16
「……覚悟、か」
小日向さんの父親は、俺の言葉を鼻で笑った。
怒りでも、呆れでもない。
まるで、分別のつかない子供が「お月様が欲しい」と言ったのを聞いた時のような、絶対的な不可能を前にした冷笑だった。
「口で言うのは簡単だ。だが、現実はドラマのようにはいかんぞ。……お前たちが思っているほど、世の中は甘くはない」
父親は懐からスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきでどこかへ発信した。
その視線は、俺たちから外れ、無機質な虚空を見つめている。
まるで、目の前の人間など存在しないかのような振る舞いだ。
「……ああ、私だ。資産管理部の山崎に代われ」
短いコールの後、父親が話し始めた。
その内容を聞いた瞬間、小日向さんの肩がビクリと大きく跳ねた。
「そうだ。以前契約させた、港区のマンション……レジデンス2104号室の件だ」
俺の心臓が早鐘を打つ。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「今すぐ解約手続きを進めろ。……ああ、構わん。違約金はいくらでも払う。即時退去だ。ライフラインも全て今日中に止めろ。鍵のシリンダーも交換手配しておけ」
淡々とした口調で告げられた内容は、あまりにも無慈悲で、暴力的だった。
生活の基盤を、指先一つで消し去ろうとしている。
「……詩には伝えた。本人の同意? 契約者は私だ。住人の意思など関係ない。……以上だ」
通話が切れた。
プツリという電子音が、死刑宣告のように響いた。
父親はゆっくりとスマホをしまうと、氷のような眼差しで小日向さんを見下ろした。
「聞いたな? お前の部屋は、たった今解約した」
「そ、そんな……勝手に……」
小日向さんが青ざめた顔で唇を震わせる。
「勝手? 勘違いするな。あのマンションは私の名義で借り、私が家賃を払い続けていたものだ。私が解約すれば、お前はただの不法占拠者だ」
父親はステッキでコツンと地面を叩いた。
「電気も、ガスも、水道も止まる。明日からは部屋に入ることすらできん。……それが、親の庇護を失うということだ」
兵糧攻めだ。
経済的な基盤を奪い、物理的に住む場所をなくせば、娘は泣きついてくる。
そう確信している目だ。
自分の娘を、一人の人間としてではなく、管理すべき「資産」としてしか見ていない。
「さあ、どうする? 帰る場所は実家しかないぞ。それとも、公園で野宿でもするつもりか?」
父親は勝利を確信したように、口の端を歪めた。
これなら文句はないだろう。
金も力もない小娘に、一体何ができると言うのだ。
そう言いたげだった。
俺は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
汚い。
大人のやり方として、あまりにも強引で、愛がない。
これが、親のすることか。
「……ひどい」
俺が声を絞り出すより先に、小日向さんが呟いた。
「ひどいです、お父様……! そこまでして、私を思い通りにしたいんですか!?」
「お前のためを思って言っているんだ。こんな男にたぶらかされ、泥船に乗るような真似をさせるわけにはいかん」
「泥船なんかじゃありません!」
小日向さんが叫んだ。
今まで見たこともない形相で、父親を睨みつけている。
「佐伯さんは、私を大切にしてくれます。私の仕事も、考えも、全部受け入れてくれるんです! お父様みたいに、頭ごなしに否定したりしません!」
「それがどうした。優しさだけで飯が食えるか? 愛だけで雨露がしのげるか?」
父親は冷徹に現実を突きつける。
「家も金もない女に、何の価値がある。……さあ、意地を張るのはやめて車に乗れ。今ならまだ、笑い話で済ませてやる」
父親が手を差し出した。
その手を取れば、元の裕福で、何不自由ない、けれど自由のない生活に戻れる。
その手を取らなければ、路頭に迷うことになる。
究極の二択。
誰もが、前者を選ぶと思うだろう。
この父親も、そう信じて疑っていない。
けれど。
「……構いません」
凛とした声が、夕暮れの空気を震わせた。
「……何?」
「マンションなんて、いりません。解約でもなんでもしてください」
小日向さんは、父親の手を取らなかった。
それどころか、一歩後ろに下がり、俺の隣に並んだ。
「住む場所がなくなっても、私は帰りません。あの冷たい家に戻るくらいなら、野宿でもなんでもします」
その瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
恐怖で足は震えている。
けれど、その眼差しには、揺るぎない覚悟の炎が宿っていた。
「ネットカフェでも、カプセルホテルでも、なんとでもなります。私の給料で借りられる安いアパートを探します。……佐伯さんと陽菜ちゃんの近くにいられるなら、私はどこだっていいんです!」
「なっ……」
父親が絶句した。
温室育ちで、何も自分では決められないと思っていた娘が。
まさか全ての特権を捨ててまで、イバラの道を選ぶとは夢にも思わなかったのだろう。
「き、貴様、正気か!? そんな生活がいつまでも続くわけがないだろう! 保育士の給料などたかが知れている! 惨めな思いをするだけだぞ!」
「続けます! 意地でも!」
小日向さんは叫んだ。
「惨めなんかじゃありません! お金があっても、誰も笑わない家の方がよっぽど惨めです! 私は……私は、温かい場所で生きたいんです!」
彼女の覚悟は本物だった。
胸が熱くなった。
目頭が熱くなるのを必死で堪える。
こんなにも愛おしい人が、全てを賭けて俺を選んでくれた。
なら、俺が黙って見ているわけにはいかない。
ここで彼女を守れなければ、俺は男じゃない。
陽菜の父親になる資格もない。
俺は、小日向さんの震える肩を抱き寄せた。
そして、父親を真っ直ぐに見据えた。
「どうぞ、引き払ってください」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。
「……何?」
「その部屋は、もう不要です。彼女には、帰る場所がありますから」
「……どういう意味だ。実家以外に、帰る場所など……」
「ありますよ。すぐそこに」
俺は、背後にそびえ立つマンションを見上げた。
そして、21階にある自分の部屋を思い描く。
「彼女は……詩さんは、今日から俺の部屋に住みますから」
俺の宣言に、その場の時間が止まった。
風の音さえ消えたようだった。
「なに……?」
父親が目を剥き、口を半開きにして俺を見た。
そして、腕の中の小日向さんも、驚愕に目を見開いて俺を見上げた。
「佐伯、さん……?」
俺は彼女の瞳を見つめ、今までで一番優しい声で語りかけた。
「……小日向さん。勝手なことを言ってすみません。でも、俺はあなたを離したくない。あなたが路頭に迷うなんて、絶対にさせたくない」
「俺の部屋は広すぎます。俺と陽菜だけじゃ、持て余してしまう。……あなたのいない生活なんて、もう考えられないんです」
俺は言葉を重ねた。
「一緒に、暮らしてくれませんか? ……ダメですか?」
小日向さんの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
彼女は俺の服の裾をギュッと掴み、顔を埋めた。
「……私も、離れたくありません。……帰りたくない。ずっと、一緒にいたいです……!」
震える声での肯定。
それが、俺が欲しかった全ての答えだった。
俺は深く頷き、彼女を強く抱きしめた。
そして、呆然としている父親に向き直った。
「なら、答えはもう決まってる」
俺は言い放った。
腹の底からの、勝利宣言だ。
「彼女の居場所は、俺が作ります。衣食住も、未来も、俺が全部背負います。……娘のことを一番に考えられないあなたのような人が出る幕は、もうない」
「き、貴様……!」
父親は顔を真っ赤にして、わなないた。
「正気か!? 他人同士が一つ屋根の下で……結婚もしていない男女が同棲など、破廉恥にも程がある! 世間体が……!」
「いつの時代を生きているのですか? あなたは。それに、世間体?」
俺は鼻で笑った。
「そんなもの、クソ食らえだ。俺たちは、誰になんと言われようと、家族になるんです」
俺の迷いない言葉に、父親はたじろいだ。
論理も、権威も、金も。
全ての武器を失った彼は、ただの狼狽する初老の男に成り下がっていた。
しかし。
父親は、決して折れなかった。
その瞳から、困惑の色が消え、代わりに底冷えするような冷徹さが戻ってくる。
「……そうか。そこまで言うか」
父親は、冷たく言い放った。
「いいだろう。好きにするがいい」
それは、許しではなかった。
完全なる、決別だった。
「お前が選んだ道だ。野垂れ死のうが、男に捨てられようが、二度と私の前に顔を見せるな」
父親は俺たちを一瞥もせず、黒塗りの車に乗り込んだ。
「ただし、覚えておけ。お前が帰れる家など、もうこの世のどこにもないとな」
捨て台詞と共に、重厚なドアが閉められた。
エンジンが低く唸りを上げ、車は音もなく滑り出す。
夕闇の中へと消えていくテールランプを、俺たちは黙って見送った。
最後まで、親子の情など欠片もなかった。
彼は、自分の所有物でなくなった娘を、ゴミのように切り捨てていった。
後に残されたのは、冷たい風と、寄り添う二人だけ。
「……行っちゃいましたね」
俺が呟くと、小日向さんは「はい」と小さく答えた。
その体は、小刻みに震えていた。
恐怖か、それとも親に捨てられた悲しみか。
「小日向さん」
「……はい」
俺は、彼女の震える肩を抱き寄せ、静かに、しかしはっきりと言った。
「俺は、謝りませんよ」
「……え?」
彼女が驚いて顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、俺を見つめる。
「あなたとお父様の関係が、これで終わってしまったとしても。……俺は、謝りません」
普通なら、申し訳ないと言うべき場面かもしれない。
俺のせいで、彼女は家族を失ったのだから。
でも、俺は絶対に謝りたくなかった。
謝ることは、彼女を選んだこと自体を否定することになるからだ。
「……佐伯さん……」
「だって、俺は……あなたを失うことなんて、考えられないから」
俺は彼女の涙を、親指でそっと拭った。
「あなたがいない未来より、あなたと一緒の修羅場を選びます。……あなたと一緒に、戦い続けます」
小日向さんの瞳が揺れた。
そして、新たな涙が溢れ出し、彼女は俺の胸に飛び込んできた。
「……はいっ……私も、そっちを選びます」
俺は彼女をきつく抱きしめた。
もう、二度と離さないと誓って。




