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朝、キッチンのいい匂いで目が覚める。
リビングに行くと、小日向さんがエプロン姿で朝食を作り、その横で寝癖のついた玲奈がつまみ食いをして怒られている。
陽菜はベビーサークルの中で、お気に入りのおもちゃを振ってご機嫌だ。
「あ、おはようございます佐伯さん。もうすぐ焼けますよ」
「お兄ちゃん遅いー。トースト冷めちゃうじゃん」
「お前が早く起きすぎなんだよ……」
そんな他愛もないやり取りから一日が始まる。
最初は遠慮がちだった小日向さんも、玲奈の強引な巻き込み力のおかげで、すっかりこの部屋での生活に馴染んでいた。
むしろ、玲奈と二人で結託して俺をいじってくることすらある。
まるで、ずっと前からこうして暮らしていたかのような錯覚。
この温もりが、俺の冷え切っていた心を確実に溶かしていった。
ある日の夕食時。
今日のメニューは、小日向さん特製の煮込みハンバーグだ。
デミグラスソースの濃厚な香りが食欲をそそる。
「いただきまーす! ん〜! 小日向さんのハンバーグ最高!」
玲奈が目を輝かせて頬張る。
「ふふ、玲奈ちゃんは食べっぷりが良くて作りがいがあるなぁ」
小日向さんも嬉しそうだ。
俺たちは自分の食事を進めながら、陽菜に離乳食を食べさせていた。
今日の陽菜のメニューは、かぼちゃとほうれん草のペースト、それに柔らかく煮たお粥だ。
「はい、陽菜ちゃん。あーん」
小日向さんがスプーンを差し出すと、陽菜は大きく口を開けてパクッと食べた。
黄色いかぼちゃペーストが、小さな口の周りにつく。
「おいしい? もぐもぐ、上手だねぇ」
小日向さんがガーゼで優しく口元を拭いてあげると、陽菜は嬉しそうに目を細めて足をバタつかせた。
その様子を、俺と玲奈は微笑ましく見守っていた。
「ほんと、小日向さんには懐いてるよなぁ。俺があげる時より口の開きが大きい気がする」
俺が少し拗ねたように言うと、玲奈がニヤニヤしながらツッコんでくる。
「愛の差じゃない? 日頃の行いだよ、お兄ちゃん。あと、小日向さんの方がスプーンの運び方が優しいもん」
「うるさいな。俺だって愛情は負けてないぞ」
「ふふっ、二人とも仲良しですね」
小日向さんがクスクスと笑う。
そんな賑やかな時間が流れていた、その時だった。
陽菜が突然、食事の手を止めた。
スプーンを持った小日向さんの手をじっと見つめ、何か言いたげに口をもごもごさせている。
「ん? どうした陽菜。もっと欲しいのか?」
俺が顔を覗き込むと、陽菜は一生懸命に小さな唇を動かした。
「……ん、ぅ……」
「あーうー、じゃないな。なんだ?」
玲奈も箸を止めて注目する。
小日向さんが、「頑張れー」と小声で応援する。
陽菜は、顔を真っ赤にして、体中の力を振り絞るようにして、もう一度口を開いた。
今度は、はっきりと。
「……まん、ま!」
時が止まった。
ダイニングの空気が、一瞬で真空になったような静寂。
そして次の瞬間、爆発的な歓喜が弾けた。
「言った!!」
俺と小日向さんの声が、完全に重なった。
椅子を蹴る勢いで立ち上がる。
「小日向さん、聞きました!? 今、まんまって言いましたよね!? 空耳じゃないですよね!?」
「聞きました! 言いました! はっきり『まんま』って! すごいすごい! 陽菜ちゃん!」
俺たちは興奮のあまり、テーブル越しに身を乗り出して顔を見合わせた。
言葉にならない喜びが溢れ出し、そのまま自然とハイタッチをした。
パチン! といい音が部屋に響き渡る。
「すごいぞ陽菜! 天才か!? まだ10ヶ月だぞ! これはギネス級の知性だ!」
「ふふっ、ご飯が美味しかったんですね! もっと食べたかったのかな? まんま、だもんねぇ!」
俺たちは陽菜を囲んで大騒ぎだ。
陽菜は自分が褒められているのが分かるのか、ニカっと上下に数本ずつ生え始めた可愛い歯を見せて笑っている。
その笑顔が、たまらなく愛おしい。
「動画! 動画撮らなきゃ! もう一回言ってくれるかもしれない!」
俺が慌ててスマホを探すと、小日向さんが素早く自分のスマホを構えた。
「あ、私が撮ります! 佐伯さんは陽菜ちゃんに話しかけてあげてください! パパの声があった方が喜びますから!」
「ナイス判断です! よし陽菜、パパだぞー。もう一回言ってごらん? まんまー」
二人の連携は完璧だった。
呼吸が合っているなんてもんじゃない。
まるで、長年連れ添った夫婦が、初めての我が子の成長を喜んでいるかのような。
そこには、誰も入り込めない、完成された「家族」の空気が満ちていた。
その様子を、少し離れた場所から玲奈が見ていた。
手には、食べかけのハンバーグ。
「えー! なんで『ねーね』じゃないのー! 私が一番遊んであげてるのにー!」
玲奈は口を尖らせて悔しがる素振りを見せた。
いつものように、騒がしく輪に入っていこうとして――ふと、足を止めた。
◇◆◇
ハイタッチをして、顔を見合わせて笑うお兄ちゃんと小日向さん。
その間にいる陽菜ちゃん。
三人の笑顔が、リビングの照明の下で、あまりにも眩しく輝いていたから、私はそこへ入り込めなかった。
(……ああ)
胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
お兄ちゃんは変わった。
かつての、仕事人間で、ロジックだけで生きていた冷徹な男はもういない。
必死になって赤ん坊をあやし、大切な人と心から笑い合える、温かい人間になった。
お姉ちゃんが死んでからずっと張り詰めていた糸が、ようやく解けたんだ。
そして小日向さんも。
お兄ちゃんと陽菜ちゃんに必要とされることで、今の彼女は、誰よりも頼もしい「母親」の顔をしている。
二人は、お互いを支え合い、補い合い、そして愛し合っている。
私が間に入らなくても、もう自然と手が届く距離にいる。
そこに、他人が入り込む隙間なんて、1ミリもない。
それが、少しだけ寂しくて。
でも、それ以上に嬉しかった。
(……お姉ちゃん。見てる?)
(陽菜ちゃん、喋ったよ。お兄ちゃんも、もう大丈夫だよ。……素敵な人が、そばにいてくれるから)
視界が少し滲んだ。
涙をこらえるように、私は大きく息を吸い込んだ。
「……そろそろ、潮時かな」
誰にも聞こえない声量での独り言。
私の役目は終わったんだと、この幸せな光景が教えてくれていた。
これ以上ここに居座るのは、野暮かな。
あとは、二人の背中を最後にひと押ししてあげるだけ。
「玲奈! 見てみろ、陽菜がまた笑ってるぞ!」
お兄ちゃんが興奮気味に振り返って私に声をかけると、私はパッといつもの明るい笑顔を作った。
一瞬たりとも、寂しさを見せないように。
「はいはい、見てるって。天使天使。動画は後で共有してよね!」
私は肩をすくめて、おどけて見せた。
宴は夜遅くまで続いた。
初めての言葉記念日。
それは、私たち三人にとって、忘れられない夜になった。




