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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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2

 

 『陽菜幸せ計画』が始動して、約1ヶ月。


 優真のマンションの二つ隣の部屋、2104号室に住む小日向詩(こひなた うた)は、重たい足取りで帰路についていた。


「……はぁ」


 今日で何度目か分からないため息が、夕暮れの空に消えていく。


 手にはスーパーの袋。


 中身は、見切り品のキャベツと、安売りしていた豚肉。


 今日は、ここ最近で一番落ち込む出来事があった。


 勤務先の保育園でのことだ。

 お昼寝の時間明け、私が受け持っている1歳児クラスの男の子が、お友達とのおもちゃの取り合いで転んでしまった。


 ほんの一瞬。


 別の子の着替えを手伝っていた、わずかな隙の出来事だった。


 額にできた、小さなたんこぶ。

 すぐに冷やして、大事には至らなかったけれど、お迎えに来たお母さんの言葉が、胸に深く突き刺さっていた。


『先生、ちゃんと見ててくれました!?』


 お母さんの剣幕に、私はただひたすら頭を下げることしかできなかった。


『すみません、私の不注意です……』


『まだお若いからって、責任感なさすぎじゃないですか? もしもっと大きな怪我だったらどうするつもりだったんですか』


 その通りだ。

 言い返す言葉なんて何もない。


 先輩たちは「よくあることだよ」「ドンマイ」と励ましてくれたけれど、最後に園長先生に呼び出されて言われた言葉が、トドメだった。


『小日向先生は、優しすぎるのよ』


 園長先生は、諭すように言った。


『もっとプロとして毅然としなさい。あなたのその「自信のなさ」が、保護者の方を不安にさせているのよ』


 図星だった。

 私はいつだって、自分に自信がない。


 何をしていても「これでいいのかな」「私なんかが」と思ってしまう。


 優秀な兄と比べられ、「お前は要領が悪い」と言われ続けてきた呪いが、大人になった今でも解けないままだ。


「……私、保育士向いてないのかなぁ」


 マンションのエントランスを抜け、エレベーターホールに向かう。


 そこで、先客がいることに気づいた。


「あ……」


 ベビーカーを押した、背の高い男性。


 同じフロア、2102号室の佐伯さんだった。

 朝、玄関を出る時に何回か鉢合わせして挨拶をしたことがある。


 エントランスでスーツを着た男性が彼のことを『佐伯さん』と呼んでいたのを見た事があるので、名前だけは知っていた。


 佐伯さんが赤ちゃんを連れて公園を散歩しているのを最近よく見かける。


 私の帰宅時間と被っているみたい。


 ベビーカーの日もあれば、抱っこ紐の日もあって、熱心なパパさんだなぁ、っていつも思ってた。


 私はその光景を見ると、今日も無事に帰ってきたなぁって、ちょっと安心するようになっていた。


 彼は私に気付くと、声をかけてきた。


「こんばんは」


 彼の方から、低くて良い声で挨拶をしてきた。


「あ、こ、こんばんは……」


 私は慌てて頭を下げた。


 チン、と到着音が鳴り、ドアが開く。

 私たちは一緒にエレベーターに乗り込んだ。

 狭い箱の中に、二人きり、しかも同じ階。


 沈黙が気まずくて、私は何気なくベビーカーの中を覗き込んだ。


 そこには、天使のように可愛い赤ちゃんが乗っていた。


 生後8ヶ月くらいだろうか。


 まぁるいほっぺに、長いまつ毛。


 でも。


「……ん?」


 違和感があった。

 赤ちゃんの顔が、少し赤い。

 そして、着ている服。


 モコモコのフリースに、厚手の靴下。さらにブランケットまで掛かっている。


 今日は確かに風があるけれど、マンションの中は空調が効いているし、ベビーカーの中は熱がこもりやすい。


 赤ちゃんは体温が高い。


 こんなに着せたら、暑くてたまらないはずだ。


 実際、赤ちゃんは少し不機嫌そうに身をよじり、靴下を蹴脱ごうとしている。


(……教えてあげた方がいいかな)


 職業病が顔を出す。


 普段なら「お父さん、ちょっと厚着すぎますよ」と笑顔で言えたかもしれない。


 でも、今日の私は、自信喪失のどん底にいた。


 『責任感がない』


 『自信のなさが不安にさせる』


 保護者と園長先生の言葉が、呪いのように足を止める。


 私なんかが、口出ししていいんだろうか?


 余計なお世話じゃないか?


 佐伯さんはすごく頭が良さそうだし、ちゃんとした考えがあって着せているのかもしれない。


 私みたいな半人前の保育士が指摘したら、気を悪くするかもしれない。


 迷っている間に、エレベーターは21階に到着してしまった。


 ドアが開く。

 彼はベビーカーを押して降りようとする。


「あの……!」


 私は、勇気を振り絞って声をかけた。

 彼は足を止め、不思議そうに振り返った。

 嫌な顔一つせず、真っ直ぐに私を見てくれる。


「はい? 何か?」


「その……赤ちゃん……」


 言葉が詰まる。

 喉まで出かかった『暑そうですよ』という言葉が、恐怖に変わって飲み込まれていく。


 また、間違っていたら?


 また、『責任感がない』って思われたら?


「……可愛い、ですね」


 結局、口から出たのは、そんな当たり障りのない言葉だった。


 佐伯さんは、それを聞いてパッと表情を明るくした。

 さっきまでのクールな顔が崩れ、デレデレの親バカの顔になる。


「そ、そうなんですよ! ありがとうございます!  笑うとめちゃくちゃ可愛くて! ……まあ、まだ俺の抱っこだとほぼ泣くんですけどね」


「そ、そうですか……頑張ってください」


「ええ。風邪を引かせないように、防寒対策もバッチリにしてきましたから。では、失礼します」


 彼は満足そうに微笑んで、2102号室へと歩いて行ってしまった。


 防寒対策。

 やっぱり、彼は良かれと思ってやっているんだ。


 一生懸命、この子を守ろうとして。

 それを指摘できなかった自分が、ひどく情けなかった。


「……だよね。言えないよね、私なんかじゃ」


 閉ざされた2102号室のドアを見つめ、私は深くため息をついた。


 鍵を開け、暗い自分の部屋に入る。


 あの赤ちゃんの、少し苦しそうな赤い顔と、佐伯さんの誇らしげな笑顔が、交互に脳裏をよぎった。




 ◇◆◇




 部屋に戻った俺は陽菜をベビーベッドに寝かせた。


「ふぅ。今の人、何回か会ったことあるよな」


 少し地味で、大人しそうな女性だ。


 何か言いたげだったが……陽菜に見惚れていたのかな?


 無理もない。陽菜は世界一可愛いからな。


「さて、陽菜。室温よし、湿度よし」


 俺は室温計を確認した。26度。

 完璧だ。

 マニュアル(自作)通り、風邪など引かせるものか。


 俺はニットを脱ぎ、腕まくりをした。


「さあ、次は手作り離乳食でも挑戦してみるか……!」


 しかし。


「フギャッ……フギャアアアア!!」


 突然、陽菜が火がついたように泣き出した。


「おっと、どうした? オムツか!?」


 確認するが、濡れていない。


「ミルクか?」


 さっき飲んだばかりだ。


「……眠いのか?」


 抱っこして揺らしてみるが、泣き声は大きくなるばかりだ。


 いつもなら、少し揺らせば泣き止むのに。

 体をのけぞらせ、顔を真っ赤にして、まるで何かに怒っているかのように泣き叫ぶ。


「ど、どうしたんだ……!? マニュアルにはこんなこと書いてない……!」


 さっきまでの余裕が、少しずつ剥がれ落ちていく。


 俺の額に、じわりと冷や汗が滲んだ。




 ◇◆◇




 数時間が経過した。

 陽菜は泣き止んだと思うとまたすぐ泣いたりを繰り返していた。


 抱っこすればマシになるが、それでもやはり泣く。


 時刻は22時を回っている。


「……頼む、頼むから……寝てくれ……」


 腕の中には、真っ赤な顔をして泣き叫ぶ陽菜。


 窓の外には東京の夜景が広がっているはずだが、遮光カーテンを締め切ったこの部屋は、まるで深海の底のように重苦しい。


 正直、自信はあった。


 陽菜を引き取ってから一ヶ月、泣くことはしょっちゅうだが、必ず泣き止んだし、キャッキャと笑ってくれる時間も増えた。


 だが、今日の陽菜は寝ない。泣き止まない。


 ベッドに置いた瞬間に泣き出し、抱っこしても体をのけぞらせて嫌がる。


「……なんでだ? 何が間違ってる?」


 俺のロジックが、通じない。


 これまでの一ヶ月はなんとかなったのに……。



 ふと、昼間に実家の母からかかってきた電話を思い出す。


『優真、大丈夫なの? こっちはお父さんの介護で手一杯で行けなくてごめんね……。あ、そうだ。東京も急に冷え込んできたってニュースで見たわよ』


 母の声は、遠方の息子と孫を気遣う、優しいものだった。


『赤ちゃんはね、体温調節が苦手だから、大人が気をつけてあげなきゃダメよ。風邪引かせたら、肺炎にだってなりかねないんだから。とにかく温かくしてあげてね』


 その言葉を、俺は忠実に守ったつもりだった。


 風邪を引かせたら俺の責任だ。

 だから、室温は常に高めの26度に設定し、最新のフリースを着せ、さらにブランケットで包み込んでいる。


 さっきエレベーターで会った隣人にも胸を張って言ったばかりだ。


『防寒対策は完璧です』と。


 それなのに。


「フギャアアアア!!」


 陽菜の泣き声は、さらにボリュームを上げていく。


「い、一旦! 一旦落ち着こう!」


 暴れる手足を押さえようとして、ふと、その肌の異常な熱さに気づいた。


「……熱い?」


 俺は自分の額を、陽菜の額に押し当てた。


 瞬間、心臓が凍りついた。


 焼き石のように熱い。


 ただ泣いて火照っているだけじゃない、明らかな異常発熱だ。


「熱……!? 嘘だろ、何度あるんだ!?」


 思考が一気に白く染まる。


 赤ちゃんの高熱。


 母さんの言っていた「肺炎」という言葉が、呪いのように脳裏をよぎり、血の気が引く。


「びょ、病院……病院に行かないと……!」


 恐怖で手が震えた。


 どうする? 救急車か? いや、まだ意識はある。


 タクシーだ。タクシーで夜間診療へ行くんだ。


 何が必要だ?

 保険証? 母子手帳?

 いや、そんなものを探している時間はない。


 一刻を争うかもしれないんだ。

 俺は陽菜を抱きしめたまま、サンダルを突っかけ、重たいドアを勢いよく開けた。


 正直、パニックになっていた。


 陽菜を守ってあげたいという一心だけで、何も見えなくなって、何も考えられなくなっていた。


 バタンッ!!


 背後で、重厚な金属音が響いた。


 俺は廊下を数歩走ってから、ハッと足を止めた。


「……そうだ、配車アプリでタクシー呼んどこう……!」


 ポケットを探る。


 軽い。

 スマホがない。

 財布もない。

 そして何より、部屋のカードキーがない。


 サーッと、全身の血の気が引いていく音が聞こえた気がした。


 俺はゆっくりと、恐る恐る振り返る。


 そこには、閉ざされた2102号室のドアが、冷たく鎮座していた。


 このマンションは、セキュリティが万全だ。


 最新式のスマートロックを採用しており、ドアが閉まれば数秒後に自動で施錠される設定になっている。


 普段なら「鍵の閉め忘れがなくて便利だ」と気に入っていた機能。


 そのセキュリティの高さが、今は俺を拒絶する城壁となっていた。


 カチャ。カチャカチャ。


 ドアノブを回す。


 回らない。


 ノブの上にある赤いランプが、冷酷に点滅している。


「……うそ、だろ」


 閉め出された。

 スマホも、金も、移動手段も、すべて部屋の中だ。

 俺の格好は、薄手のリラックスウェアにサンダル履き。


 そして腕の中には、高熱を出して泣き叫ぶ赤ちゃん。


「開け……開いてくれよ……っ!」


 バンバンとドアを叩くが、分厚い鉄の扉はビクともしない。


 どうする?


 最悪なことに、今は22時過ぎ。


 ここのエレベーターは夜間セキュリティモードがかかっている。内側からエレベーターを呼ぶにもカードキーが必要だ。


「俺……ここからどこにも行けないぞ……」


 この階に住む誰かが来るのを待つ?


 待ってどうする!? なんて説明する!?


 『鍵を忘れました、助けてください』なんて、どこの誰に言えばいい?


「フギャアアアア!!」


 俺の焦りが伝播したのか、陽菜の泣き声がさらに大きくなる。


 静まり返った内廊下に、泣き声が反響する。


 それはまるで、俺の無能さを責め立てるサイレンのようだった。


「ごめん……ごめんな……俺が、俺がバカなせいで……っ」


 膝から力が抜けた。


 その場に崩れ落ちそうになった、その時だった。


 ガチャリ。


 廊下の奥で、ドアが開く音がした。


 顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。


 地味な色の部屋着に、カーディガンを羽織った姿。


 ――数時間前、エレベーターで一緒になった、2104号室の隣人だ。


 彼女は、財布を手に持ったまま、廊下の真ん中で立ち尽くす俺と、泣き叫ぶ陽菜を見て、驚いたように目を見開いた。


「えっ?」


 俺の中に、迷いはなかった。


 ただ、陽菜をこのままにしておけないという一心で、すがるような思いで彼女に声をかけた。


「「あの……」」


 声が重なった。


 彼女もまた、俺に何かを言おうとしていたようだった。


 俺は、恥も外聞も捨てて、彼女に頭を下げた。


「助けて、ください……! この子が……熱があるんです……!」


 俺の声は震えていた。


「病院に行こうとして……鍵を忘れて、閉め出されてしまって……!」


 彼女の視線が、俺のサンダル履きの足元と、陽菜の顔を行き来する。


「一瞬だけ、通話をさせてもらえませんか!? タクシーか、救急車か……! そうだ、管理会社にも言わないと……!」


「……お、落ち着いてください!」


 彼女の強い言葉が響く。


「……お部屋に、入れなくなってしまったんですね? それで、赤ちゃんは熱があると」


「は、はい……」


「……」


 彼女は少し近付いて、陽菜の顔を覗き込んだ。


「分かりました。ここにいても解決しませんので、ひとまず、部屋の中へどうぞ」


 彼女は俺の顔と、陽菜の顔を交互に見た後、自分の部屋のドアを開けた。


「い、いや! しかし女性の家に入り込むなんて……!」


「そんな事言ってる場合ですか? 私は構いませんから、早く。近所迷惑にもなりますし、赤ちゃんが可哀想です」


「え……?」


「早く!」


 強い口調だった。


「は、はい……!」


 さっきエレベーターで見せた、自信なさげな態度はどこにもなかった。


 彼女は手際よく俺を招き入れると、すぐにドアを閉めた。

 

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