11
決戦の土曜日がやってきた。
空は突き抜けるような快晴。
絶好のデート日和――と言いたいところだが、今日の俺にとっては、人生を左右する審判の日だ。
時刻は午後5時。
リビングの姿見の前で最終チェックを行っていた。
「うん、いいんじゃない? 合格」
ソファで陽菜をあやしていた玲奈が、俺の全身を眺めて親指を立てた。
今日の服装は、玲奈の完全プロデュースだ。
ネイビーのテーラードジャケットに、インナーは清潔感のある白のニット。
ボトムスはカッチリしすぎないベージュのチノパンで、足元は革靴ではなく、あえて綺麗なスニーカー。
『いい? スーツだと「堅いお話?」ってなるし、パーカーだと「近所のコンビニかよ」ってなるの。目指すは「休日のちょっと素敵なパパ(候補)」よ』
という玲奈の熱血指導のもと、クローゼットをひっくり返して選んだコーディネートだ。
「……なあ。ベージュのチノパンって、なんかおっさんくさくないか?」
「おっさんじゃん」
「……」
「……いや、でもさ」
「あのさぁ。やめてくんない?」
「えっ?」
「別に変じゃないし、お兄ちゃんスタイル良いんだから。めちゃくちゃ似合ってるよ。それに、若作り失敗してるイタイおっさんになりたくないでしょ?」
「はい」
「じゃあそれで行け」
「わかった」
「髪もセットしたし、眉毛もナチュラルに整えたし、完璧だね。その辺の似非モデルよりイカしてる」
「……ほ、褒めるじゃん」
「お兄ちゃん顔とスタイルはいいんだからさ、自信持ちなよ。おっさんだけど」
玲奈はケラケラと笑うと、抱っこしていた陽菜を高い高いした。
「陽菜ちゃんも、パパのこと応援してあげてねー! 今日頑張らないと、パパ一生独身かもしれないからねー!」
「あーだー!」
陽菜が元気よく声を上げる。
まるで「がんばれー」と言ってくれているようだ。
「……陽菜! パパ行ってくるからな! 見守っててくれよ!」
俺は深呼吸をして、ジャケットの襟を正した。
緊張で掌が湿っている。
「お兄ちゃん」
玄関で靴を履いていると、玲奈が真面目な声で呼び止めた。
「ヘタレたら承知しないからね。ちゃんと目を見て、誠実に伝えてくること」
「ああ。分かってる」
「行ってらっしゃい。男になれよ!」
妹と愛娘に見送られ、俺は予約したレストランへと向かった。
◇◆◇
同じ頃。
私は鏡の前で立ち尽くしていた。
部屋の中は静まり返っている。
自分の心臓の音だけが聞こえる。
「……これで、いいかな」
私が選んだのは、淡いブルーグレーのワンピースだった。
派手すぎず、かといって地味すぎない、上品なデザイン。
普段の保育士としての私ではなく、一人の大人の女性として見てもらえるように。
そして何より、最後のお別れになるかもしれない席に相応しいように。
メイクも、いつもより丁寧に時間をかけた。
泣いて崩れてもいいように、ウォータープルーフのマスカラを選んだ。
口紅は、少しだけ血色を良く見せるローズピンク。
鏡の中の自分は、笑っているようで、どこか泣き出しそうな顔をしていた。
「……よし」
自分の頬を両手で挟み、気合を入れる。
泣いちゃダメだ。
佐伯さんが「伝えたいこと」を話す時、笑顔で聞いてあげるんだ。
『彼女を紹介します』と言われたら、『素敵な方ですね』って。
『引っ越します』と言われたら、『お元気で』って。
『もう会えません』と言われたら、『今までありがとうございました』って。
ちゃんと、大人の対応をするんだ。
お隣さんとして、恩人として、恥ずかしくない振る舞いをするんだ。
そう言い聞かせないと、足が震えて動かなくなりそうだった。
バッグを手に取り、玄関へ向かう。
靴を履き、ドアノブに手をかける。
ひんやりとした金属の感触が、高ぶる感情を少しだけ冷ましてくれた。
「行ってきます」
誰もいない部屋に呟いて、私はドアを開けた。
廊下は静かだった。
2102号室の前を通る時、胸がチクリと痛んだ。
あの部屋には今、あの女性がいるのだろうか。
想像するのをやめて、私はエレベーターのボタンを押した。
数字が変わっていくのを見つめながら、私は心の中でカウントダウンをしていた。
佐伯さんとの、この曖昧で幸せだった関係が終わるまでの、カウントダウンを。
◇◆◇
待ち合わせ場所は、マンションから徒歩で10分ほどの距離にあるイタリアンレストラン。
個室があり、落ち着いた雰囲気だが、堅苦しくはない店。
玲奈と二人で「ここなら小日向さんもリラックスできるはず」と選んだ場所だ。
俺は予約時間の10分前には到着していた。
個室に通され、ソワソワと落ち着かない時間を過ごす。
水を一口飲み、ネクタイをしていない首元を無意識に触る。
「……落ち着け。ただの食事会だ」
自分に言い聞かせるが、効果はない。
心臓が口から飛び出しそうだ。
コンコン。
控えめなノックの音が響いた。
俺は弾かれたように立ち上がった。
「失礼いたします。お連れ様がお見えになりました」
店員さんがドアを開ける。
そこには、少し緊張した面持ちの小日向さんが立っていた。
「……こんばんは」
彼女の声を聞いた瞬間、俺の思考は一瞬停止した。
綺麗だ。
いつもはカジュアルな服装やエプロン姿が多い彼女だが、今日は違った。
淡い色のワンピースが、彼女の透明感をより一層引き立てている。
少しだけメイクをした顔は、大人っぽくて、でもどこか儚げで。
見惚れてしまった。
なんて素敵なんだろう。
「あ、佐伯さん? ……あの、変、ですか?」
俺が黙り込んでしまったせいで、彼女が不安そうに身を縮こまらせた。
「い、いえ! 全然! むしろ、その……すごく、素敵です」
素直な感想を口にすると、彼女はパッと顔を赤らめ、それから少し寂しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。……佐伯さんも、素敵ですね」
「あ、ありがとうございます……どうぞ、座ってください」
俺は椅子を引いた。
彼女が座るのを見届け、自分も向かいの席に着く。
テーブルの上には、小さなキャンドルが揺れている。
普段ならロマンチックな演出だと喜ぶところだが、今のこの重苦しい空気の中では、まるで導火線の火のように見えた。
「あの……」
お互いに同時に口を開き、そして譲り合う。
「どうぞ、先に」
「いえ、佐伯さんから」
沈黙が落ちる。
店員さんがメニューを持ってきてくれるまでの数分間が、永遠のように長く感じられた。
小日向さんは、伏し目がちに手元のグラスを見つめている。
その表情は硬く、まるで何かを耐えているようだった。
……やっぱり、怖がらせてしまっている。
玲奈の言う通りだ。
俺からの「伝えたいこと」を、悪い知らせだと予感しているんだ。
早く、言わなきゃ。
誤解を解いて、安心させてあげなきゃ。
でも、どう切り出せばいい?
『実はあの女は妹で』といきなり言うのも唐突すぎるし、まずは雑談から入るべきか?
いや、焦らせるのは良くない。
俺がグルグルと考えを巡らせていると、小日向さんがポツリと呟いた。
「……今日は、陽菜ちゃんは?」
その声は、震えていた。
「あ、はい。今日は……家で見てもらってるので、大丈夫です」
俺は、「玲奈が見てくれている」という意味でそう答えた。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、小日向さんの顔からサーッと血の気が引いていくのが分かった。
「……家で……」
しまった。
主語がない。
『家で見てもらってる』
それを聞いた彼女が、誰を想像するか。
俺の部屋に泊まり、ゴミ出しをしていた、あの「恋人(だと思われている人物)」だ。
俺の失言が、彼女の誤解をさらに深めてしまったことに気づいた時、すでに遅かった。
小日向さんは、膝の上でギュッと拳を握りしめ、覚悟を決めたように顔を上げた。
その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていた。
「……小日向さん?」
俺が恐る恐る声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
その顔には、今まで見たこともないような、悲痛な覚悟が滲んでいた。
「……佐伯さん。今日のお話って」
彼女の声は、消え入りそうなほど細かった。
「もしかして、佐伯さんの部屋に出入りしている女性のこと、ですか? 今、陽菜ちゃんを見てくださっているのも……その人、ですよね」
「え? あ、はい。そうです」
俺は頷いた。
玲奈のことだ。今日の目的は、玲奈のことを説明して誤解を解くことなのだから、当然だ。
しかし、俺の肯定を聞いた瞬間、小日向さんの目からポロリと涙がこぼれ落ちた。
「!」
「……やっぱり、そうなんですね」
彼女は無理やり口角を上げ、歪んだ笑顔を作った。
その痛々しさに、俺は言葉を失う。
「おめでとう、ございます」
「……へっ?」
「素敵な方でした。ゴミ出しの時、少しお会いしたんです。明るくて、綺麗で……佐伯さんに、お似合いだなって思いました」
彼女は震える声で言葉を紡ぐ。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
「きっと、素敵なご家庭になりますね」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は慌てて身を乗り出した。
「小日向さん、勘違いなんです!」
「勘違いなんて、してません!」
彼女が声を荒げた。
初めて見る、強い感情の発露だった。
「分かってます……分かってますから! 私なんかが、お邪魔でしたよね。ご近所さんだからって図々しくお節介焼いて……ご迷惑だったんですよね!」
彼女は両手で顔を覆い、泣き出してしまった。
「今までありがとうございました……! 私、もう帰ります……!」
彼女は勢いよく立ち上がった。
俺は反射的に立ち上がり、彼女の腕を掴んだ。
「待ってください!」
「離してください! これ以上、惨めな思いしたくないんです……っ!」
彼女が俺の手を振りほどこうとする。
その目には、絶望と悲しみが溢れていた。
ようやく、俺は理解した。
玲奈の言っていた通りだ。
彼女は、俺が結婚報告か何かをして、関係を断ち切りに来たと本当に思っているんだ。
あいつの言うことだからって、半信半疑だった。
でも。
このまま帰したら、終わる。
二度と、取り返しがつかなくなる。
『誠心誠意謝る。言い訳はしない』
そうだ。覚悟は決めてきただろ。
俺は腹の底から声を出した。
「ごめんなさいっ!!」
個室に俺の声が響き渡った。
いや、きっと隣の個室にも、その隣の個室にも響いてるんだろうな。
小日向さんが驚いて動きを止める。
「え……?」
「俺が、ちゃんとあなたに報告をしませんでした。あいつは……違うんです!」
「違う……って……」
「結婚とか、彼女とか、そういうんじゃないんです! あれは……今、家にいるのは!」
俺は息を吸い込み、一番重要な事実を叫んだ。
「実の妹です!!」
「…………は?」
小日向さんが、涙を溜めたままキョトンとした。
時が止まったような静寂。
「い、もうと……?」
「はい。正真正銘、血の繋がってる妹です。留学から帰ってきたばかりの、大学生の、俺の妹の、玲奈です!」
俺は慌ててポケットからスマホを取り出し、カメラロールを開いた。
昨日、玲奈が無理やり撮ってきたツーショット写真。
陽菜を挟んで、俺と玲奈が変顔をしているふざけた写真だ。
「これ! 見てください! 似てませんか!? 目元とか!」
俺は必死に画面を突きつけた。
小日向さんは、恐る恐る画面を覗き込む。
「……あ」
そこには、昨日の「綺麗な女性」が、だらしない部屋着で、俺の肩に肘を乗せて笑っている姿があった。
恋人同士の距離感じゃない。
もっと遠慮のない、血縁特有の雑な距離感。
「……妹、さん……?」
「はい。恋人なんかじゃありません。あいつが勝手に転がり込んできただけで……俺には、彼女なんていませんから!……い、今は」
俺は言い切った。
小日向さんの目が、点になる。
そして、みるみるうちに顔が赤く染まっていった。
「え、ええええっ!?」
彼女は腰が抜けたように、椅子にへたり込んだ。
「じゃあ、ゴミ出ししてたのも……お泊まりしてたのも……」
「妹だからです。あいつは実家みたいに過ごしてますけど、もうすぐ追い出そうと思ってます。うるさいんで!」
「……そ、そうだったんですか……」
彼女は両手で顔を覆い、さっきとは違う種類の涙を流し始めた。
それは、安堵の涙なんだろうか?
「よかったぁ……。うぅっ……わ、私、もう……二度と佐伯さんに会えなくなるのかと思って……。……うぅ……えぇぇぇん……!」
ボロボロと泣きじゃくる彼女を見て、俺の胸がギュッと締め付けられた。
こんなに、思ってくれていたのか。
俺がいなくなることを、こんなに悲しんでくれていたのか。
俺はテーブル越しに手を伸ばし、彼女にハンカチを差し出した。
「すみません。俺の説明不足でした。不安にさせてしまって、本当にごめんなさい。ごめんなさい」
「ううっ……ひっく……ずるいです、佐伯さん……」
彼女はハンカチを受け取り、涙を拭った。
泣き腫らした目は赤かったけれど、その表情は、雨上がりの空のように晴れやかだった。
「……信じて、くれますか?」
「はい……。……お写真の二人、笑い方がそっくりでしたから……」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
誤解は解けた。
最悪の事態は回避できた。
俺の心臓はまだバクバクと言っているが、それは恐怖からではない。
目の前の彼女が、あまりにも愛おしいからだ。
「小日向さん」
俺は居住まいを正した。
まだ、伝えるべきことが残っている。
「今日、予定を作ってもらったのは、誤解を解くためだけじゃないんです」
「え?」
「あなたに、妹を紹介したかったんです。俺の大切な家族を、俺の……た、大切な人である……! あなたに、会ってほしくて」
俺の言葉に、彼女が息を飲む。
「……大切な……人……?」
「このあと……妹に会っていただけませんか? あいつも、小日向さんに会いたがってるんです」
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに深く頷いてくれた。
「……はい。喜んで」
その笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが確信に変わった。
ああ、俺はこの人と、これからもずっと一緒にいたいんだ、と。
「でも、まずはイタリアンを楽しみませんか?」
「……はい!」
正直、食べたものの味は覚えてない。
ただ、幸せな時間だったことは覚えてる。




