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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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 朝、キッチンのいい匂いで目が覚める。

 リビングに行くと、小日向さんがエプロン姿で朝食を作り、その横で寝癖のついた玲奈がつまみ食いをして怒られている。

 陽菜はベビーサークルの中で、お気に入りのおもちゃを振ってご機嫌だ。


「あ、おはようございます佐伯さん。もうすぐ焼けますよ」


「お兄ちゃん遅いー。トースト冷めちゃうじゃん」


「お前が早く起きすぎなんだよ……」


 そんな他愛もないやり取りから一日が始まる。


 最初は遠慮がちだった小日向さんも、玲奈の強引な巻き込み力のおかげで、すっかりこの部屋での生活に馴染んでいた。

 むしろ、玲奈と二人で結託して俺をいじってくることすらある。


 まるで、ずっと前からこうして暮らしていたかのような錯覚。

 この温もりが、俺の冷え切っていた心を確実に溶かしていった。


 ある日の夕食時。

 今日のメニューは、小日向さん特製の煮込みハンバーグだ。

 デミグラスソースの濃厚な香りが食欲をそそる。


「いただきまーす! ん〜! 小日向さんのハンバーグ最高!」


 玲奈が目を輝かせて頬張る。


「ふふ、玲奈ちゃんは食べっぷりが良くて作りがいがあるなぁ」


 小日向さんも嬉しそうだ。

 俺たちは自分の食事を進めながら、陽菜に離乳食を食べさせていた。

 今日の陽菜のメニューは、かぼちゃとほうれん草のペースト、それに柔らかく煮たお粥だ。


「はい、陽菜ちゃん。あーん」


 小日向さんがスプーンを差し出すと、陽菜は大きく口を開けてパクッと食べた。

 黄色いかぼちゃペーストが、小さな口の周りにつく。


「おいしい? もぐもぐ、上手だねぇ」


 小日向さんがガーゼで優しく口元を拭いてあげると、陽菜は嬉しそうに目を細めて足をバタつかせた。

 その様子を、俺と玲奈は微笑ましく見守っていた。


「ほんと、小日向さんには懐いてるよなぁ。俺があげる時より口の開きが大きい気がする」


 俺が少し拗ねたように言うと、玲奈がニヤニヤしながらツッコんでくる。


「愛の差じゃない? 日頃の行いだよ、お兄ちゃん。あと、小日向さんの方がスプーンの運び方が優しいもん」


「うるさいな。俺だって愛情は負けてないぞ」


「ふふっ、二人とも仲良しですね」


 小日向さんがクスクスと笑う。

 そんな賑やかな時間が流れていた、その時だった。


 陽菜が突然、食事の手を止めた。

 スプーンを持った小日向さんの手をじっと見つめ、何か言いたげに口をもごもごさせている。


「ん? どうした陽菜。もっと欲しいのか?」


 俺が顔を覗き込むと、陽菜は一生懸命に小さな唇を動かした。


「……ん、ぅ……」


「あーうー、じゃないな。なんだ?」


 玲奈も箸を止めて注目する。

 小日向さんが、「頑張れー」と小声で応援する。


 陽菜は、顔を真っ赤にして、体中の力を振り絞るようにして、もう一度口を開いた。

 今度は、はっきりと。


「……まん、ま!」


 時が止まった。

 ダイニングの空気が、一瞬で真空になったような静寂。


 そして次の瞬間、爆発的な歓喜が弾けた。


「言った!!」


 俺と小日向さんの声が、完全に重なった。

 椅子を蹴る勢いで立ち上がる。


「小日向さん、聞きました!? 今、まんまって言いましたよね!? 空耳じゃないですよね!?」


「聞きました! 言いました! はっきり『まんま』って! すごいすごい! 陽菜ちゃん!」


 俺たちは興奮のあまり、テーブル越しに身を乗り出して顔を見合わせた。

 言葉にならない喜びが溢れ出し、そのまま自然とハイタッチをした。

 パチン! といい音が部屋に響き渡る。


「すごいぞ陽菜! 天才か!? まだ10ヶ月だぞ! これはギネス級の知性だ!」


「ふふっ、ご飯が美味しかったんですね! もっと食べたかったのかな? まんま、だもんねぇ!」


 俺たちは陽菜を囲んで大騒ぎだ。

 陽菜は自分が褒められているのが分かるのか、ニカっと上下に数本ずつ生え始めた可愛い歯を見せて笑っている。

 その笑顔が、たまらなく愛おしい。


「動画! 動画撮らなきゃ! もう一回言ってくれるかもしれない!」


 俺が慌ててスマホを探すと、小日向さんが素早く自分のスマホを構えた。


「あ、私が撮ります! 佐伯さんは陽菜ちゃんに話しかけてあげてください! パパの声があった方が喜びますから!」


「ナイス判断です! よし陽菜、パパだぞー。もう一回言ってごらん? まんまー」


 二人の連携は完璧だった。

 呼吸が合っているなんてもんじゃない。

 まるで、長年連れ添った夫婦が、初めての我が子の成長を喜んでいるかのような。

 そこには、誰も入り込めない、完成された「家族」の空気が満ちていた。


 その様子を、少し離れた場所から玲奈が見ていた。

 手には、食べかけのハンバーグ。


「えー! なんで『ねーね』じゃないのー! 私が一番遊んであげてるのにー!」


 玲奈は口を尖らせて悔しがる素振りを見せた。

 いつものように、騒がしく輪に入っていこうとして――ふと、足を止めた。



◇◆◇



 ハイタッチをして、顔を見合わせて笑うお兄ちゃんと小日向さん。

 その間にいる陽菜ちゃん。

 三人の笑顔が、リビングの照明の下で、あまりにも眩しく輝いていたから、私はそこへ入り込めなかった。


(……ああ)


 胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 お兄ちゃんは変わった。

 かつての、仕事人間で、ロジックだけで生きていた冷徹な男はもういない。


 必死になって赤ん坊をあやし、大切な人と心から笑い合える、温かい人間になった。

 お姉ちゃんが死んでからずっと張り詰めていた糸が、ようやく解けたんだ。


 そして小日向さんも。

 お兄ちゃんと陽菜ちゃんに必要とされることで、今の彼女は、誰よりも頼もしい「母親」の顔をしている。


 二人は、お互いを支え合い、補い合い、そして愛し合っている。

 私が間に入らなくても、もう自然と手が届く距離にいる。

 そこに、他人が入り込む隙間なんて、1ミリもない。


 それが、少しだけ寂しくて。

 でも、それ以上に嬉しかった。


(……お姉ちゃん。見てる?)


(陽菜ちゃん、喋ったよ。お兄ちゃんも、もう大丈夫だよ。……素敵な人が、そばにいてくれるから)


 視界が少し滲んだ。

 涙をこらえるように、私は大きく息を吸い込んだ。


「……そろそろ、潮時かな」


 誰にも聞こえない声量での独り言。

 私の役目は終わったんだと、この幸せな光景が教えてくれていた。

 これ以上ここに居座るのは、野暮かな。


 あとは、二人の背中を最後にひと押ししてあげるだけ。


「玲奈! 見てみろ、陽菜がまた笑ってるぞ!」


 お兄ちゃんが興奮気味に振り返って私に声をかけると、私はパッといつもの明るい笑顔を作った。

 一瞬たりとも、寂しさを見せないように。


「はいはい、見てるって。天使天使。動画は後で共有してよね!」


 私は肩をすくめて、おどけて見せた。


 宴は夜遅くまで続いた。

 初めての言葉記念日。

 それは、私たち三人にとって、忘れられない夜になった。


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