12
レストランを出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。
行きはあんなに遠く感じた帰り道が、今はひどく短く感じる。
俺と小日向さんは、肩が触れそうな距離で並んで歩いていた。
「……よかった」
小日向さんが、夜空を見上げながら呟いた。
「私、本当に……もうダメだと思ってましたから。今日が最後なんだって、覚悟してました」
「すみません。俺の配慮が足りなくて」
「……私も、勝手に恋人だって決めつけて、早とちりしちゃいましたから……。でも、妹さんでよかったです。……すごく、安心しました」
彼女が俺を見て、花が咲くように笑った。
その笑顔を見たら、胸の奥がギュッと掴まれたようになった。
不安にさせて、泣かせてしまったけれど。
その涙の理由が「俺を失うのが怖かったから」だという事実が、不謹慎ながら嬉しくてたまらなかった。
俺の左手と、彼女の右手。
歩くたびに、手の甲が微かに触れ合う。
今なら、許されるだろうか。
いや、許されたい。
俺は意を決して、そっと彼女の手を包み込んだ。
「あ……」
小日向さんの肩が跳ねる。
でも、彼女は手を振りほどかなかった。
それどころか、少し躊躇ってから、俺の手をギュッと握り返してくれた。
小さな手。
でも、とても温かい手。
言葉はなかった。
ただ、繋がった手のひらから、お互いの鼓動が伝わってくるようだった。
俺たちは、マンションまでの道のりを、ずっと手を繋いだまま歩いた。
火照りを冷ますように。
◇◆◇
マンションのエントランスを抜け、エレベーターで21階へ。
廊下を歩く間も、繋いだ手は離さなかった。
2102号室の前まで来ると、中からバタバタという足音が聞こえ、勢いよくドアが開いた。
「おっかえりなさーい!!」
満面の笑みを浮かべた玲奈が、仁王立ちで待ち構えていた。
そして、俺たちの繋がれた手を見て、ニヤリと口角を上げる。
「おっ! やるじゃんお兄ちゃん! ミッションコンプリートって顔してるね〜」
「……お、お前さぁ! 恥ずかしいからそういう感じやめてくれよ!」
俺は少し気恥ずかしくなって、でも手は離さずに言った。
小日向さんは顔を真っ赤にして、俺の後ろに少し隠れるようにしている。
「い……妹さんの、玲奈さん……?」
小日向さんが恐る恐る尋ねる。
玲奈は姿勢を正し、ペコリと頭を下げた。
「はい! 兄がお騒がせしました、実の妹の佐伯玲奈です! この前は変な態度とっちゃってすみません! そういうつもりじゃなかったんですけど……」
「い、いえ! 私こそ、失礼な態度を……」
「全然! むしろ、兄のためにあんなに動揺してくれるなんて、妹として感謝感激ですよ」
玲奈は屈託なく笑うと、部屋の奥を指差した。
「ささ、立ち話もなんですし、入ってください! 陽菜ちゃんも待ってますよ!」
「お前の部屋みたいに言うなよ……」
促されて、俺たちは部屋に入った。
リビングでは、陽菜がベビーサークルの中で遊んでいた。
俺たちの顔を見るなり、「だー!」と手を伸ばしてくる。
「ただいま、陽菜」
「陽菜ちゃん、久しぶり! お留守番えらかったねぇ」
小日向さんが駆け寄って抱き上げると、陽菜は嬉しそうに彼女の胸に顔を擦り付けた。
その光景を見て、玲奈が俺の脇腹を肘で突いてくる。
「ねえ見てよあのお母さん感。もう家族じゃん」
「……ああ」
否定できなかった。
いや、否定したくなかった。
◇◆◇
その後は、玲奈のマシンガントークが炸裂した。
留学先での失敗談、俺の子供の頃の恥ずかしいエピソード、そして姉ちゃんとの思い出話。
小日向さんは、時折笑い、時折涙ぐみながら、玲奈の話を聞いてくれた。
「へえ、佐伯さん、昔はサッカー少年だったんですね」
「そうなんですよ! 今じゃこんな理屈っぽい仕事人間ですけど、昔は泥だらけになって走り回ってたんですから!」
「余計なことは言わなくていい……」
俺が苦虫を噛み潰したような顔をすると、二人が顔を見合わせてクスクスと笑った。
リビングに、温かい笑い声が満ちる。
陽菜もつられて、キャッキャと笑っている。
幸せだ。
心から、そう思った。
しばらくして、時計の針が23時を回った頃。
「あ、もうこんな時間。……すみません、長居しちゃって」
小日向さんが時計を見て立ち上がった。
「いえいえ、こちらこそ引き止めちゃって。またいつでも来てくださいね! 私しばらくここに居座る予定なんで!」
玲奈が手を振る。
「はい。また、遊びに来ます」
小日向さんは玲奈と陽菜に別れを告げ、玄関へと向かった。
俺はその後を追う。
「送っていきます」
「ふふ、隣の隣ですけどね」
廊下に出ると、ひんやりとした夜気が肌を包んだ。
2102号室から2104号室までの、わずか数メートルの距離。
それが、ひどく名残惜しい。
彼女の部屋の前で、足が止まる。
「……今日は、本当にありがとうございました」
小日向さんが、改めて頭を下げた。
「妹さんにお会いできてよかったです。とっても明るくて、素敵な方ですね」
「あいつが騒がしくてすみません。……でも、誤解が解けてよかった」
「はい。……私、本当にホッとしました」
彼女が上目遣いで俺を見る。
その瞳が、廊下の照明を受けて潤んでいるように見えた。
「佐伯さん」
「はい」
「あの……手」
彼女の視線が、俺の手に落ちる。
帰り道で繋いでいた手は、部屋に入ってからは離してしまっていた。
「……また、繋いでもいいですか?」
消え入りそうな声での、精一杯のお願い。
理性が吹き飛びそうになるのを必死で堪えて、俺は彼女の手を取った。
「いつでも。……小日向さんが嫌じゃなければ」
「嫌じゃ、ないです。……嬉しい、です」
彼女の指が、俺の指に絡まる。
恋人繋ぎ。
体温が直接伝わってくる。
「……おやすみなさい、佐伯さん」
「おやすみなさい……小日向さん」
彼女は今までで一番幸せそうな笑顔を見せてくれた。
ドアが閉まるその瞬間まで、俺たちは見つめ合っていた。
俺はしばらくその場に立ち尽くし、自分の手のひらに残る温もりを確かめてから、ゆっくりと自分の部屋へと戻った。
扉を開けると、ニヤニヤした顔の玲奈が待ち構えていた。
「すぐ隣じゃなかったっけ? 随分長いお見送りだったね」
「……いいだろ、別に」
「思った通り、素敵な人だった。小日向さん」
「……だろ?」
「あの人なら、安心して陽菜ちゃんを任せられるよ」
「俺より懐いてる気がして、パパとしては複雑だけどな」
「……それと、お兄ちゃんのこともね」
「……!」
「……で? キッスは? した?」
「してない!」
「なーんだ。やっぱりヘタレか」
「お前俺に恨みでもあるのか?」
「陽菜ちゃん、パパもまだまだでちゅね〜」
こうして、長い長い誤解とすれ違いの週末は、最高の形で幕を閉じた。




