21
部屋の中は、以前よりも少し静かになった。
俺と、小日向さんと、陽菜。
今は、三人で暮らす穏やかなリズムが、心地よく刻まれている。
季節は3月の終わり。
世間は年度末の忙しなさに包まれている。
そしてそれは、保育士である小日向さんにとっても例外ではなかった。
「……はぁ」
ここ数日、小日向さんの帰りが遅い。
卒園式や新年度の準備、さらには春休み特別保育の対応などで、目が回るような忙しさらしい。
時刻は午後9時を回っている。
陽菜はすでに寝かしつけ、俺はリビングで仕事の資料(復職に向けてのリハビリも兼ねている)に目を通していた。
カチャリ。
玄関の鍵が開く音がした。
「……ただいま、戻りました……」
聞こえてきたのは、消え入りそうなほど細い声だった。
俺は慌てて玄関へ向かう。
そこには、疲れ切って今にも崩れ落ちそうな小日向さんが立っていた。
いつもの輝くような笑顔はない。
目の下には薄く隈ができ、髪も少し乱れている。
重たいトートバッグが、彼女の細い肩に食い込んでいた。
「おかえりなさい。……大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
俺が荷物を受け取ろうとすると、彼女は力なく首を振った。
「あ、すみません……大丈夫です。ちょっと、卒園式の準備でバタバタしちゃって……陽菜ちゃんは?」
「もう寝てますよ。……そんなことより、座ってください。倒れますよ」
俺は彼女の背中を支え、リビングのソファへと誘導した。
彼女は抵抗する気力もないのか、素直にソファに沈み込んだ。
「……すみません。夕飯、作りますね……冷蔵庫に何があったかな……」
ふらふらと立ち上がろうとする彼女を、俺は手で制した。
「いいから、座っててください。今日は俺がやります」
「えっ? でも、佐伯さんもお仕事……」
「俺のはリハビリみたいなもんです。それに、いつも美味しいご飯を作ってもらってる恩返しをさせてください」
俺は彼女にブランケットを掛け、キッチンへと向かった。
冷蔵庫を開ける。
卵、ネギ、冷凍ご飯、海苔。
材料は揃っている。
俺は、袖をまくり上げた。
かつて、俺が育児に絶望し、飢えていた夜。
彼女が作ってくれた「豚汁とおにぎり」の味を、俺はまだハッキリと覚えてる。
あの温かさが、俺を救ってくれた。
今度は、俺が彼女を救う番だ。
ボウルに卵を3つ割り入れる。
出汁、砂糖、少しの醤油。
玲奈がいる間に、何度も練習させられた配合だ。
『お兄ちゃん、小日向さんは甘めの卵焼きが好きなの! これテストに出るよ!』
スパルタ指導を思い出しながら、俺は菜箸で卵を溶いた。
卵焼き器を熱し、油を引く。
ジュウ、という小気味良い音が静かな部屋に響く。
一度、二度、三度。
卵液を流し込み、慎重に巻いていく。
最初はスクランブルエッグにしか見えなかった俺の卵焼きも、今ではそれなりの形になるようになった。
黄金色の塊が出来上がる。
包丁を入れると、湯気と共に甘い出汁の香りが立ち上った。
続けて、冷凍ご飯を解凍し、熱々のまま塩を振って握る。
具はシンプルに梅干しと昆布。
海苔をパリッと巻いて完成だ。
「お待たせしました」
俺はお盆に料理を乗せ、リビングへと運んだ。
おにぎりと、だし巻き卵、そして即席のお味噌汁。
彼女が俺に作ってくれたメニューと似ているが、これが今の俺の精一杯だ。
「……わぁ」
小日向さんが、目を見開いた。
疲労で淀んでいた瞳に、少しだけ光が戻る。
「だし巻き卵……それに、おにぎり……」
「玲奈に特訓されたんです。味見はしましたけど、小日向さんのレベルには程遠いかもしれません」
俺は照れ隠しに頭をかいた。
「食べてみてください。温かいうちに」
「……はい。いただきます」
彼女は箸を手に取り、だし巻き卵を一切れ口に運んだ。
ゆっくりと噛み締める。
俺は固唾を飲んで見守った。
味が濃すぎなかっただろうか。
焼きすぎて固くなっていないだろうか。
数秒の沈黙の後。
彼女の肩が、小さく震えた。
「……っ」
ポロリ、と。
彼女の大きな瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「えっ!? ま、まずかったですか!?」
俺が慌てると、彼女は激しく首を横に振った。
「……ううん、違います……。美味しくて……すごく、美味しくて……」
彼女は涙を拭おうともせず、もう一口食べた。
「今の私に……染みちゃって……温かくて……」
その言葉に、俺は胸が締め付けられた。
彼女はずっと、与える側だった。
保育園では子供たちに、家では俺と陽菜に。
自分のことは後回しにして、誰かのために尽くしてきた。
実家でも、きっとそうだったのだろう。
完璧を求めるあの父親の前で、甘えることなど許されなかったはずだ。
「……泣かないでくださいよ。俺まで泣けてくるじゃないですか」
俺は彼女の隣に座り、そっと背中をさすった。
華奢な背中だ。
こんな小さな体で、彼女は色々なものを背負ってきたのだ。
「……すみません……。なんだか、ホッとしちゃって……」
「謝らないでください。俺はいつでも、ここであなたを待ってますから」
彼女はハッとして俺を見上げ、そして泣き笑いのような表情で頷いた。
「……はい。そうですね」
彼女は、おにぎりを手に取った。
一口食べるごとに、彼女の顔色が少しずつ良くなっていく。
その様子を見ているだけで、俺の心も満たされていくようだった。
ああ、これが「家族」か。
ふと、そう思った。
ただ一緒にいるだけじゃない。
辛い時に支え合い、温かいご飯を囲み、涙を見せ合える関係。
俺は今、彼女を支えることができているだろうか。
かつて彼女が俺を救ってくれたように、俺も彼女の安らぎになれているだろうか。
「佐伯さん」
完食した後、彼女が温かいお茶をすすりながら呼んだ。
「はい」
「私……明日も頑張れそうです」
その笑顔は、いつもの作り笑いではなく、心からのものに見えた。
「それはよかったです。……でも、無理はしないでくださいね。何かあったら、すぐに俺に投げてください。家事でも、愚痴でも」
「ふふ、頼もしいですね。……じゃあ、明日は洗濯物、お願いしちゃおうかな」
「お安い御用です。乾燥機までフルコースで仕上げますよ」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
夜の静寂の中に、穏やかな空気が流れる。
俺は、この人を守りたいと強く思った。
彼女が疲れ果てて帰ってきた時、こうして温かい場所を用意して待っていたい。
「おかえり」と言って、彼女の荷物を半分持ちたい。
俺は、心の中で一つの決意を固めた。
玲奈がいなくなったことで、この人が頼れるのはもう俺しかいなくなった。
「……ごちそうさまでした。世界で一番、美味しかったです」
彼女の言葉が、俺の背中を力強く押してくれた気がした。
もうすぐ、陽菜の誕生日が来る。
その日に、すべてをはっきりさせよう。
彼女に、一生分の「おかえり」を言う資格をもらうために。




