20
陽菜が初めて言葉を発したあの夜から、一週間が経過した。
俺と小日向さん、そして玲奈の共同生活は、まるで最初からそうであったかのように自然に、穏やかに流れていた。
「……よし、パッキング完了!」
土曜日の朝。
リビングに、スーツケースのジッパーを閉める音が響いた。
来た時と同じ、いや、お土産やお気に入りの日本食を詰め込んでさらに膨れ上がった三つの巨大な塊が、玄関に鎮座している。
「本当に、今日行くのか?」
俺がコーヒーを片手に尋ねると、玲奈は腰に手を当てて晴れやかに笑った。
「うん。もう十分お世話になったしね。実家に一週間くらい顔出したら、そのままアメリカに戻るよ。向こうの大学の復学手続きもあるし」
「そうか……」
寂しくなるな、とは口に出せなかった。
玲奈が来てからのこの部屋は、いつも明るくて、騒がしくて、温かかった。
底抜けの明るさが、俺と小日向さんの背中を押し、陽菜を笑顔にしてくれた。
何度こいつに助けられたか。
「寂しい顔しないの。いつでもビデオ通話できるんだから」
「してないよ。……ただ、陽菜が泣くだろうなと思って」
「あはは、それは困るなぁ。おばちゃん、後ろ髪引かれちゃうよ」
玲奈は、ベビーサークルの中で遊ぶ陽菜に近づき、ぎゅっと抱きしめた。
「陽菜ちゃん、またね。いい子にしてるんだよ。パパのこと頼んだからね」
「あーうー!」
陽菜は分かっているのかいないのか、ニコニコと玲奈の頬を触っている。
その様子を、キッチンから小日向さんが見つめていた。
洗い物をする手が止まっている。
その背中が、どこか震えているように見えた。
「……小日向さん」
玲奈が声をかけると、小日向さんはハッとして振り返った。
その目は、すでに赤く潤んでいた。
「あ、ごめんなさい……私……」
小日向さんは慌ててタオルで手を拭き、リビングへとやってきた。
「玲奈ちゃん、本当に行っちゃうの……?」
「はい。長い間、お邪魔しました。小日向さんのご飯、本当に美味しかったです。あのだし巻き卵の味、向こうに行っても忘れません」
「……うぅ……」
玲奈の明るい声とは対照的に、小日向さんの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
この数週間、二人は本当の姉妹のように仲が良かった。
一緒に買い物に行き、料理をし、陽菜の服を選び、夜遅くまで女子トークに花を咲かせていた。
姉妹のいない小日向さんにとって、玲奈は初めてできた「妹」のような存在だったのかもしれない。
「だから、もうこれでお別れだよ」
玲奈があえておどけたように言うと、小日向さんは感極まったように玲奈を抱きしめた。
「玲奈ちゃん……っ! いかないで……っ」
「……小日向さん。今生の別れじゃあるまいしさ。LINEも交換したし、いつでも連絡取れるんだから」
玲奈は苦笑しながら、小日向さんの背中を優しくポンポンと叩いた。
その手つきは、陽菜をあやす時と同じくらい優しかった。
「……うん。でも、私……本当の妹ができたみたいで……すごく、嬉しかったから……!」
小日向さんの言葉に、玲奈の手が止まる。
玲奈は少しの間、黙って小日向さんの温もりを感じていたが、やがて静かに口を開いた。
「…………私も嬉しかった」
「え?」
玲奈の声が、少し震えていた。
「……お姉ちゃんのことが、大好きでね。優しくて、強くて、私の憧れだった」
「お姉ちゃんが死んじゃって……私、心にぽっかり穴が空いたみたいだった。留学してても、何をしてても、ずっと寂しくて、毎日泣いて」
彼女は、小日向さんの肩に顔を埋めた。
「でも、少しの間だけだけど、小日向さんと一緒に暮らして……美味しいご飯食べて、一緒に笑って、陽菜ちゃんの成長を見て……」
玲奈の声が、涙で濡れていく。
「お姉ちゃんが帰ってきたみたいで、嬉しかった。……小日向さんの中に、お姉ちゃんがいた気がしたの」
「……玲奈ちゃん」
小日向さんは、さらに強く玲奈を抱きしめ返した。
俺は、ただ黙ってその光景を見守ることしかできなかった。
しばらくして、玲奈は顔を上げた。
目は赤かったが、その表情は晴れやかだった。
「……ふぅ。湿っぽくなっちゃったね」
彼女は鼻をすすり、ニカっと笑った。
「小日向さん。……お兄ちゃんと陽菜ちゃんのこと、よろしくお願いします」
「……うん。任せて。私、頑張るから」
小日向さんは力強く頷いた。
「……お願いがあるんだ」
玲奈が、少し照れくさそうに言った。
「なに? なんでも言って」
「……レイって、呼んでみてくれない?」
「レイ?」
小日向さんが首を傾げる。
「……うん。お姉ちゃんが、私の事そう呼んでくれてたから」
小日向さんは、一瞬驚いたように目を見開き、それから慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
そして、玲奈のことを、もう一度強く抱きしめた。
「……レイ」
優しく、包み込むような声だった。
「元気でね、レイ……いつでも、帰っておいでね」
その声色は、まさしく姉ちゃんが玲奈を呼ぶ時のそれと重なった。
「……っ、うん……!」
玲奈が目を見開き、再び瞳を潤ませる。
堰を切ったように涙が溢れ、子供のように小日向さんの胸で泣いた。
「……お姉ちゃん」
小さく、そう呟いたのが聞こえた。
ひとしきり泣いた後、二人は離れた。
お互いに目は真っ赤だったが、その顔には清々しい笑顔があった。
「……いつか、本当になれたらいいな」
小日向さんが、涙を拭いながら恥ずかしそうに言った。
「え?」
「本当のお姉ちゃんに」
「…………なれるよ」
「なれる、かな?」
「うん。すぐなれると思う。絶対になれる」
玲奈は確信を持って言った。
そして、俺に向かってウィンクを飛ばす。
「だから、お兄ちゃんを待ってあげて。ちょっと……いや、だいぶヘタレだけど」
「……うん。待ってる」
小日向さんは、真っ直ぐに俺を見て頷いた。
その瞳には、信頼と、深い愛情が宿っていた。
「じゃあ、そろそろ行くね! 飛行機の時間もあるし!」
玲奈は空気を断ち切るように、パンと手を叩いた。
そして、三つのスーツケースを器用に操り、玄関のドアを開けた。
「下まで送るよ」
「ううん、いい。ここが、いい」
「……そっか」
「お兄ちゃん、小日向さん! 元気でね! 次会う時は、結婚式かな? ……んじゃ! また!」
爆弾発言を残して、嵐のような妹は去っていった。
バタン、とドアが閉まる。
部屋に静寂が戻った。
でも、それは以前のような寂しい静寂ではなかった。
俺と小日向さんは顔を見合わせ、苦笑した。
「……行っちゃいましたね」
「ええ。……嵐みたいなやつですね、ほんと」
「ふふっ、でも、素敵な嵐でした」
残されたのは、俺と小日向さんと陽菜。
本当の家族になるための、最後の準備期間が始まった。




