22
陽菜が生まれてから、365日。
激動の日々を経て、ついにこの日がやってきた。
陽菜の、1歳の誕生日だ。
「……よし。今回は完璧だ」
俺はリビングを見渡し、満足げに頷いた。
10ヶ月記念日の時の「株主総会」のような飾り付けの反省を活かし、今回は小日向さんの監修のもと、パステルカラーを基調とした可愛らしい装飾に仕上げてある。
「佐伯さん、ケーキの準備もできましたよ!」
キッチンから、エプロン姿の小日向さんが顔を出した。
その手には、食パンと水切りヨーグルトで作られた、赤ちゃん用のスマッシュケーキが乗っている。
「おお……すごい! プロの仕事ですね」
「ふふ、今日は特別な日ですから」
小日向さんが微笑む。
その笑顔を見るたびに、俺の心臓は心地よいリズムを刻む。
同棲を始めてから、俺たちはもう「家族」のように暮らしている。
けれど、まだ決定的な言葉は交わしていない。
今日だ。
俺は心の中で、強く念じた。
今日、すべてを伝えるんだ。
今日、終わらせる。この名前の無い中途半端な関係を。
「さあ、主役の登場ですね!」
俺はベビーベッドから、フリルのついたピンクのドレスを着た陽菜を抱き上げた。
「陽菜、お誕生日おめでとう」
「おめでとう、陽菜ちゃん」
俺たちが拍手をすると、陽菜は嬉しそうに手を叩き返した。
その時だった。
テーブルの上に置いていた俺のタブレットから、呼び出し音が鳴り響いた。
画面には『実家(母)』の文字。
「お、母さんからだ」
「お祝いの電話ですね!」
俺は通話ボタンを押し、陽菜を画面に向けた。
『あら、こんばんは! 陽菜ちゃん、お誕生日おめでとう!』
画面の向こうで、母が満面の笑みで手を振っていた。
「母さん。父さんの具合はどう?」
『落ち着いてるわよ。今はもう寝ちゃってるけど、陽菜ちゃんの写真見て喜んでたわ』
「そうか、よかった」
俺はほっと息をつき、隣に座っている小日向さんを画面に映り込ませた。
「……母さん。紹介したい人がいるんだ」
母が目を丸くする。
『あら? そちらの方は……』
「あ、えっと……」
小日向さんが緊張した面持ちで背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「初めまして。同じマンションに住んでおります、小日向詩と申します。……いつも、優真さんにお世話になっております」
『小日向さん……ああ! 玲奈がいつも話していた、陽菜ちゃんのことを手伝ってくださってる方ね?』
「は、はい。……あの、それと……」
小日向さんが俺の方をチラリと見る。
俺は頷き、母に向かって言った。
「母さん。紹介するよ。……俺の、大切な人だ。今、一緒に暮らしてる」
一瞬の間の後。
母の顔が、パァァっと輝いた。
『まあ……! まあ! そうなの!? 玲奈そんなことなんにも言ってなかったのに……!!』
「母さん、声大きいって……」
『だってあんた、仕事ばっかりで全然浮いた話がないから心配してたのよ! そう……小日向さん、優真のこと、よろしくお願いしますね。不器用で可愛げのない子ですけど』
「ふふ、そんなことありませんよ。とっても優しくて、頼りになる方です」
小日向さんが自然に笑って答えてくれた。
母もすっかり安心したようで、画面越しに何度も頷いている。
「中々行けなくてごめん、母さん。色々忙しくてさ。でも、落ち着いたら三人で顔見せに行くよ」
『無理しなくていいよ。いつでもいいから。……あんたたちが幸せなら、それが一番の親孝行だからね』
母の言葉が温かい。
「……あ、そういえば、玲奈のやつはどうだった? 実家に帰ってただろ?」
『あー、なんか、浮かれてたよ』
「「浮かれてた?」」
俺と小日向さんの声が重なる。
あいつが、浮かれていた?
『あの子が帰ってくるっていうから、地元の友達で集まったみたいでね。いい出会いがあったみたい』
俺たちは顔を見合わせた。
「あ、あいつが、恋愛!?」
『マサくんって覚えてる? 玲奈が小学生の頃、イジメられてたのを助けてあげた男の子』
「……あー、たしか、通学路が一緒だったんだっけ?」
記憶の糸を手繰り寄せる。
確か、ひ弱で大人しい男の子がいて、玲奈がよく面倒を見てやっていたような……。
『そうそう。玲奈が傷だらけで帰ってきた時あったでしょ? あの時、マサくんをいじめっ子たちのグループから助けたみたいで。それでマサくんはずっと玲奈に惚れちゃってたみたいなのよ』
「なんか、すごいエピソードですね……」
小日向さんが目を丸くして驚いている。
『そうなのよぉ。あの子昔っから喧嘩っ早いところあってねぇ? でも、よかった。マサくんもすごく立派になって、いい子になったみたいでね。留学が終わって帰ってくるまで玲奈を待ってるって』
「ほー……あいつはあいつで、ここを出てって良かった、ってことか」
俺たちの仲を取り持って、颯爽と去っていった妹。
その先で、自分自身の幸せも見つけていたとは。
ちゃっかりしてる。
「ふふ。ですね」
小日向さんも嬉しそうに微笑んだ。
『というわけで、こっちは心配いらないわよ。優真も、詩さんも、陽菜ちゃんのことよろしくね』
「ああ。任せてくれ」
「はい。お会いできる日を楽しみにしています」
通話を切ると、部屋にはさらに温かい空気が満ちていた。
母に認められたこと。玲奈が幸せそうであること。
そして、隣に小日向さんがいてくれること。
「……よかったですね、優真さん」
「はい。……さて、気を取り直して。パーティーの続きと行きますか!」
「はい! 陽菜ちゃん、ケーキ食べようね!」
それからは、笑い声の絶えない時間だった。
陽菜がケーキを手掴みで食べてクリームまみれになったり、選び取りカードで迷わず『おにぎり』を選んで大笑いしたり。
時間が経つのが惜しいくらい、幸せな一日だった。
◇◆◇
夜が更け、遊び疲れた陽菜が眠りについた頃。
俺と小日向さんは、キッチンで並んで洗い物をしていた。
水の流れる音と、食器が触れ合う音だけが響く静かな時間。
泡のついたスポンジを動かしながら、俺は隣の彼女の気配を感じていた。
この距離感が、たまらなく心地いい。
でも、このままじゃいけない。
母さんにも「一緒に暮らしてる」とは言ったが、明確な言葉はまだ伝えていない。
俺は水を止め、タオルで手を拭いた。
「……小日向さん」
「はい?」
彼女が洗い物の手を止めず、顔だけこちらに向ける。
「俺、陽菜を引き取って、本当によかったと思ってます」
俺の真剣な声色に気づいたのか、彼女は水を止め、俺に向き直った。
「……最初は、意地でした。親族への反発と、姉ちゃんへの義務感と、こんなに可愛い赤ちゃんを、施設送りにしようとするのが許せなくて。……それで、ロジックさえあれば俺なら育てられるなんて、傲慢なことを考えていました『陽菜幸せ計画』なんて大層な名前までつけて」
俺は自嘲気味に笑った。
「でも、現実は違った。俺一人じゃ、陽菜を幸せにするどころか、日々の生活さえままならなかった。……俺が潰れずに、こうして今日という日を笑って迎えられたのは……あなたがいてくれたからです」
「私は……少しお手伝いをしただけですよ。佐伯さんが頑張ったからです」
「いいえ。あなたが救ってくれたんです。……あの閉め出された夜も。そして、これまでも」
俺は一歩、彼女に近づいた。
心臓が、早鐘を打っている。
でも、伝えなきゃいけない。
「小日向さん。俺……あなたが、好きです」
ストレートな言葉。
小日向さんが、ハッとして目を見開く。
「えっ……」
「陽菜のためとか、育児のパートナーとしてとか、そんな建前はどうでもいい。俺自身が、あなたとずっと一緒にいたいって思ったんです」
俺は彼女の手を取った。
水仕事のあとで、少し冷たくて、でも柔らかい手。
「あなたと、陽菜と、三人で過ごす時間が……俺にとって、何よりも尊いものだと感じてしまった。あなたがいない未来なんて、もう考えられないんです」
小日向さんの瞳が潤み始める。
その頬が、朱に染まっていく。
「俺は、不器用だし、仕事人間だし、まだまだ父親としても半人前です。あなたに甘えてばかりで、情けないところもたくさん見せました。……でも」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、力を込めた。
「あなたを幸せにしたいという気持ちだけは、誰にも負けません。あの夜、俺はあなたに救われました。……今度は、俺があなたを守らせてください」
俺は、万感の思いを込めて、あの日――初めて彼女の部屋でご飯を食べた夜には言えなかった言葉を、今度は違う意味を込めて告げた。
「子持ちの、30過ぎのおっさんですけど……俺の恋人になってくれませんか」
「……そしていつかは、俺と陽菜の家族になってくれませんか」
静寂が落ちた。
時計の秒針の音だけが、チクタクと響く。
小日向さんは、ポロポロと涙を流していた。
そして、泣きじゃくりながら、でも満面の笑みを浮かべて、何度も頷いた。
「……はいっ……!」
震える声が、俺の鼓膜を震わせる。
「私も……私も、そうなれたら嬉しいなって……ずっと思っていました……!」
「小日向さん……」
「……詩、です」
彼女が、涙を拭いながら言った。
「名前で、呼んでください。……私の大切な人に……あなたに、そう呼んで欲しいんです」
「……う、詩……さん」
「はい。……優真さん」
名前を呼ばれた瞬間、俺の理性のタガが外れた。
たまらなくなって、彼女を強く抱きしめた。
「……っ、必ず、幸せにします。絶対に」
「はい。……ちゃんと幸せにしてくれないと、私が癇癪起こしますよ?」
腕の中の温もりが、俺の心を満たしていく。
俺は体を離し、彼女の濡れた瞳を見つめた。
ゆっくりと顔を近づける。
彼女がそっと目を閉じる。
唇が重なった。
柔らかくて、少ししょっぱい、涙の味がした。
誓いのキス。
「……まん、ま」
ふいに、リビングの方から可愛い寝言が聞こえた。
俺たちはビクッとして唇を離し、顔を見合わせた。
そして、ソファの方を見る。
陽菜が、夢の中で美味しいご飯でも食べているのか、口をモグモグさせながら寝返りを打っていた。
「……ふふっ」
「……ははっ」
俺たちは声を殺して吹き出した。
なんてタイミングだ。
でも、それが俺たちらしくて、最高に愛おしかった。
「どんな夢を見てるんでしょうね?」
「きっと楽しい夢ですよ。ほら、笑ってる」
「あ、ほんとだ! 可愛い! 優真さん、写真写真!」
「あ、そっか!」
俺は慌ててスマホを取り出し、幸せそうな寝顔を写真に収めた。
その隣で、詩さんが優しく微笑んでいる。
「あ、やば……! 容量がなくてもう写真撮れない!」
「えっ!? じゃあ私の方で……あ、わ、私も……」
「なんか消さないと……」
ふたりでカメラロールを見る。
その写真や動画を見て、思い出話が始まる。
動画を撮ることも忘れて、夢中で話す。
そして、ふとした時に、キスをする。
何度も、何度も、これまでの愛を確かめ合うみたいに、深く、熱く、甘く、尊いキスをする。
「なんだか……照れます」
「……俺も。でも……もっとしたいです」
「優真さん……」
今日はきっと、このキスはやめられない。
俺たちふたりを止められるとしたら、それは陽菜だけだ。
スマホが容量の限界を告げている。
けれど、容量を空けることなんてできない。
消していい思い出なんて、ひとつも無いから。
姉ちゃんが命をかけて残してくれたこの宝物。
そして、神様がくれた最高のパートナー。
俺は、この二人の笑顔を、一生守り抜く。
そう、心に誓った。




