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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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13

 

 誤解が解け、心が通じ合った(と思いたい)数日後。


 俺は朝から浮かれていた。


 鏡の前で髪をセットし、いつものリラックスウェアではなく、少しカチッとしたシャツに袖を通す。


 今日は特に予定があるわけではないが、廊下で小日向さんに会うかもしれない。


 そう思うだけで、身だしなみに気合が入ってしまう。


「……お兄ちゃん、キモい」


 ソファで陽菜にミルクをあげていた玲奈が、ジト目で言い放った。


「鼻歌とか歌っちゃってさ。こないだまでの『この世の終わり』みたいな顔はどうしたのよ」


「うるさいな。気分がいいんだよ」


「はいはい。よかったね、小日向さんと手ぇ繋げて」


 玲奈は呆れつつも、どこか嬉しそうだ。

 こいつも、俺たちの仲を応援してくれている一番の協力者だ。頭が上がらない。


「今日はどうするの? また小日向さんとご飯?」


「いや、なんだかんだ毎日遅くまで付き合わせちゃってるし、今日はゆっくり休んでもらおうと思ってる。ただ、夕飯くらいは差し入れしようかなと」


「ふーん。それでキメてんのね」


 そんな軽口を叩きながら、俺たちは平和な一日を過ごしていた。


 陽菜はご機嫌で、玲奈もすっかり育児に慣れてきた。

 俺の心は、この前の余韻で満たされていた。


 ――しかし。


 そんな穏やかな時間は、夕方に届いた一通のLINEによって破られた。


 ピロン。


 通知音と共に画面に表示されたのは、小日向さんの名前。


 俺は弾む心でスマホを手に取った。

 だが、そこに書かれていたメッセージを読んだ瞬間、俺の顔から血の気が引いた。


『佐伯さん、すみません。今日、夕飯をご一緒できたらと思っていたのですが……ちょっと体調を崩してしまって。2日くらいお会いできないかもしれません』


「……え?」


 体調を崩した?

 あの、いつも元気で、笑顔を絶やさない小日向さんが?


 嫌な予感がした。

 ここ数日、彼女は俺のことで悩み、傷つき、精神的に追い詰められていたはずだ。


 昨日の今日で、その反動が一気に来たのでは?


 俺は慌てて返信を打った。


『大丈夫ですか? 熱は? 何か必要なものはありますか?』


 すぐに既読がついたが、返信が来るまでに数分かかった。

 いつもは即レスの小日向さんが。その時間が、ひどく長く感じる。


『38度を超えてしまって……。でも、大丈夫です。寝てれば治りますから』


 38度。

 高熱だ。

 一人暮らしで、高熱を出して寝込んでいる。

 心細くないはずがない。辛くないはずがない。


 かつての俺が、高熱を出した陽菜を抱えて途方に暮れたように。

 今の彼女も、たった一人で熱と戦っているのだ。


「……どうしよう」


 俺は立ち上がり、リビングをウロウロとし始めた。


 行ってあげたい。

 今すぐ飛んで行って、何かしてあげたい。


「お兄ちゃん、どうしたの? 怖い顔して」


 玲奈が不思議そうに声をかけてきた。


「小日向さんが……風邪でダウンしたらしい。38度の熱だって」


「えっ!? マジで?」


 玲奈も表情を引き締めた。


「多分、ここ数日の心労が祟ったんだと思う。俺のせいで……」


「……うーん、それは責任重大だね」


 玲奈は少し考え込み、そしてニカっと笑って俺の背中をバシンと叩いた。


「行ってきなよ」


「え?」


「陽菜ちゃんは、私がみてるから。こういう時にこそ、男見せないでどうすんの?」


 その言葉に、俺は目を見開いた。


 玲奈に預ける。

 そうだ、今の俺には頼れる家族がいるんだ。


「でも、お前一人で大丈夫か? 夜泣きとか……」


「なめないでよね。私だってこの数日、お兄ちゃんのスパルタ育児を見てきたんだから。ミルクもオムツも余裕だし、寝かしつけだってマスターしたよ。お兄ちゃんより上手いんじゃない?陽菜ちゃんのお世話」


 玲奈は胸を張った。


「それに、小日向さんには恩があるでしょ? 今行かないでいつ行くのよ」


 妹の言葉が、俺の背中を強く押した。

 そうだ。

 あの夜、俺が絶望の淵にいた時、彼女は迷わずドアを開けてくれた。

 見ず知らずの男を招き入れ、救ってくれた。


 今度は、俺が返す番だ。


「……ありがとう、玲奈。恩に着る」


「いいってことよ。その代わり、しっかり看病してあげてよね。あと、うつされないように気をつけて。濃厚接触は禁止! 手繋いだらダメだよ! キスなんて絶対アウト!」


「ああ! ……って、キスはしないわ! したいけど」


「はっ」


 玲奈が鼻で笑った。


「感じ悪いな、その笑い方。外でやらない方がいいぞ」


「はっ」


「……」


「陽菜、パパ、小日向さんのこと助けてくるからな! いい子で待ってるんだぞ!」


 俺は陽菜のおでこにキスをして、財布とスマホを掴み、部屋を飛び出した。


 まずは、買い出しだ!


 俺はマンションの下にあるコンビニとドラッグストアへ走った。


 何が必要だ?

 高熱時の脱水対策にはスポーツドリンクと経口補水液。

 食欲がない時のためのゼリー飲料。ビタミンが入っているやつがいい。


 冷却シート。おでこ用と、脇の下を冷やすための保冷剤も必要か?


 あと、消化に良いもの。うどん、卵、豆腐……いや、コンビニじゃ限界があるか。


 俺はカゴがいっぱいになるまで商品を詰め込んだ。


「すみません! 最強のマスク、どれですか!?」


「ご案内しますね〜」


 俺は店員さんが選んだ最強のマスクを3重にし、手指消毒用のアルコールジェルもポケットに入れる。

 完全防備だ。


 買い物を終え、急いでで21階へ戻る。

 2104号室の前に立ち、インターホンを押す。


 ピンポーン。


 しばらく反応がない。

 寝ているのだろうか。

 それとも、起き上がれないほど辛いのか。


 不安になって、もう一度押そうとした時、インターホンからノイズ交じりの弱い声が聞こえた。


『……はい……』


「小日向さん、佐伯です」


『えっ……佐伯、さん?』


「LINE見て、どうしても心配で。買い物してきました。ドア、開けられますか?」


 少しの間があり、カチャリと鍵が開く音がした。

 ドアがゆっくりと開く。


 そこには、パジャマ姿の小日向さんが立っていた。

 顔は真っ赤で、目は虚ろだ。

 肩で息をしていて、立っているのもやっとという様子。


「……佐伯さん、どうして……」


「どうしても何も、放っておけませんよ」


 俺は彼女の体を支えるようにして、中に入った。


「う、うつしちゃいます……帰ってください……」


 彼女は弱々しく抵抗する。

 その体は、服の上からでも分かるほど熱い。


「大丈夫です。マスク3重にしてますし、手洗いうがいとアルコール消毒を徹底します! 断られても、入りますよ」


「でも……」


「あの夜、俺が泣いたのと同じですよ」


 俺は彼女の目を見て、きっぱりと言った。


「頼ってください。俺たちは、『持ちつ持たれつ』でしょう?」


 その言葉を聞いた瞬間、小日向さんの目から涙が溢れた。

 張り詰めていた糸が切れたように、彼女は俺の腕の中に崩れ落ちた。


「……うぅ……佐伯さぁん……」


 熱に浮かされた体を受け止めながら、俺は誓った。

 今日は絶対に、俺が彼女を守るんだと。


「さあ、寝ててください。何かお腹に入れましょう。寒いかもしれませんが、換気のために少しだけ窓を開けますね!」


 俺は彼女をベッドまで運び、布団をかけた。

 そして、大量の買い物袋を提げてキッチンへと向かった。


「エプロン、お借りしても!?」


「は、はい……どうぞ」


 俺はエプロンの紐を縛り(かなりキツイが)、手洗い、消毒を済ませた。


(よし……! やるぞ! 気合い入れろよ、俺!)


 俺は買ってきた袋から食材を取り出した。

 料理の経験は、独身男の平均レベル。つまり、焼くか茹でるかくらいしかできない。

 だが、今の俺には強力な武器がある。


 スマホを取り出し、ブックマークしておいたレシピサイトを開く。


 検索ワードは『風邪 お粥 栄養』。


「……手順1、米を研ぐ。手順2、土鍋に水と米を入れて……」


 俺は画面を凝視しながら、忠実に作業を進めた。

 仕事柄、マニュアルを読み込んで実行するのは得意だ。

 分量もきっちり計る。水は600ml、塩ひとつまみ。誤差は許されない。


 ひとつまみ?


 ひとつまみってなんだ?




 ――トントン、トントン。


 ネギを刻む音が、静かな部屋に響く。

 少し不恰好になってしまったが、味には影響しないはずだ。


「よし、次はこれだ」


 生姜。

 ネットには『体を温める効果がある』と書いてあった。

 今の彼女に一番必要なものだ。


 皮付きの方がいいらしいので、よく洗ってすりおろす。

 爽やかな香りが広がり、出汁の香りと混ざり合う。


 鍋がコトコトと音を立て始めた。

 白い湯気が立ち上る。

 菜箸でゆっくりとかき混ぜながら、鍋の中を見つめた。


 不思議だ。

 誰かのために料理を作るのが、こんなに緊張して、同時にこんなに満たされた気持ちになるなんて。


 美味しくできてくれよ、と祈るような気持ちで、俺は溶き卵を回し入れた。




 ◇◆◇




「……ん……」


 いつの間にか眠っていた小日向さんが目を覚ましたのは、それから数十分後のことだった。


 俺がお盆にお粥と水を乗せて寝室に入ると、彼女はぼんやりとした目でこちらを見た。


「いい匂い……」


 彼女が掠れた声で呟く。


「……安心する匂いがします」


 その言葉を聞き逃さなかった俺は、少しだけ照れくさくなった。


「俺は料理得意じゃないですけど、レシピサイト通りにつくったので、多分、味は保証できます」


「ふふっ……お粥のために、レシピサイトですか?」


 彼女が力なく、でも嬉しそうに笑った。


「いや、結構奥が深いんですよ。米から炊くか、ご飯から煮るかとか……。あ、生姜も入れときました。体温まるらしいので。小日向さん、生姜好きでしたよね?」


「……あ、はい。前に、そんな話しましたっけ」


「ポトフ作った時、生姜入れたら美味しいって言ってましたから」


「……覚えてて、くれたんですね」


 彼女の瞳が潤む。

 俺は彼女の背中に手を回し、起き上がるのを手伝った。

 高熱の体は熱く、服の上からでもその辛さが伝わってくる。


「はい、熱いので気をつけて」


 茶碗によそったお粥を差し出す。

 彼女はふーふーと息を吹きかけ、小さな一口を口に運んだ。


 ごくり。

 俺が緊張して唾を飲む。


「……美味しい」


 彼女が小さく息を吐いた。


「すごく、優しい味がします。……ありがとうございます、佐伯さん」


「よかった……」


 俺は全身の力が抜けるのを感じた。


 彼女はゆっくりと、でも確実にお粥を食べ進めてくれた。

 その姿を見ているだけで、胸がいっぱいになった。


 食べ終わり、薬を飲ませて再びベッドに寝かせると、彼女はまたすぐにウトウトし始めた。


 時計を見ると、もういい時間だ。

 これ以上長居をしては、彼女も休まらない。


「……俺は洗い物だけしたら帰ります。今は、ゆっくり休んでください」


 俺は食器を片付け、静かに立ち上がった。


 ……言いたい。


 本当は、ワガママを言いたい。


 まだここにいて、看病していたいと。


 ずっと手を握っていたいと。


 でも、俺が風邪を引いたら、陽菜の世話ができなくなる。


 それは本末転倒だ。

 ここはおとなしく引くのが、大人の判断だ。


 帰り支度をして、ドアノブに手をかけた時。


「小日向さん」


 俺は不意に、彼女の名前を呼んだ。

 眠りかけていた彼女が、薄く目を開ける。


「はい……」


「……また何かあれば、すぐにLINEしてください。夜中でも、すぐに駆けつけますから。……本当は、まだ一緒にいたいけど」


 口をついて出た本音に、自分で驚いた。

 小日向さんが、驚いたように目を見開く。


「……えっ?」


「あ、いや、その、心配なので! そんなに不安そうな顔しないでください。俺、今日はスマホをずっと離さず握ってますから」


 俺は慌てて取り繕った。

 顔が熱い。


「……なら、ワガママをひとつ聞いてください」


 彼女が、布団から少しだけ顔を出して言った。


「はい、なんでしょうか」


「……この後、少しだけ電話していたいです。電話なら風邪はうつらないし……佐伯さんの声を聞いてると、安心するんです」


 ドクン。

 心臓が、大きく跳ねた。


 安心する。

 その言葉が、俺の胸に突き刺さる。


「小日向さん……。それ、俺も思ってました」


 俺はマスクの下で、だらしなく相好を崩した。


「すぐ電話しますね! でも、辛くなったり眠くなったら自分を優先してください」


「はい、ありがとうございます」


 彼女がふわりと微笑んだのを見届けて、俺は彼女の部屋を後にした。




 ◇◆◇




「お帰りー。どうだった? 大丈夫そう?」


「……ひとまずお粥は食べてくれた。陽菜は?」


「爆睡中。お兄ちゃんより寝かしつけ上手いかもね、私」


 玲奈はドヤ顔をしているが、その目元には少し疲れが見える。


「ありがとな、玲奈。助かった。それとさ、もう少しだけ頼めないか?」


「ん? それは全然いいけど、どうしたの?」


「小日向さんが、まだ声を聞きたいって」


「なにそれ、激アツじゃん!」


「だから、後ちょっと陽菜のこと頼む!」


「オッケー。ごゆっくり」


 俺は自室に入り、小日向さんに電話をかける。

 ワンコールもしないうちに、通話が繋がる。


『……もしもし』


 スピーカーから聞こえる彼女の声は、さっきよりも少しだけ潤んでいて、甘く聞こえた。


「もしもし、佐伯です。……大丈夫ですか? しんどくないですか?」


『はい。佐伯さんの声が聞こえたので、元気になりました』


 そんなこと言われたら、勘違いしてしまう。


「……俺もです。小日向さんの声を聞くと、落ち着きます」


『……ふふ。私たち、なんだか高校生みたいですね』


「確かに。いい例えしますね」


『ふふ……』


 沈黙が落ちる。

 でも、それは気まずい沈黙ではなく、お互いの呼吸を感じ合うような、温かい時間だった。


 電話の向こうで、彼女が寝返りを打つ衣擦れの音が聞こえる。

 その音だけで、彼女がすぐそばにいるような錯覚に陥る。


『佐伯さん……』


「はい」


『……好き、です』


 小さな、寝言のような呟き。

 聞き間違いかと思った。

 でも、確かに聞こえたその言葉に、俺の思考は停止した。


「……えっ?」


『……あ、ごめんなさい! お、お粥が! お粥の味が、好きだなって! それだけです!』


 慌てふためく彼女の声。


 熱のせいかもしれない。

 でも、それでもいい。


「……俺も、好きです」


 俺は、精一杯の想いを込めて返した。


「小日向さんの作るおにぎりの味が、世界で一番好きです」


『ふふ。……はい』


 電話越しに、彼女が泣き笑いのような声を漏らしたのが分かった。


 明確な言葉は交わしていない。

 でも、俺たちの間にある名前のない関係は、この夜、確実に形を変えた。


 ただの「ご近所さん」から、もっと特別で、代わりのきかない存在へ。


 でも俺は、もっと先に行きたいって、思ってしまっているんだ。

 

「風邪が治ったら、動物園行きませんか? 3人で」


『良いですね……! 陽菜ちゃんも喜びそう』


「だから、早く良くなってくださいね」


『……このままでもいいですけど……』


「えっ?」


『……佐伯さんが……お世話をしてくれるから』


 心臓が、破裂寸前だ。


 ドキドキが凄すぎて、息が苦しい。


『……佐伯さん……?』


「……じゃあ、小日向さんは、陽菜ですね。小日向と陽菜、響きが似てるし」


『あ、ほんとだ』


「俺の、ひな……」


『…………』


 ……ヤバい。


 俺、何を言ってる?


 な、何を言った!?


『………………』


喋らなくなっちゃったぞ!!


「あ、今のは……」


『……すぅ……ふぅ……』


電話越しに、微かに深呼吸をしているような音が聞こえた。


「小日向さん?」


『……な、ななな……なんでも……ないです』


「あ、あはは。よかった」


『…………あなたの……ひなです……』


ボソッと、本当にボソッと、電話が拾うか拾わないか位の声量で放たれたその特大級の破壊力の言葉は……確かに俺に届いてしまった。


落ち着こう。


一旦、一旦深呼吸をしよう。


「すぅ……はぁ……ふぅ……」


『佐伯さん?』


「あっ!? え、あ、はい!?」


そんな感じの電話は、結局2時間続いた。





このままだと今日か明日には完結まで投稿してしまいそうで自分が怖いです。

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