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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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15

 

 動物園での夢のような時間を終え、俺たちは夕暮れの街を歩いていた。


 陽菜は遊び疲れて、ベビーカーの中でぐっすりと眠っている。

 その寝顔を見ているだけで、今日という日がどれだけ充実していたかが分かる。


「楽しかったですね、佐伯さん」


 隣を歩く小日向さんが、名残惜しそうに言った。

 夕日に照らされた彼女の横顔は、穏やかで、そしてどこか儚げに美しかった。


「ええ。陽菜も、あんなに喜ぶとは思いませんでした。小日向さんのおかげです」


「ふふ、私も久しぶりにはしゃいじゃいました。……明日からまた仕事かと思うと、現実に引き戻される気分です」


「また行きましょう。次は水族館とか、どうですか?」


「いいですね! 陽菜ちゃん、お魚さん見てどんな反応するかなぁ」


 そんな「次」の話を自然にできることが、嬉しかった。

 俺たちの関係は、今日で確実に一歩進んだ。

「予行演習」という言葉で確認し合った、互いの気持ち。

 あとは、俺が男を見せて、きちんと言葉にするだけだ。


 マンションが見えてきた。

 見慣れたエントランスの灯りが、暖かく俺たちを迎えてくれるはずだった。


 しかし。


「……ん?」


 俺は足を止めた。

 マンションの車寄せに、一台の車が停まっている。

 艶消しの黒いボディが夕闇に溶け込むような、高級セダンだ。

 運転席には制服を着た運転手らしき人影が見える。


 ここはお金持ちも多いマンションだから、高級車自体は珍しくない。

 だが、その車が放つ異様な威圧感に、俺は得体の知れない胸騒ぎを覚えた。


 ふと隣を見ると、小日向さんが立ち止まっていた。

 その顔から、さっきまでの血色が完全に消え失せている。


「……小日向さん?」


「……うそ……」


 彼女の唇が震えている。

 その視線は、真っ直ぐにあの黒い車に向けられていた。


「どうしました? 知り合いですか?」


 俺の問いかけに、彼女は答えない。

 いや、答えられないようだった。

 ただ、恐怖に縛られたように体を強張らせている。


 その時。

 車の後部座席のドアが開き、一人の男性が降りてきた。


 初老の男性だった。

 仕立ての良いダークスーツに身を包み、白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけている。

 手にはステッキを持っているが、足が悪いようには見えない。あくまで装飾品としてのステッキだ。

 その鋭い眼光が、俺たち――いや、小日向さんを射抜いた。


「……詩」


 低く、重厚な声が響いた。

 小日向さんが、ビクッと肩を震わせる。


「お、お父様……」


 お父様。

 その言葉に、俺は息を飲んだ。

 この威圧感の塊のような男性が、彼女の父親?


 父親は、ゆっくりとした足取りでこちらに近づいてきた。

 その一歩一歩が、小日向さんを追い詰めていく。


「連絡がつかないと思えば。……こんなところで、何を遊んでいる」


 冷たい声だった。

 娘との再会を喜ぶような響きは微塵もない。

 あるのは、出来の悪い部下を叱責するような、冷徹な響きだけだ。


「す、すみません……スマホ、マナーモードにしていて……」


「言い訳はいい。何度言えば分かるんだ。実家に戻れと、あれほど言ったはずだ」


 実家に戻れ。

 その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。


「……嫌です。私は、保育士として働きたいんです。今の仕事も、この生活も、気に入っているんです」


 小日向さんが、勇気を振り絞って反論する。

 だが、父親は鼻で笑った。


「保育士? そんなものは、お前の人生の暇つぶしに過ぎん。いつまで学生気分でいるつもりだ。小日向家の娘として、相応しい役割があるだろう」


「暇つぶしなんかじゃありません! 私は真剣に……!」


「黙りなさい」


 ピシャリと、言葉が遮られた。

 父親の視線が、ふと俺の方へ――そして、ベビーカーで眠る陽菜の方へと向けられた。


 その瞳に浮かんだのは、露骨な侮蔑の色だった。


「……なるほど。お前が帰らない理由は、これか」


 父親はステッキの先で、失礼にも俺たちを指した。


「どこの馬の骨とも知れぬ男と、その子供。……まさか、こんなもののために、家を捨てたわけではあるまいな?」


 カッとなった。

 俺のことを言うならまだいい。


 だが、陽菜のことを「こんなもの」呼ばわりされたことは、許せなかった。


「失礼ですが」


 俺は一歩前に出た。

 小日向さんを背に庇うようにして、父親と対峙する。


「言葉を慎んでいただきたい。この子は物ではありません。そして、小日向さんは暇つぶしなんかで仕事をしていません。彼女は素晴らしい保育士です」


 父親は、俺を見下ろすように冷ややかに笑った。


「ほう。……君は?」


「同じマンションに住む、佐伯と申します」


「佐伯、か。……聞いたことがない名だな。どこの企業の人間だ?」


 なんだそれは?


 まるで、所属でしか人間を判断しないような口ぶりだ。

 俺は自分の会社名を告げた。

 それなりの知名度はあるはずだが、父親は興味なさげに「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。


「ただのサラリーマンか。……詩。こんな男の子供のシッターをするために、お前はあの()()()()に住み着いているのか?」


 この高級マンションを、アパート呼ばわりか。


 スケールが違う。


 以前、小日向さんが「父が心配性」と言っていたが、あれはオブラートに包んだ言い方だったのか。


「違います! 佐伯さんは……佐伯さんは、私の大切な人です!」


 小日向さんが叫んだ。

 俺の背中越しに聞こえるその声は、震えていたけれど、はっきりとした意思がこもっていた。


「大切な人、だと?」


 父親の顔から笑みが消え、能面のような無表情になった。

 周囲の空気が、一気に凍りつく。


「遊びなら目を瞑ろうと思っていたが……どうやら、事態は思ったより深刻なようだな」


 父親は懐からスマホを取り出し、どこかへ電話をかけた。


「おい、車を回せ。……ああ、娘を連れて帰る。今すぐにだ」


「なっ!?」


 俺は驚愕した。

 強引すぎる。話も聞かずに、連れ去るつもりか?


「待ってください! 彼女には彼女の生活があるんです! 親だからって、そこまで強制する権利はないはずです!」


「権利?」


 父親は嘲笑った。


「私がルールだ。詩、乗りなさい」


 黒塗りの車が、音もなく俺たちの目の前に滑り込んできた。

 後部座席のドアが開く。

 まるで、大きな口を開けた怪物のようだ。


「い、嫌です……! 帰りません!」


 小日向さんが後ずさる。

 運転手が降りてきて、彼女の腕を掴もうとする。


「やめろ! 彼女に触れるな!」


 俺は運転手の手を振り払った。

 陽菜が目を覚まし、「ふえぇ……」と泣き出した。


「佐伯さん……!」


 小日向さんが俺の袖を掴む。

 その手は氷のように冷たかった。


「……いい度胸だ」


 父親が、俺を睨みつけた。

 その目には、明確な敵意が宿っていた。


「私の邪魔をするなら、それ相応の覚悟があるんだろうな? えー……佐伯くん、だったかな?」


 社会的な地位も、権力も、この男は持っている。

 俺のような一介のサラリーマンなど、ひねり潰せるだけの手札を持っている目をしている。


 怖い、と思った。

 でも、ここで引いたら、俺は一生後悔する。


「覚悟なら、あります」


 俺は父親の目を真っ直ぐに見返した。


「彼女は、俺たち家族にとって、なくてはならない人です。……いや、俺が、彼女を必要としているんです。誰にも、連れて行かせません」


 それは、実質的な宣戦布告だった。

 

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