。
その表情は硬く、切迫していた。
「単刀直入に言う。……父さんが倒れた」
詩さんの肩が、ビクリと跳ねた。
「昨夜、書斎で倒れているのが見つかった。今は集中治療室にいる。……会いに来てくれ」
重い沈黙が落ちた。
あの強権的で、岩のように頑丈そうに見えた父親が、倒れた?
詩さんは俯き、拳を握りしめていた。
そして、震える声で絞り出した。
「……会いたく、ありません」
「詩……頼む。父さんのことを気に入らないのは分かるが、今は緊急事態なんだ」
「気に入らないとか、そんな話じゃありません!」
詩さんが顔を上げ、兄を睨みつけた。
「あの人が言ったんです。私はもう娘じゃないって! 二度と顔を見せるなって! ……あの日、お父様は私を捨てたんです」
「……親だぞ。たった一人の」
「親なら何をしてもいいんですか!? 私の大切な場所を奪おうとして、佐伯さんを侮辱して……そんな人、もう父親じゃありません!」
彼女の叫び声が、廊下に反響する。
それは、ずっと抑え込んでいた悲しみと怒りの爆発だった。
「私は……私は優真さんと、陽菜ちゃんと生きていくと決めました。もう、あの家には戻りません。……帰ってください」
詩さんは、背中を向けてしまった。
拒絶の意思表示だ。
高貴さんは、しばらく妹の背中を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……そうか。突然すまなかった」
彼はポケットから名刺を取り出し、下駄箱の上に置いた。
「もし気が変わったら、ここに連絡を。……お幸せに」
そう言い残し、高貴さんはドアを開けて出て行った。
重たい鉄の扉が閉まる音が響く。
詩さんは背中を向けたまま、動かない。
「……見送ってくる」
俺は詩さんに声をかけたが、返事はなかった。
俺はサンダルを突っかけ、急いでドアを開けた。
エレベーターホールで、高貴さんがボタンを押しているところだった。
「あの!」
俺が声をかけると、彼は驚いたように振り返った。
「……何でしょう」
「すみません、あんな追い返すような真似をして」
「いえ。……自業自得ですから、父も、私も」
彼は寂しげに笑った。
その顔は、やはり詩さんによく似ていた。
「あの……お父様の容体は」
「……」
彼は少し言い淀み、そして首を横に振った。
「もう、長くないのですか?」
俺の問いに、彼は静かに答えた。
「……分かりません。予断を許さない状況です。……ですが」
彼は、閉ざされた2102号室のドアを見つめた。
「詩のあの様子を見る限りは、もう関係ないでしょう。あいつは、新しい家族を見つけたようですから」
高貴さんは、俺に向き直り、深々と頭を下げた。
「どうか……妹をよろしくお願いします。優しすぎて、損ばかりする奴ですが……幸せにしてやってください」
その言葉には、兄としての偽らざる愛情が込められていた。
彼もまた、父親の呪縛の中で苦しみながらも、妹のことを想っているんだろう。
「……お兄さん」
「失礼します」
到着したエレベーターに乗り込み、彼は去っていった。
◇◆◇
俺が部屋に戻ると、リビングから明るい声が聞こえてきた。
「はーい、陽菜ちゃん、高い高い~!」
「キャッキャッ!」
詩さんが、陽菜を抱き上げてあやしていた。
俺が戻ってきたことに気づくと、彼女は満面の笑みを向けた。
「おかえりなさい、優真さん! 今日の夕飯、なににしますか? 陽菜ちゃんもお腹空いたみたいだし、早めに作りましょうか!」
明るい。
あまりにも、明るすぎる。
さっきまでの涙も、怒りも、すべてなかったことにしたような笑顔。
それが、俺には痛々しくて見ていられなかった。
俺は無言で彼女に歩み寄り、その体を強く抱きしめた。
「……えっ? ゆ、優真さん……?」
彼女の体は、強張っていた。
「……詩さん。会いに行きましょう」
俺の言葉に、彼女の体がビクリと跳ねた。
「……え……」
「お父さんに、会いに行きましょう」
「……嫌です」
彼女は俺の腕の中で首を振った。
「言ったじゃないですか。もう関係ないって。私は、優真さんたちがいればそれで……」
「死んだ人には……もう会えないんです」
俺の言葉に、彼女が息を飲むのが分かった。
「……っ!」
「……家族が死んだら、その後どんなに会いたくても、話したくても、もう会えないんだ。謝ることも、罵ることも、許すことも、……愛を告げることもできないんです」
俺の脳裏に、姉ちゃんと義兄さんの笑顔が浮かぶ。
「また今度」と言って別れたのが最後だった。
もっと話せばよかった。もっと会いに行けばよかった。
その後悔は、一生消えることはない。
「……もう、家族なんかじゃ……」
「家族だ!」
俺は彼女の肩を掴み、顔を覗き込んだ。
「じゃなきゃ……あなたはどうして、そんなに泣きそうな顔をしてるんですか!!」
彼女の瞳は、涙で溢れそうになっていた。
必死に唇を噛み締め、こらえようとしている。
「どうでもいい人なら、そんな顔はしない。……まだ、心残りがあるんじゃないですか?」
「……だって……」
彼女の目から、ついに涙が決壊した。
「だってお父様は……優真さんに酷いことばっかり言って……! 私たちを否定して……! 私、それが許せなくて……っ!」
自分のことじゃない。
俺のことを悪く言われたのが、許せなかったのだと。
彼女は、俺のために怒り、俺のために親を捨てようとしてくれていた。
愛おしくて、たまらなくなる。
「……俺は、大丈夫です。何を言われても平気です。誰かに何か言われたくらいで、あなたへの愛は1ミリも揺らがないから」
俺は彼女の涙を親指で拭った。
「俺のために、後悔してほしくないんです。……会わなくて後悔するなら、会って後悔した方がいい。文句があるなら、生きているうちに言わなきゃ届きません」
「……っ、うぅ……」
「行きましょう。俺もついてます。陽菜も一緒です」
陽菜が、心配そうに詩さんの足元にしがみついている。
「あーだー、まん、ま、まんま」
詩さんはしゃがみ込み、陽菜を抱きしめた。
「……優真、さん……」
彼女は泣きじゃくりながら、小さく頷いた。
「……はい……行きます……」
俺は彼女の頭を撫でた。
外はもう日が傾きかけている。
俺たちは急いで支度をし、高貴さんが置いていった名刺の病院へと向かった。




