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小日向さんの風邪が完治した、その週末。
俺たちは、快気祝いを兼ねて約束通り動物園へ行くことになった。
天気予報は晴れ。絶好の行楽日和だ。
「いってらっしゃーい!」
玄関先で、玲奈が満面の笑みで手を振っている。
「私は私で楽しむから、お兄ちゃんもしっかりね」
玲奈は美容院の予約が入っていて、久しぶりに東京の友達とも会う予定なんだとか。
「お兄ちゃん、分かってるよね? 今日は『家族サービス』の予行演習なんだから。しっかりエスコートして、いいとこ見せるんだよ」
小声で耳打ちされ、俺は苦笑した。
本当に、こいつには敵わない。俺の背中を押すことにかけては天才的だ。
「分かってるよ。行ってくる」
「楽しんできてねー! 陽菜ちゃん、パンダさんによろしく!」
妹に見送られ、俺はベビーカーを押して廊下に出た。
そこには、すでに小日向さんが待っていた。
「おはようございます、佐伯さん」
「あ……おはようございます」
俺は一瞬、言葉を失った。
今日の小日向さんは、ふわりとしたシフォン素材のロングスカートに、淡いレモンイエローのニット。
足元は歩きやすそうな白のスニーカーだが、全体的に春らしく、華やかで、とても女性らしい装いだった。
髪も軽く巻いて、ハーフアップにまとめている。
可愛い。
素直にそう思った。
「佐伯さん?」
「とても、似合ってます。素敵です、今日の装い」
「……!」
「あ、いや、いつも素敵なんですが、今日はとびっきり」
「……嬉しいです」
小日向さんは、少し照れながらも、パッと明るい笑顔を見せた。
その笑顔に、俺の心臓がトクンと跳ねる。
今日のデート……いや、お出かけが、最高のものになる予感がした。
◇◆◇
電車に揺られること30分。
動物園の最寄駅に着くと、改札口は多くの家族連れで溢れかえっていた。
俺たちは人波を縫って歩き、入園ゲートをくぐる。
一歩足を踏み入れると、そこは非日常の世界だった。
独特の動物の匂い、子供たちの歓声、色とりどりの風船。
「うわぁ、久しぶりです! 動物園なんて、何年ぶりだろう」
小日向さんが目を輝かせて周囲を見回す。
「俺もです。……なんだか、童心に帰りますね」
「あ、まずはあっちに行きましょう! 陽菜ちゃん、ぞうさんがいるよー!」
小日向さんが指差す先には、巨大なアジアゾウがのっしのっしと歩いていた。
長い鼻を器用に使って、干し草を口に運んでいる。
「あーうー! きゃっ!」
陽菜は初めて見る巨大な生き物に大興奮だ。
ベビーカーから身を乗り出し、短い手を一生懸命伸ばして何かを訴えている。
「陽菜、落ちるぞ。そんなに乗り出したら危ないって」
俺は苦笑しながら陽菜の体を支えた。
「陽菜ちゃん、『パオーン』だよ。大きいねぇ、すごいねぇ」
小日向さんが陽菜の目線に合わせて屈み込み、優しく語りかける。
その横顔は、保育士としてのプロの顔と、母親のような慈愛に満ちた顔が混ざり合っていて、とても魅力的だった。
「次はキリンさんですね。……あ、佐伯さん知ってました? キリンの睡眠時間って、立ったまま20分くらいなんですよ」
「えっ、たったの20分ですか?」
「はい。草食動物は敵に襲われないように、熟睡しないんです。……佐伯さんも、陽菜ちゃんを引き取ってからはキリン並じゃないですか?」
「ははっ、確かに。俺も草食動物の仲間入りですね」
「ちゃんと寝てくださいね?」
そんな他愛もない会話を交わしながら、俺たちは園内を回った。
猿山でボス猿を探して盛り上がったり、レッサーパンダの愛くるしさに二人して悶絶したり。
同じものを見て、同じタイミングで笑い合う。
ただそれだけのことが、どうしようもなく幸せで、満たされた気持ちになる。
育児のプレッシャーも、将来への不安も、ここにはない。
あるのは、陽だまりのような温かい時間だけだ。
◇◆◇
お昼時になり、芝生広場のベンチを見つけて休憩することになった。
大きな木陰の下、心地よい風が吹き抜ける特等席だ。
「佐伯さん、これ」
小日向さんがリュックから取り出したのは、可愛らしい風呂敷に包まれたお弁当箱だった。
「えっ、作ってきてくれたんですか? てっきり、園内のレストランで食べるものかと……」
「早起きして頑張っちゃいました。お口に合うか分かりませんが……」
彼女が少し照れくさそうに包みを解き、蓋を開ける。
「うわ……すごい」
俺は思わず声を漏らした。
そこには、彩り豊かなおかずがぎっしりと詰まっていた。
ふっくらとした卵焼き、ジューシーな唐揚げ、タコさんウインナーに、ブロッコリーとプチトマトの彩り。
小さなおにぎりは、食べやすいように一口サイズに握られている。
まるで宝石箱だ。
「すごい……! これ、全部小日向さんが?」
「ふふ、ありあわせですけど。どうぞ召し上がってください」
「いただきます」
俺は早速、卵焼きを口に運んだ。
甘じょっぱい出汁の味が、口いっぱいに広がる。
ふわふわで、でもしっかりとした味付け。
「……美味しい!!」
心からの言葉が漏れた。
「本当ですか? 味、濃すぎませんか?」
小日向さんが不安そうに覗き込んでくる。
「最高です。世界一美味いです。俺、小日向さんの卵焼きなら毎日でも食べたいくらいです」
「お、大袈裟ですよ……」
彼女は顔を真っ赤にして俯いた。
その反応が愛おしくて、俺は唐揚げも、ウインナーも、夢中で頬張った。
どれもこれも、優しくて温かい味がした。
陽菜にも持参した離乳食を食べさせ、三人でお腹いっぱいになった午後。
陽菜は満腹と疲れで、ベビーカーの中でコクリコクリと船を漕ぎ始めた。
「寝ちゃいましたね」
「ええ。はしゃぎすぎたかな」
俺たちはベンチに座ったまま、穏やかな午後の日差しを浴びていた。
隣には小日向さんがいて、目の前には眠る陽菜がいる。
この完璧な構図を、ずっと眺めていたいと思った。
その時だった。
「あら〜可愛い赤ちゃんですねぇ」
隣のベンチに座っていた老夫婦の奥さんが、目を細めて声をかけてきた。
品の良い、優しそうなお婆さんだ。
「ご機嫌さんで寝ちゃって。……ふふ、パパとママに囲まれて、幸せそうね」
ドキッとした。
まただ。
スーパーの時と同じ、勘違い。
あの時は、俺も小日向さんも動揺して、否定しきれずに変な空気になってしまった。
俺は反射的に、隣の小日向さんの様子を伺った。
迷惑そうな顔をしていないか。困っていないか。
しかし。
今日の彼女は、顔を赤くして俯いたりしなかった。
代わりに、俺の方を見て、ふわりと柔らかく微笑んだのだ。
その瞳は、「大丈夫ですよ」と語りかけているようで。
俺の中で、何かがストンと落ちた。
否定する必要なんて、ないんだ。
嘘をつくわけじゃない。
ただ、この人が俺にとって大切な人だという事実は、変わらないのだから。
俺は老婦人に向き直り、穏やかに、しかしはっきりと答えた。
「ええ。……今は予行演習みたいなものですが、それでも世界一幸せなんです」
奥さんは「まあ、素敵ねぇ。仲良くね」と微笑んで、旦那さんと共に去っていった。
残された二人の間に、優しい風が吹く。
「……予行演習、ですか?」
小日向さんが、悪戯っぽく俺の顔を覗き込んでくる。
その表情は、どこか楽しげだ。
「あ、いや、その……変なこと言ってすみません。つい、調子に乗って」
「ふふ。……スーパーの時のこと、思い出しました」
「あ、あの時は俺が勝手なこと言って……」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
そして、真っ直ぐに俺を見つめた。
「あの時も言いましたけど……私、嫌じゃないんです」
彼女の声は、真剣だった。
「佐伯さんと、陽菜ちゃんと……こうして家族みたいに過ごす時間。私、すごく幸せです。……これが『予行演習』だとしても、……本番、だとしても」
「小日向さん……」
胸が熱くなった。
彼女も、同じ気持ちでいてくれたんだ。
この時間を、幸せだと感じてくれているんだ。
「俺もです。……俺も、今が人生で一番幸せです」
言葉以上の想いを込めて、俺は答えた。
俺たちの間には、もう迷いはなかった。
ただ、タイミングと言葉を探しているだけだ。
この関係に、確かな名前をつけるための。
ここから一歩進んだ関係になる為の。
「さあ、陽菜ちゃんも寝たことですし、少し静かなエリアに行きましょうか。ペンギンさんとか」
「いいですね。涼しそうですし」
小日向さんが立ち上がり、ベビーカーのハンドルに手をかける。
俺はその隣に並び、自然と彼女の手に自分の手を重ねた。
彼女は手を引かなかった。
それどころか、俺の指に自分の指を絡め、そっと握り返してくれた。
繋いだ手の温もりを感じながら、俺は強く思った。
この幸せを、絶対に手放してはいけない。
彼女を守り、陽菜を守り、三人で生きていく。
その覚悟を決めるための、今日は最高の一日だった。




