表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/30

21

 

 部屋の中は、以前よりも少し静かになった。


 俺と、小日向さんと、陽菜。

 今は、三人で暮らす穏やかなリズムが、心地よく刻まれている。


 季節は3月の終わり。

 世間は年度末の忙しなさに包まれている。

 そしてそれは、保育士である小日向さんにとっても例外ではなかった。


「……はぁ」


 ここ数日、小日向さんの帰りが遅い。

 卒園式や新年度の準備、さらには春休み特別保育の対応などで、目が回るような忙しさらしい。


 時刻は午後9時を回っている。

 陽菜はすでに寝かしつけ、俺はリビングで仕事の資料(復職に向けてのリハビリも兼ねている)に目を通していた。


 カチャリ。


 玄関の鍵が開く音がした。


「……ただいま、戻りました……」


 聞こえてきたのは、消え入りそうなほど細い声だった。

 俺は慌てて玄関へ向かう。


 そこには、疲れ切って今にも崩れ落ちそうな小日向さんが立っていた。

 いつもの輝くような笑顔はない。

 目の下には薄く隈ができ、髪も少し乱れている。

 重たいトートバッグが、彼女の細い肩に食い込んでいた。


「おかえりなさい。……大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」


 俺が荷物を受け取ろうとすると、彼女は力なく首を振った。


「あ、すみません……大丈夫です。ちょっと、卒園式の準備でバタバタしちゃって……陽菜ちゃんは?」


「もう寝てますよ。……そんなことより、座ってください。倒れますよ」


 俺は彼女の背中を支え、リビングのソファへと誘導した。

 彼女は抵抗する気力もないのか、素直にソファに沈み込んだ。


「……すみません。夕飯、作りますね……冷蔵庫に何があったかな……」


 ふらふらと立ち上がろうとする彼女を、俺は手で制した。


「いいから、座っててください。今日は俺がやります」


「えっ? でも、佐伯さんもお仕事……」


「俺のはリハビリみたいなもんです。それに、いつも美味しいご飯を作ってもらってる恩返しをさせてください」


 俺は彼女にブランケットを掛け、キッチンへと向かった。


 冷蔵庫を開ける。

 卵、ネギ、冷凍ご飯、海苔。

 材料は揃っている。


 俺は、袖をまくり上げた。

 かつて、俺が育児に絶望し、飢えていた夜。

 彼女が作ってくれた「豚汁とおにぎり」の味を、俺はまだハッキリと覚えてる。

 あの温かさが、俺を救ってくれた。


 今度は、俺が彼女を救う番だ。


 ボウルに卵を3つ割り入れる。

 出汁、砂糖、少しの醤油。

 玲奈がいる間に、何度も練習させられた配合だ。


『お兄ちゃん、小日向さんは甘めの卵焼きが好きなの! これテストに出るよ!』


 スパルタ指導を思い出しながら、俺は菜箸で卵を溶いた。

 卵焼き器を熱し、油を引く。

 ジュウ、という小気味良い音が静かな部屋に響く。


 一度、二度、三度。

 卵液を流し込み、慎重に巻いていく。

 最初はスクランブルエッグにしか見えなかった俺の卵焼きも、今ではそれなりの形になるようになった。


 黄金色の塊が出来上がる。

 包丁を入れると、湯気と共に甘い出汁の香りが立ち上った。


 続けて、冷凍ご飯を解凍し、熱々のまま塩を振って握る。

 具はシンプルに梅干しと昆布。

 海苔をパリッと巻いて完成だ。


「お待たせしました」


 俺はお盆に料理を乗せ、リビングへと運んだ。

 おにぎりと、だし巻き卵、そして即席のお味噌汁。

 彼女が俺に作ってくれたメニューと似ているが、これが今の俺の精一杯だ。


「……わぁ」


 小日向さんが、目を見開いた。

 疲労で淀んでいた瞳に、少しだけ光が戻る。


「だし巻き卵……それに、おにぎり……」


「玲奈に特訓されたんです。味見はしましたけど、小日向さんのレベルには程遠いかもしれません」


 俺は照れ隠しに頭をかいた。


「食べてみてください。温かいうちに」


「……はい。いただきます」


 彼女は箸を手に取り、だし巻き卵を一切れ口に運んだ。

 ゆっくりと噛み締める。


 俺は固唾を飲んで見守った。

 味が濃すぎなかっただろうか。

 焼きすぎて固くなっていないだろうか。


 数秒の沈黙の後。

 彼女の肩が、小さく震えた。


「……っ」


 ポロリ、と。

 彼女の大きな瞳から、涙がこぼれ落ちた。


「えっ!? ま、まずかったですか!?」


 俺が慌てると、彼女は激しく首を横に振った。


「……ううん、違います……。美味しくて……すごく、美味しくて……」


 彼女は涙を拭おうともせず、もう一口食べた。


「今の私に……染みちゃって……温かくて……」


 その言葉に、俺は胸が締め付けられた。

 彼女はずっと、与える側だった。

 保育園では子供たちに、家では俺と陽菜に。

 自分のことは後回しにして、誰かのために尽くしてきた。


 実家でも、きっとそうだったのだろう。

 完璧を求めるあの父親の前で、甘えることなど許されなかったはずだ。


「……泣かないでくださいよ。俺まで泣けてくるじゃないですか」


 俺は彼女の隣に座り、そっと背中をさすった。

 華奢な背中だ。

 こんな小さな体で、彼女は色々なものを背負ってきたのだ。


「……すみません……。なんだか、ホッとしちゃって……」


「謝らないでください。俺はいつでも、ここであなたを待ってますから」


 彼女はハッとして俺を見上げ、そして泣き笑いのような表情で頷いた。


「……はい。そうですね」


 彼女は、おにぎりを手に取った。

 一口食べるごとに、彼女の顔色が少しずつ良くなっていく。

 その様子を見ているだけで、俺の心も満たされていくようだった。


 ああ、これが「家族」か。

 ふと、そう思った。


 ただ一緒にいるだけじゃない。

 辛い時に支え合い、温かいご飯を囲み、涙を見せ合える関係。


 俺は今、彼女を支えることができているだろうか。

 かつて彼女が俺を救ってくれたように、俺も彼女の安らぎになれているだろうか。


「佐伯さん」


 完食した後、彼女が温かいお茶をすすりながら呼んだ。


「はい」


「私……明日も頑張れそうです」


 その笑顔は、いつもの作り笑いではなく、心からのものに見えた。


「それはよかったです。……でも、無理はしないでくださいね。何かあったら、すぐに俺に投げてください。家事でも、愚痴でも」


「ふふ、頼もしいですね。……じゃあ、明日は洗濯物、お願いしちゃおうかな」


「お安い御用です。乾燥機までフルコースで仕上げますよ」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。

 夜の静寂の中に、穏やかな空気が流れる。


 俺は、この人を守りたいと強く思った。

 彼女が疲れ果てて帰ってきた時、こうして温かい場所を用意して待っていたい。

「おかえり」と言って、彼女の荷物を半分持ちたい。


 俺は、心の中で一つの決意を固めた。


 玲奈がいなくなったことで、この人が頼れるのはもう俺しかいなくなった。


「……ごちそうさまでした。世界で一番、美味しかったです」


 彼女の言葉が、俺の背中を力強く押してくれた気がした。


 もうすぐ、陽菜の誕生日が来る。

 その日に、すべてをはっきりさせよう。


 彼女に、一生分の「おかえり」を言う資格をもらうために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ