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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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「……覚悟、か」


 小日向さんの父親は、俺の言葉を鼻で笑った。

 怒りでも、呆れでもない。

 まるで、分別のつかない子供が「お月様が欲しい」と言ったのを聞いた時のような、絶対的な不可能を前にした冷笑だった。


「口で言うのは簡単だ。だが、現実はドラマのようにはいかんぞ。……お前たちが思っているほど、世の中は甘くはない」


 父親は懐からスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきでどこかへ発信した。

 その視線は、俺たちから外れ、無機質な虚空を見つめている。

 まるで、目の前の人間など存在しないかのような振る舞いだ。


「……ああ、私だ。資産管理部の山崎に代われ」


 短いコールの後、父親が話し始めた。

 その内容を聞いた瞬間、小日向さんの肩がビクリと大きく跳ねた。


「そうだ。以前契約させた、港区のマンション……レジデンス2104号室の件だ」


 俺の心臓が早鐘を打つ。

 嫌な予感が背筋を駆け上がる。


「今すぐ解約手続きを進めろ。……ああ、構わん。違約金はいくらでも払う。即時退去だ。ライフラインも全て今日中に止めろ。鍵のシリンダーも交換手配しておけ」


 淡々とした口調で告げられた内容は、あまりにも無慈悲で、暴力的だった。

 生活の基盤を、指先一つで消し去ろうとしている。


「……詩には伝えた。本人の同意? 契約者は私だ。住人の意思など関係ない。……以上だ」


 通話が切れた。

 プツリという電子音が、死刑宣告のように響いた。


 父親はゆっくりとスマホをしまうと、氷のような眼差しで小日向さんを見下ろした。


「聞いたな? お前の部屋は、たった今解約した」


「そ、そんな……勝手に……」


 小日向さんが青ざめた顔で唇を震わせる。


「勝手? 勘違いするな。あのマンションは私の名義で借り、私が家賃を払い続けていたものだ。私が解約すれば、お前はただの不法占拠者だ」


 父親はステッキでコツンと地面を叩いた。


「電気も、ガスも、水道も止まる。明日からは部屋に入ることすらできん。……それが、親の庇護を失うということだ」


 兵糧攻めだ。

 経済的な基盤を奪い、物理的に住む場所をなくせば、娘は泣きついてくる。

 そう確信している目だ。

 自分の娘を、一人の人間としてではなく、管理すべき「資産」としてしか見ていない。


「さあ、どうする? 帰る場所は実家しかないぞ。それとも、公園で野宿でもするつもりか?」


 父親は勝利を確信したように、口の端を歪めた。

 これなら文句はないだろう。

 金も力もない小娘に、一体何ができると言うのだ。


 そう言いたげだった。


 俺は拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込む。

 汚い。

 大人のやり方として、あまりにも強引で、愛がない。

 これが、親のすることか。


「……ひどい」


 俺が声を絞り出すより先に、小日向さんが呟いた。


「ひどいです、お父様……! そこまでして、私を思い通りにしたいんですか!?」


「お前のためを思って言っているんだ。こんな男にたぶらかされ、泥船に乗るような真似をさせるわけにはいかん」


「泥船なんかじゃありません!」


 小日向さんが叫んだ。

 今まで見たこともない形相で、父親を睨みつけている。


「佐伯さんは、私を大切にしてくれます。私の仕事も、考えも、全部受け入れてくれるんです! お父様みたいに、頭ごなしに否定したりしません!」


「それがどうした。優しさだけで飯が食えるか? 愛だけで雨露がしのげるか?」


 父親は冷徹に現実を突きつける。


「家も金もない女に、何の価値がある。……さあ、意地を張るのはやめて車に乗れ。今ならまだ、笑い話で済ませてやる」


 父親が手を差し出した。

 その手を取れば、元の裕福で、何不自由ない、けれど自由のない生活に戻れる。

 その手を取らなければ、路頭に迷うことになる。


 究極の二択。

 誰もが、前者を選ぶと思うだろう。

 この父親も、そう信じて疑っていない。


 けれど。


「……構いません」


 凛とした声が、夕暮れの空気を震わせた。


「……何?」


「マンションなんて、いりません。解約でもなんでもしてください」


 小日向さんは、父親の手を取らなかった。

 それどころか、一歩後ろに下がり、俺の隣に並んだ。


「住む場所がなくなっても、私は帰りません。あの冷たい家に戻るくらいなら、野宿でもなんでもします」


 その瞳には、大粒の涙が溜まっていた。

 恐怖で足は震えている。

 けれど、その眼差しには、揺るぎない覚悟の炎が宿っていた。


「ネットカフェでも、カプセルホテルでも、なんとでもなります。私の給料で借りられる安いアパートを探します。……佐伯さんと陽菜ちゃんの近くにいられるなら、私はどこだっていいんです!」


「なっ……」


 父親が絶句した。

 温室育ちで、何も自分では決められないと思っていた娘が。

 まさか全ての特権を捨ててまで、イバラの道を選ぶとは夢にも思わなかったのだろう。


「き、貴様、正気か!? そんな生活がいつまでも続くわけがないだろう! 保育士の給料などたかが知れている! 惨めな思いをするだけだぞ!」


「続けます! 意地でも!」


 小日向さんは叫んだ。


「惨めなんかじゃありません! お金があっても、誰も笑わない家の方がよっぽど惨めです! 私は……私は、温かい場所で生きたいんです!」


 彼女の覚悟は本物だった。


 胸が熱くなった。

 目頭が熱くなるのを必死で堪える。

 こんなにも愛おしい人が、全てを賭けて俺を選んでくれた。


 なら、俺が黙って見ているわけにはいかない。

 ここで彼女を守れなければ、俺は男じゃない。

 陽菜の父親になる資格もない。


 俺は、小日向さんの震える肩を抱き寄せた。

 そして、父親を真っ直ぐに見据えた。


「どうぞ、引き払ってください」


 俺の声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。


「……何?」


「その部屋は、もう不要です。彼女には、帰る場所がありますから」


「……どういう意味だ。実家以外に、帰る場所など……」


「ありますよ。すぐそこに」


 俺は、背後にそびえ立つマンションを見上げた。

 そして、21階にある自分の部屋を思い描く。


「彼女は……詩さんは、今日から俺の部屋に住みますから」


 俺の宣言に、その場の時間が止まった。

 風の音さえ消えたようだった。


「なに……?」


 父親が目を剥き、口を半開きにして俺を見た。

 そして、腕の中の小日向さんも、驚愕に目を見開いて俺を見上げた。


「佐伯、さん……?」


 俺は彼女の瞳を見つめ、今までで一番優しい声で語りかけた。


「……小日向さん。勝手なことを言ってすみません。でも、俺はあなたを離したくない。あなたが路頭に迷うなんて、絶対にさせたくない」


「俺の部屋は広すぎます。俺と陽菜だけじゃ、持て余してしまう。……あなたのいない生活なんて、もう考えられないんです」


 俺は言葉を重ねた。


「一緒に、暮らしてくれませんか? ……ダメですか?」


 小日向さんの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。

 彼女は俺の服の裾をギュッと掴み、顔を埋めた。


「……私も、離れたくありません。……帰りたくない。ずっと、一緒にいたいです……!」


 震える声での肯定。

 それが、俺が欲しかった全ての答えだった。


 俺は深く頷き、彼女を強く抱きしめた。

 そして、呆然としている父親に向き直った。


「なら、答えはもう決まってる」


 俺は言い放った。

 腹の底からの、勝利宣言だ。


「彼女の居場所は、俺が作ります。衣食住も、未来も、俺が全部背負います。……娘のことを一番に考えられないあなたのような人が出る幕は、もうない」


「き、貴様……!」


 父親は顔を真っ赤にして、わなないた。


「正気か!? 他人同士が一つ屋根の下で……結婚もしていない男女が同棲など、破廉恥にも程がある! 世間体が……!」


「いつの時代を生きているのですか? あなたは。それに、世間体?」


 俺は鼻で笑った。


「そんなもの、クソ食らえだ。俺たちは、誰になんと言われようと、家族になるんです」


 俺の迷いない言葉に、父親はたじろいだ。

 論理も、権威も、金も。

 全ての武器を失った彼は、ただの狼狽する初老の男に成り下がっていた。


 しかし。

 父親は、決して折れなかった。

 その瞳から、困惑の色が消え、代わりに底冷えするような冷徹さが戻ってくる。


「……そうか。そこまで言うか」


 父親は、冷たく言い放った。


「いいだろう。好きにするがいい」


 それは、許しではなかった。

 完全なる、決別だった。


「お前が選んだ道だ。野垂れ死のうが、男に捨てられようが、二度と私の前に顔を見せるな」


 父親は俺たちを一瞥もせず、黒塗りの車に乗り込んだ。


「ただし、覚えておけ。お前が帰れる家など、もうこの世のどこにもないとな」


 捨て台詞と共に、重厚なドアが閉められた。

 エンジンが低く唸りを上げ、車は音もなく滑り出す。

 夕闇の中へと消えていくテールランプを、俺たちは黙って見送った。


 最後まで、親子の情など欠片もなかった。

 彼は、自分の所有物でなくなった娘を、ゴミのように切り捨てていった。


 後に残されたのは、冷たい風と、寄り添う二人だけ。


「……行っちゃいましたね」


 俺が呟くと、小日向さんは「はい」と小さく答えた。

 その体は、小刻みに震えていた。

 恐怖か、それとも親に捨てられた悲しみか。


「小日向さん」


「……はい」


 俺は、彼女の震える肩を抱き寄せ、静かに、しかしはっきりと言った。


「俺は、謝りませんよ」


「……え?」


 彼女が驚いて顔を上げる。

 涙で濡れた瞳が、俺を見つめる。


「あなたとお父様の関係が、これで終わってしまったとしても。……俺は、謝りません」


 普通なら、申し訳ないと言うべき場面かもしれない。

 俺のせいで、彼女は家族を失ったのだから。

 でも、俺は絶対に謝りたくなかった。

 謝ることは、彼女を選んだこと自体を否定することになるからだ。


「……佐伯さん……」


「だって、俺は……あなたを失うことなんて、考えられないから」


 俺は彼女の涙を、親指でそっと拭った。


「あなたがいない未来より、あなたと一緒の修羅場を選びます。……あなたと一緒に、戦い続けます」


 小日向さんの瞳が揺れた。

 そして、新たな涙が溢れ出し、彼女は俺の胸に飛び込んできた。


「……はいっ……私も、そっちを選びます」


 俺は彼女をきつく抱きしめた。

 もう、二度と離さないと誓って。

 

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