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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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 決戦の土曜日がやってきた。


 空は突き抜けるような快晴。

 絶好のデート日和――と言いたいところだが、今日の俺にとっては、人生を左右する審判の日だ。


 時刻は午後5時。

 リビングの姿見の前で最終チェックを行っていた。


「うん、いいんじゃない? 合格」


 ソファで陽菜をあやしていた玲奈が、俺の全身を眺めて親指を立てた。


 今日の服装は、玲奈の完全プロデュースだ。

 ネイビーのテーラードジャケットに、インナーは清潔感のある白のニット。

 ボトムスはカッチリしすぎないベージュのチノパンで、足元は革靴ではなく、あえて綺麗なスニーカー。


『いい? スーツだと「堅いお話?」ってなるし、パーカーだと「近所のコンビニかよ」ってなるの。目指すは「休日のちょっと素敵なパパ(候補)」よ』


 という玲奈の熱血指導のもと、クローゼットをひっくり返して選んだコーディネートだ。


「……なあ。ベージュのチノパンって、なんかおっさんくさくないか?」


「おっさんじゃん」


「……」


「……いや、でもさ」


「あのさぁ。やめてくんない?」


「えっ?」


「別に変じゃないし、お兄ちゃんスタイル良いんだから。めちゃくちゃ似合ってるよ。それに、若作り失敗してるイタイおっさんになりたくないでしょ?」


「はい」


「じゃあそれで行け」


「わかった」


「髪もセットしたし、眉毛もナチュラルに整えたし、完璧だね。その辺の似非モデルよりイカしてる」


「……ほ、褒めるじゃん」


「お兄ちゃん顔とスタイルはいいんだからさ、自信持ちなよ。おっさんだけど」


 玲奈はケラケラと笑うと、抱っこしていた陽菜を高い高いした。


「陽菜ちゃんも、パパのこと応援してあげてねー! 今日頑張らないと、パパ一生独身かもしれないからねー!」


「あーだー!」


 陽菜が元気よく声を上げる。

 まるで「がんばれー」と言ってくれているようだ。


「……陽菜! パパ行ってくるからな! 見守っててくれよ!」


 俺は深呼吸をして、ジャケットの襟を正した。

 緊張で掌が湿っている。


「お兄ちゃん」


 玄関で靴を履いていると、玲奈が真面目な声で呼び止めた。


「ヘタレたら承知しないからね。ちゃんと目を見て、誠実に伝えてくること」


「ああ。分かってる」


「行ってらっしゃい。男になれよ!」


 妹と愛娘に見送られ、俺は予約したレストランへと向かった。




 ◇◆◇




 同じ頃。


 私は鏡の前で立ち尽くしていた。


 部屋の中は静まり返っている。


 自分の心臓の音だけが聞こえる。


「……これで、いいかな」


 私が選んだのは、淡いブルーグレーのワンピースだった。

 派手すぎず、かといって地味すぎない、上品なデザイン。

 普段の保育士としての私ではなく、一人の大人の女性として見てもらえるように。

 そして何より、最後のお別れになるかもしれない席に相応しいように。


 メイクも、いつもより丁寧に時間をかけた。

 泣いて崩れてもいいように、ウォータープルーフのマスカラを選んだ。

 口紅は、少しだけ血色を良く見せるローズピンク。


 鏡の中の自分は、笑っているようで、どこか泣き出しそうな顔をしていた。


「……よし」


 自分の頬を両手で挟み、気合を入れる。

 泣いちゃダメだ。

 佐伯さんが「伝えたいこと」を話す時、笑顔で聞いてあげるんだ。


 『彼女を紹介します』と言われたら、『素敵な方ですね』って。


 『引っ越します』と言われたら、『お元気で』って。


 『もう会えません』と言われたら、『今までありがとうございました』って。


 ちゃんと、大人の対応をするんだ。

 お隣さんとして、恩人として、恥ずかしくない振る舞いをするんだ。


 そう言い聞かせないと、足が震えて動かなくなりそうだった。


 バッグを手に取り、玄関へ向かう。

 靴を履き、ドアノブに手をかける。

 ひんやりとした金属の感触が、高ぶる感情を少しだけ冷ましてくれた。


「行ってきます」


 誰もいない部屋に呟いて、私はドアを開けた。


 廊下は静かだった。

 2102号室の前を通る時、胸がチクリと痛んだ。


 あの部屋には今、あの女性がいるのだろうか。


 想像するのをやめて、私はエレベーターのボタンを押した。

 数字が変わっていくのを見つめながら、私は心の中でカウントダウンをしていた。


 佐伯さんとの、この曖昧で幸せだった関係が終わるまでの、カウントダウンを。




 ◇◆◇




 待ち合わせ場所は、マンションから徒歩で10分ほどの距離にあるイタリアンレストラン。


 個室があり、落ち着いた雰囲気だが、堅苦しくはない店。

 玲奈と二人で「ここなら小日向さんもリラックスできるはず」と選んだ場所だ。


 俺は予約時間の10分前には到着していた。

 個室に通され、ソワソワと落ち着かない時間を過ごす。

 水を一口飲み、ネクタイをしていない首元を無意識に触る。


「……落ち着け。ただの食事会だ」


 自分に言い聞かせるが、効果はない。

 心臓が口から飛び出しそうだ。


 コンコン。


 控えめなノックの音が響いた。

 俺は弾かれたように立ち上がった。


「失礼いたします。お連れ様がお見えになりました」


 店員さんがドアを開ける。

 そこには、少し緊張した面持ちの小日向さんが立っていた。


「……こんばんは」


 彼女の声を聞いた瞬間、俺の思考は一瞬停止した。


 綺麗だ。


 いつもはカジュアルな服装やエプロン姿が多い彼女だが、今日は違った。

 淡い色のワンピースが、彼女の透明感をより一層引き立てている。

 少しだけメイクをした顔は、大人っぽくて、でもどこか儚げで。


 見惚れてしまった。

 なんて素敵なんだろう。


「あ、佐伯さん? ……あの、変、ですか?」


 俺が黙り込んでしまったせいで、彼女が不安そうに身を縮こまらせた。


「い、いえ! 全然! むしろ、その……すごく、素敵です」


 素直な感想を口にすると、彼女はパッと顔を赤らめ、それから少し寂しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。……佐伯さんも、素敵ですね」


「あ、ありがとうございます……どうぞ、座ってください」


 俺は椅子を引いた。

 彼女が座るのを見届け、自分も向かいの席に着く。


 テーブルの上には、小さなキャンドルが揺れている。

 普段ならロマンチックな演出だと喜ぶところだが、今のこの重苦しい空気の中では、まるで導火線の火のように見えた。


「あの……」


 お互いに同時に口を開き、そして譲り合う。


「どうぞ、先に」


「いえ、佐伯さんから」


 沈黙が落ちる。

 店員さんがメニューを持ってきてくれるまでの数分間が、永遠のように長く感じられた。


 小日向さんは、伏し目がちに手元のグラスを見つめている。

 その表情は硬く、まるで何かを耐えているようだった。


 ……やっぱり、怖がらせてしまっている。

 玲奈の言う通りだ。

 俺からの「伝えたいこと」を、悪い知らせだと予感しているんだ。


 早く、言わなきゃ。

 誤解を解いて、安心させてあげなきゃ。


 でも、どう切り出せばいい?

 『実はあの女は妹で』といきなり言うのも唐突すぎるし、まずは雑談から入るべきか?

 いや、焦らせるのは良くない。


 俺がグルグルと考えを巡らせていると、小日向さんがポツリと呟いた。


「……今日は、陽菜ちゃんは?」


 その声は、震えていた。


「あ、はい。今日は……家で見てもらってるので、大丈夫です」


 俺は、「玲奈が見てくれている」という意味でそう答えた。

 しかし、その言葉を聞いた瞬間、小日向さんの顔からサーッと血の気が引いていくのが分かった。


「……家で……」


 しまった。

 主語がない。


 『家で見てもらってる』

 それを聞いた彼女が、誰を想像するか。


 俺の部屋に泊まり、ゴミ出しをしていた、あの「恋人(だと思われている人物)」だ。


 俺の失言が、彼女の誤解をさらに深めてしまったことに気づいた時、すでに遅かった。

 小日向さんは、膝の上でギュッと拳を握りしめ、覚悟を決めたように顔を上げた。


 その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていた。


「……小日向さん?」


 俺が恐る恐る声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

 その顔には、今まで見たこともないような、悲痛な覚悟が滲んでいた。


「……佐伯さん。今日のお話って」


 彼女の声は、消え入りそうなほど細かった。


「もしかして、佐伯さんの部屋に出入りしている女性のこと、ですか? 今、陽菜ちゃんを見てくださっているのも……その人、ですよね」


「え? あ、はい。そうです」


 俺は頷いた。


 玲奈のことだ。今日の目的は、玲奈のことを説明して誤解を解くことなのだから、当然だ。


 しかし、俺の肯定を聞いた瞬間、小日向さんの目からポロリと涙がこぼれ落ちた。


「!」


「……やっぱり、そうなんですね」


 彼女は無理やり口角を上げ、歪んだ笑顔を作った。

 その痛々しさに、俺は言葉を失う。


「おめでとう、ございます」


「……へっ?」


「素敵な方でした。ゴミ出しの時、少しお会いしたんです。明るくて、綺麗で……佐伯さんに、お似合いだなって思いました」


 彼女は震える声で言葉を紡ぐ。

 まるで、自分自身に言い聞かせるように。


「きっと、素敵なご家庭になりますね」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 俺は慌てて身を乗り出した。


「小日向さん、勘違いなんです!」


「勘違いなんて、してません!」


 彼女が声を荒げた。

 初めて見る、強い感情の発露だった。


「分かってます……分かってますから! 私なんかが、お邪魔でしたよね。ご近所さんだからって図々しくお節介焼いて……ご迷惑だったんですよね!」


 彼女は両手で顔を覆い、泣き出してしまった。


「今までありがとうございました……! 私、もう帰ります……!」


 彼女は勢いよく立ち上がった。

 俺は反射的に立ち上がり、彼女の腕を掴んだ。


「待ってください!」


「離してください! これ以上、惨めな思いしたくないんです……っ!」


 彼女が俺の手を振りほどこうとする。

 その目には、絶望と悲しみが溢れていた。


 ようやく、俺は理解した。

 玲奈の言っていた通りだ。

 彼女は、俺が結婚報告か何かをして、関係を断ち切りに来たと本当に思っているんだ。


 あいつの言うことだからって、半信半疑だった。


 でも。


 このまま帰したら、終わる。

 二度と、取り返しがつかなくなる。


『誠心誠意謝る。言い訳はしない』


 そうだ。覚悟は決めてきただろ。


 俺は腹の底から声を出した。


「ごめんなさいっ!!」


 個室に俺の声が響き渡った。

 いや、きっと隣の個室にも、その隣の個室にも響いてるんだろうな。


 小日向さんが驚いて動きを止める。


「え……?」


「俺が、ちゃんとあなたに報告をしませんでした。あいつは……違うんです!」


「違う……って……」


「結婚とか、彼女とか、そういうんじゃないんです! あれは……今、家にいるのは!」


 俺は息を吸い込み、一番重要な事実を叫んだ。


「実の妹です!!」


「…………は?」


 小日向さんが、涙を溜めたままキョトンとした。

 時が止まったような静寂。


「い、もうと……?」


「はい。正真正銘、血の繋がってる妹です。留学から帰ってきたばかりの、大学生の、俺の妹の、玲奈です!」


 俺は慌ててポケットからスマホを取り出し、カメラロールを開いた。

 昨日、玲奈が無理やり撮ってきたツーショット写真。

 陽菜を挟んで、俺と玲奈が変顔をしているふざけた写真だ。


「これ! 見てください! 似てませんか!? 目元とか!」


 俺は必死に画面を突きつけた。

 小日向さんは、恐る恐る画面を覗き込む。


「……あ」


 そこには、昨日の「綺麗な女性」が、だらしない部屋着で、俺の肩に肘を乗せて笑っている姿があった。


 恋人同士の距離感じゃない。

 もっと遠慮のない、血縁特有の雑な距離感。


「……妹、さん……?」


「はい。恋人なんかじゃありません。あいつが勝手に転がり込んできただけで……俺には、彼女なんていませんから!……い、今は」


 俺は言い切った。

 小日向さんの目が、点になる。


 そして、みるみるうちに顔が赤く染まっていった。


「え、ええええっ!?」


 彼女は腰が抜けたように、椅子にへたり込んだ。


「じゃあ、ゴミ出ししてたのも……お泊まりしてたのも……」


「妹だからです。あいつは実家みたいに過ごしてますけど、もうすぐ追い出そうと思ってます。うるさいんで!」


「……そ、そうだったんですか……」


 彼女は両手で顔を覆い、さっきとは違う種類の涙を流し始めた。

 それは、安堵の涙なんだろうか?


「よかったぁ……。うぅっ……わ、私、もう……二度と佐伯さんに会えなくなるのかと思って……。……うぅ……えぇぇぇん……!」


 ボロボロと泣きじゃくる彼女を見て、俺の胸がギュッと締め付けられた。

 こんなに、思ってくれていたのか。

 俺がいなくなることを、こんなに悲しんでくれていたのか。


 俺はテーブル越しに手を伸ばし、彼女にハンカチを差し出した。


「すみません。俺の説明不足でした。不安にさせてしまって、本当にごめんなさい。ごめんなさい」


「ううっ……ひっく……ずるいです、佐伯さん……」


 彼女はハンカチを受け取り、涙を拭った。

 泣き腫らした目は赤かったけれど、その表情は、雨上がりの空のように晴れやかだった。


「……信じて、くれますか?」


「はい……。……お写真の二人、笑い方がそっくりでしたから……」


 彼女は恥ずかしそうに笑った。


 誤解は解けた。

 最悪の事態は回避できた。


 俺の心臓はまだバクバクと言っているが、それは恐怖からではない。


 目の前の彼女が、あまりにも愛おしいからだ。


「小日向さん」


 俺は居住まいを正した。

 まだ、伝えるべきことが残っている。


「今日、予定を作ってもらったのは、誤解を解くためだけじゃないんです」


「え?」


「あなたに、妹を紹介したかったんです。俺の大切な家族を、俺の……た、大切な人である……! あなたに、会ってほしくて」


 俺の言葉に、彼女が息を飲む。


「……大切な……人……?」


「このあと……妹に会っていただけませんか? あいつも、小日向さんに会いたがってるんです」


 彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに深く頷いてくれた。


「……はい。喜んで」


 その笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが確信に変わった。

 ああ、俺はこの人と、これからもずっと一緒にいたいんだ、と。


「でも、まずはイタリアンを楽しみませんか?」


「……はい!」


 正直、食べたものの味は覚えてない。


 ただ、幸せな時間だったことは覚えてる。

 

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