18
引越しはすんなりと終わった。
といっても、ほとんどの物は俺の家に揃っている。小日向さんが持ち出したのは、衣類や思い出の品、仕事道具といった身の回りのものだけだ。
父親が買い与えた家具や家電、不要なものは全部そのまま置きっぱなしにした。
向こうが勝手に回収するだろう。
それが、彼女なりの最後の「反抗」であり、決別だった。
それから、2週間が経過した。
俺、小日向さん、そして玲奈。
大人3人と赤ん坊1人の、奇妙な同棲生活が始まっていた。
「お兄ちゃん、醤油取ってー」
「はいよ。……てか玲奈、お前いつまでいるつもりだ? 留学に影響ないのか?」
「んー? まあ、まだセーフかな。出てくのは……陽菜ちゃんが私離れできるまで?」
「なんだそれ……」
「ふふっ、玲奈さんがいてくれると助かりますよ。ねー、陽菜ちゃん」
「あーうー!」
朝のダイニングには、以前の孤独な静けさは微塵もない。
玲奈と小日向さんが楽しそうに話し、陽菜が声を上げ、俺がツッコミを入れる。
騒がしくて、温かい、家族の食卓だ。
今日は、特別な日だった。
陽菜が生後10ヶ月を迎える日だ。
「よし。玲奈、小日向さん。今日の午後は俺に時間をくれないか?」
朝食後、俺は二人に宣言した。
「え? どうしたんですか改まって」
「今日は陽菜の10ヶ月記念日だ。俺が責任を持って、リビングを記念日仕様にデコレーションしようと思う」
「え、デコレーション……佐伯さんが?」
小日向さんが目を丸くする。
玲奈はニヤニヤしながら、「へえ、お手並み拝見」と砂糖たっぷり、牛乳8。コーヒー2の激甘カフェオレを飲んだ。
「任せておけ。ネットで『映える』飾り付けセットを取り寄せた。配置も完璧にシミュレーション済みだ」
俺は自信満々に胸を張った。
この日のために、バルーンアートやガーランドの配置黄金比を寝る間も惜しんで研究し尽くしたのだ。
「じゃあ、私たちは買い物に行ってきますね。ケーキの材料とか買ってきます」
「お願いします。帰ってくる頃には、この部屋がスタジオアリスも真っ青の撮影スタジオに変わってるはずなんで!」
二人が出かけていくのを見送り、俺は腕まくりをした。
陽菜はバウンサーで大人しく子供番組を見ている。
「よし、陽菜。パパの本気を見せてやるからな。本気を出した俺はすごいぞ」
俺は届いた段ボールを開封し、作業に取り掛かった。
◇◆◇
数時間後。
「ただいま戻りました」
玄関のドアが開き、小日向さんと玲奈が帰ってきた。
「おかえりなさい。凄いですよ、小日向さん。玲奈。傑作だ!」
俺はリビングのドアの前で、もったいぶって二人を迎えた。
額には汗が滲んでいる。かなりの重労働だった。
「ふーん、すごい自信だね。じゃあ、オープン!」
玲奈が勢いよくドアを開けた。
小日向さんも期待に胸を膨らませて中に入る。
「わぁ……」
二人の足が止まった。
そして、部屋の中を見渡し、絶句した。
「……こ、これは……」
小日向さんの肩が震えている。
「どうだ? テーマは『幾何学的な美と祝祭の融合』だ」
俺はドヤ顔で解説した。
壁には、金と銀の風船が、定規で測ったかのように等間隔で整列している。
『10 MONTHS』の文字は、明朝体のカッティングシートでビシッと貼られ、まるで会社の決算報告のような厳粛さを醸し出している。
天井から吊るされた飾りは、完璧なシンメトリーを描き、部屋全体が魔法陣か、あるいは新興宗教の儀式会場のような異様な雰囲気に包まれていた。
「……」
沈黙が流れる。
あれ? 反応が薄い。
色味が足りなかったか? それとも、風船の角度が数ミリずれていたか?
「……ぶっ」
沈黙を破ったのは、小日向さんだった。
「ふ、ふふっ……あははははは!!」
彼女は買い物袋を持ったまま、その場にしゃがみ込んで爆笑し始めた。
「佐伯さん……これ……っ! か、会社のスローガンみたい……っ! あははは!」
「えっ」
「ま、こんなことだろうとは思ったわ」
「陽菜ちゃんのお祝いなのに……っ、な、なんか、株主総会みたい……っ!」
小日向さんは涙を流して笑い転げている。
いつもはお淑やかな彼女が、こんなに声を上げて笑うなんて。
「……。ロジカルに配置したつもりなんですが……」
「ロジカルすぎますぅ……っ! 赤ちゃんのお祝いに、明朝体はないですよぉ……っ」
彼女はひとしきり笑った後、ふぅーっと息を吐いて立ち上がり、涙を拭った。
その顔は、紅潮していて、とても楽しそうで。
「……でも、なんでもいいんですよね」
彼女は俺を見て、柔らかく微笑んだ。
「こんなに一生懸命やってくれたことが、嬉しいですよね。……ふふ、最高の飾り付けですね」
「……にしては、笑いすぎな気がしますが……」
「すみません。でも、私、久しぶりにこんなに笑いました」
そう言って、彼女はまたクスクスと笑った。
その笑顔を見たら、失敗したことなんてどうでもよくなった。
彼女がこんなに笑ってくれるなら、俺の美的センスのなさも役に立ったということだ。
「じゃあ、この『株主総会』会場で、記念撮影といきますか」
俺が開き直って言うと、二人はまた吹き出した。
カメラをセットし、タイマーをかける。
真ん中に、キョトンとした顔の陽菜。
右に小日向さん、左に俺。
そして後ろから玲奈がひょっこりと顔を出す。
「はい、チーズ!」
カシャッ。
写真の中の俺たちは、ちぐはぐな飾り付けを背景に、とびきりの笑顔で写っていた。
それは、どんなにお金をかけたスタジオ写真よりも、温かくて、幸せな一枚だった。
「んじゃ、三人で撮ってあげる!」
玲奈が俺と小日向さん、陽菜のスリーショットを撮影してくれた。
「うん。良い感じ」
「お、撮るのうまいじゃん」
「……ほら、私、いてよかったっしょ?」
「……だな。ありがとう」
◇◆◇
「……幸せだなぁ」
写真を確認しながら、俺はボソリと呟いた。
今度は、無意識じゃなかった。
噛み締めるように、確かめるように。
「はい。……とっても」
隣で小日向さんが、そっと俺の袖を掴んだ。
それを見逃さず、玲奈がシャッターを押す。
「いいね〜。画になるね」
「お前も撮るだろ? ほら、交代」
「いいんだよ。私は、2人の専属カメラマン」
玲奈がニカッと笑い、再びシャッターを押す。
いつの間にか、俺たち三人のカメラロールは笑顔の写真で満たされていた。




