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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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 小日向さんの風邪が完治した、その週末。

 俺たちは、快気祝いを兼ねて約束通り動物園へ行くことになった。


 天気予報は晴れ。絶好の行楽日和だ。


「いってらっしゃーい!」


 玄関先で、玲奈が満面の笑みで手を振っている。


「私は私で楽しむから、お兄ちゃんもしっかりね」


 玲奈は美容院の予約が入っていて、久しぶりに東京の友達とも会う予定なんだとか。


「お兄ちゃん、分かってるよね? 今日は『家族サービス』の予行演習なんだから。しっかりエスコートして、いいとこ見せるんだよ」


 小声で耳打ちされ、俺は苦笑した。

 本当に、こいつには敵わない。俺の背中を押すことにかけては天才的だ。


「分かってるよ。行ってくる」


「楽しんできてねー! 陽菜ちゃん、パンダさんによろしく!」


 妹に見送られ、俺はベビーカーを押して廊下に出た。

 そこには、すでに小日向さんが待っていた。


「おはようございます、佐伯さん」


「あ……おはようございます」


 俺は一瞬、言葉を失った。

 今日の小日向さんは、ふわりとしたシフォン素材のロングスカートに、淡いレモンイエローのニット。

 足元は歩きやすそうな白のスニーカーだが、全体的に春らしく、華やかで、とても女性らしい装いだった。

 髪も軽く巻いて、ハーフアップにまとめている。


 可愛い。

 素直にそう思った。


「佐伯さん?」


「とても、似合ってます。素敵です、今日の装い」


「……!」


「あ、いや、いつも素敵なんですが、今日はとびっきり」


「……嬉しいです」


 小日向さんは、少し照れながらも、パッと明るい笑顔を見せた。

 その笑顔に、俺の心臓がトクンと跳ねる。

 今日のデート……いや、お出かけが、最高のものになる予感がした。




 ◇◆◇




 電車に揺られること30分。

 動物園の最寄駅に着くと、改札口は多くの家族連れで溢れかえっていた。


 俺たちは人波を縫って歩き、入園ゲートをくぐる。


 一歩足を踏み入れると、そこは非日常の世界だった。

 独特の動物の匂い、子供たちの歓声、色とりどりの風船。


「うわぁ、久しぶりです! 動物園なんて、何年ぶりだろう」


 小日向さんが目を輝かせて周囲を見回す。


「俺もです。……なんだか、童心に帰りますね」


「あ、まずはあっちに行きましょう! 陽菜ちゃん、ぞうさんがいるよー!」


 小日向さんが指差す先には、巨大なアジアゾウがのっしのっしと歩いていた。

 長い鼻を器用に使って、干し草を口に運んでいる。


「あーうー! きゃっ!」


 陽菜は初めて見る巨大な生き物に大興奮だ。

 ベビーカーから身を乗り出し、短い手を一生懸命伸ばして何かを訴えている。


「陽菜、落ちるぞ。そんなに乗り出したら危ないって」


 俺は苦笑しながら陽菜の体を支えた。


「陽菜ちゃん、『パオーン』だよ。大きいねぇ、すごいねぇ」


 小日向さんが陽菜の目線に合わせて屈み込み、優しく語りかける。


 その横顔は、保育士としてのプロの顔と、母親のような慈愛に満ちた顔が混ざり合っていて、とても魅力的だった。


「次はキリンさんですね。……あ、佐伯さん知ってました? キリンの睡眠時間って、立ったまま20分くらいなんですよ」


「えっ、たったの20分ですか?」


「はい。草食動物は敵に襲われないように、熟睡しないんです。……佐伯さんも、陽菜ちゃんを引き取ってからはキリン並じゃないですか?」


「ははっ、確かに。俺も草食動物の仲間入りですね」


「ちゃんと寝てくださいね?」


 そんな他愛もない会話を交わしながら、俺たちは園内を回った。


 猿山でボス猿を探して盛り上がったり、レッサーパンダの愛くるしさに二人して悶絶したり。


 同じものを見て、同じタイミングで笑い合う。

 ただそれだけのことが、どうしようもなく幸せで、満たされた気持ちになる。


 育児のプレッシャーも、将来への不安も、ここにはない。

 あるのは、陽だまりのような温かい時間だけだ。




 ◇◆◇




 お昼時になり、芝生広場のベンチを見つけて休憩することになった。

 大きな木陰の下、心地よい風が吹き抜ける特等席だ。


「佐伯さん、これ」


 小日向さんがリュックから取り出したのは、可愛らしい風呂敷に包まれたお弁当箱だった。


「えっ、作ってきてくれたんですか? てっきり、園内のレストランで食べるものかと……」


「早起きして頑張っちゃいました。お口に合うか分かりませんが……」


 彼女が少し照れくさそうに包みを解き、蓋を開ける。


「うわ……すごい」


 俺は思わず声を漏らした。

 そこには、彩り豊かなおかずがぎっしりと詰まっていた。

 ふっくらとした卵焼き、ジューシーな唐揚げ、タコさんウインナーに、ブロッコリーとプチトマトの彩り。

 小さなおにぎりは、食べやすいように一口サイズに握られている。

 まるで宝石箱だ。


「すごい……! これ、全部小日向さんが?」


「ふふ、ありあわせですけど。どうぞ召し上がってください」


「いただきます」


 俺は早速、卵焼きを口に運んだ。

 甘じょっぱい出汁の味が、口いっぱいに広がる。

 ふわふわで、でもしっかりとした味付け。


「……美味しい!!」


 心からの言葉が漏れた。


「本当ですか? 味、濃すぎませんか?」


 小日向さんが不安そうに覗き込んでくる。


「最高です。世界一美味いです。俺、小日向さんの卵焼きなら毎日でも食べたいくらいです」


「お、大袈裟ですよ……」


 彼女は顔を真っ赤にして俯いた。

 その反応が愛おしくて、俺は唐揚げも、ウインナーも、夢中で頬張った。

 どれもこれも、優しくて温かい味がした。


 陽菜にも持参した離乳食を食べさせ、三人でお腹いっぱいになった午後。


 陽菜は満腹と疲れで、ベビーカーの中でコクリコクリと船を漕ぎ始めた。


「寝ちゃいましたね」


「ええ。はしゃぎすぎたかな」


 俺たちはベンチに座ったまま、穏やかな午後の日差しを浴びていた。

 隣には小日向さんがいて、目の前には眠る陽菜がいる。

 この完璧な構図を、ずっと眺めていたいと思った。


 その時だった。


「あら〜可愛い赤ちゃんですねぇ」


 隣のベンチに座っていた老夫婦の奥さんが、目を細めて声をかけてきた。

 品の良い、優しそうなお婆さんだ。


「ご機嫌さんで寝ちゃって。……ふふ、パパとママに囲まれて、幸せそうね」


 ドキッとした。

 まただ。

 スーパーの時と同じ、勘違い。


 あの時は、俺も小日向さんも動揺して、否定しきれずに変な空気になってしまった。

 俺は反射的に、隣の小日向さんの様子を伺った。

 迷惑そうな顔をしていないか。困っていないか。


 しかし。

 今日の彼女は、顔を赤くして俯いたりしなかった。

 代わりに、俺の方を見て、ふわりと柔らかく微笑んだのだ。

 その瞳は、「大丈夫ですよ」と語りかけているようで。


 俺の中で、何かがストンと落ちた。

 否定する必要なんて、ないんだ。

 嘘をつくわけじゃない。

 ただ、この人が俺にとって大切な人だという事実は、変わらないのだから。


 俺は老婦人に向き直り、穏やかに、しかしはっきりと答えた。


「ええ。……今は予行演習みたいなものですが、それでも世界一幸せなんです」


 奥さんは「まあ、素敵ねぇ。仲良くね」と微笑んで、旦那さんと共に去っていった。


 残された二人の間に、優しい風が吹く。


「……予行演習、ですか?」


 小日向さんが、悪戯っぽく俺の顔を覗き込んでくる。

 その表情は、どこか楽しげだ。


「あ、いや、その……変なこと言ってすみません。つい、調子に乗って」


「ふふ。……スーパーの時のこと、思い出しました」


「あ、あの時は俺が勝手なこと言って……」


「いいえ」


 彼女は首を横に振った。

 そして、真っ直ぐに俺を見つめた。


「あの時も言いましたけど……私、嫌じゃないんです」


 彼女の声は、真剣だった。


「佐伯さんと、陽菜ちゃんと……こうして家族みたいに過ごす時間。私、すごく幸せです。……これが『予行演習』だとしても、……本番、だとしても」


「小日向さん……」


 胸が熱くなった。

 彼女も、同じ気持ちでいてくれたんだ。

 この時間を、幸せだと感じてくれているんだ。


「俺もです。……俺も、今が人生で一番幸せです」


 言葉以上の想いを込めて、俺は答えた。


 俺たちの間には、もう迷いはなかった。


 ただ、タイミングと言葉を探しているだけだ。

 この関係に、確かな名前をつけるための。


 ここから一歩進んだ関係になる為の。


「さあ、陽菜ちゃんも寝たことですし、少し静かなエリアに行きましょうか。ペンギンさんとか」


「いいですね。涼しそうですし」


 小日向さんが立ち上がり、ベビーカーのハンドルに手をかける。

 俺はその隣に並び、自然と彼女の手に自分の手を重ねた。


 彼女は手を引かなかった。

 それどころか、俺の指に自分の指を絡め、そっと握り返してくれた。


 繋いだ手の温もりを感じながら、俺は強く思った。

 この幸せを、絶対に手放してはいけない。


 彼女を守り、陽菜を守り、三人で生きていく。

 その覚悟を決めるための、今日は最高の一日だった。

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