10
「さて。お兄ちゃん」
陽菜を寝かしつけた後、玲奈は俺をダイニングテーブルの前に座らせると、まるで鬼軍曹のような顔で仁王立ちした。
「ここからは『玲奈先生の特別恋愛講座』を始めます。心して聞くように」
「……お手柔らかに」
俺は小さくなっていた。
完全に図星を突かれた上に、自分の失態(というより配慮不足)を自覚させられ、反論の余地がないからだ。
「まず、現状整理ね。お兄ちゃんは小日向さんのことが好き。これは確定」
「……まあ、うん。否定はしない」
「煮え切らないなぁ。好きなら好きってハッキリ認めなよ。男でしょ! ウジウジしてんなよ!」
玲奈がテーブルをバンと叩く。
「い、いや、認めてるだろ! 大切な人だと思ってるし、これからも一緒にいたいと思ってる!」
「よろしい。で、次。ここが重要なんだけど……小日向さんも、お兄ちゃんのこと好きだよ。絶対」
「はぁ? だから、それはお前の勘違いだって。小日向さんはただの子供好きな……」
「あー、もう! それ! マジでウザイ! ほんっっとに鈍感!」
玲奈は頭を抱え、天井を仰いだ。
「あのね、今朝のゴミ捨て場でのこと、もう一回ちゃんと言語化してあげるから聞いて。あの時の小日向さんの目、凄かったんだから」
玲奈は身を乗り出し、俺の目をじっと見つめた。
「あれはね、ただ隣人の家から女が出てきたのを見て驚いた目じゃないの。『なんであんたがそこにいるの?』っていう、恋のライバルを見る敵意のある目だったの!」
「て、敵意……? あの温厚な小日向さんが?」
「温厚な人ほど、怒らせると怖いの! というか、それだけショックだったってこと。私が挨拶した時の、あの一瞬の絶望したような顔……あれは、どうでもいい相手に向ける顔じゃない」
玲奈は断言した。
「お兄ちゃんが思ってるより、小日向さんはお兄ちゃんのこと気になってる。というか、もう好きになってる可能性大。私が保証する」
俺は言葉を失った。
こいつの恋愛遍歴は知らないが、その言葉には、不思議な説得力があった。
もしそれが本当なら……俺は、とんでもないことをしてしまったことになる。
好きな人を、不安にさせて。
傷つけて。
「……やってること、やばいじゃん、俺」
「そう。相当やばい。今まさに、小日向さんは部屋で一人、枕を濡らしてるかもしれないよ? 『やっぱり私なんて……』って」
「いや、彼女は今仕事中で……」
「だー!!! 言葉のあやじゃん!! そういうとこやめろって言ってんの!!」
「そ、そんなにキレるなよ……」
でも、想像しただけで、胸が締め付けられた。
あの優しくて、少し自信のなさげな小日向さんが、俺のせいで泣いている?
「……くそっ!」
俺は慌ててスマホを取り出した。
「じゃあ、今すぐLINEで! 『あれは妹なんです』って伝えて……!」
誤解を解かなければ。一刻も早く。
俺は震える指でLINEアプリを開こうとした。
バシッ!!
鋭い音がして、俺の手からスマホが弾き飛ばされた。
玲奈が、俺の手を叩いたのだ。
「いっ……! 何すんだよ!」
「バッカじゃないの!?」
玲奈が、今までで一番低い声で凄んだ。
本気で怒っている時の顔だ。
「これだけ不安にさせといて、LINE一通で済ます気? 正気か!?」
「えっ……? だって、早く伝えないと……」
「早けりゃいいってもんじゃないでしょ! 文字だけで『妹でした〜』なんて送って、はい解決、なんてなるわけないじゃん!」
玲奈は俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「そんな軽い扱いされたら、『ああ、私への誠意ってその程度なんだ』って余計に冷めるわ! LINEで済ませるような男、私だったら願い下げだね!」
「うっ……」
正論すぎて、ぐうの音も出ない。
仕事なら、重要な謝罪や訂正は直接会って行うのが鉄則だ。
なのに俺は、一番大切な相手に対して、一番安直な手段を選ぼうとしていた。
彼女を早く安心させたかったなんて建前だ。
俺は、俺が早く安心したかっただけだ。
「じゃあ、どうすればいいんだよ……」
「決まってるでしょ」
玲奈は仁王立ちに戻り、ビシッと俺を指差した。
「もっと男を見せろ!」
「男を……?」
「食事に誘え! このボケが!」
玲奈の怒号がリビングに響いた。
寝ている陽菜が起きないかヒヤッとしたが、幸いベビーモニターからは静かな寝息しか聞こえない。
「食事……?」
「そう。LINEでちまちま弁解するんじゃなくて、『大事な話があるから食事に行きませんか』って誘うの。そして、直接会って、目を見て、私は妹でしたって言うの」
玲奈のプランはこうだ。
1. まず、LINEではなく、誠意を持って食事に誘う。
2. 場所は、小日向さんがリラックスできるような、でも少しだけ特別な店(高級すぎはNG、ドレスコードのない、ラフな店)。
3. 誤解をさせたことを誠心誠意謝罪する。
4. 仲直り。
「……なるほど」
「陽菜ちゃんのことは私に任せて、二人で楽しんできなよ」
策士だ。こいつ、本当に俺の妹か?
「分かった。やるよ」
俺は覚悟を決めた。
逃げてばかりじゃダメだ。
小日向さんのことが好きなら、彼女を不安にさせてしまった責任を取らなければならない。
「よろしい。じゃあ、早速お店の予約ね。雰囲気が良くて、ご飯が美味しいところ。……お兄ちゃん、コンサルなんだからリサーチは得意でしょ?」
「任せろ! 良い感じのレストランのリストなら、既に頭に入ってる」
「うわ、準備いいね。……じゃあ、LINE送って。文面は私が添削するから」
「そこまでするのか? そこは俺の考えた文章で……」
「無理。今信用ないから。これ以上落ちたら、もう終わる」
「はい」
俺は再びスマホを手に取った。
先ほどとは違う、重みを感じる。
『小日向さん、お忙しいところ申し訳ありません。実は、少し誤解をさせてしまっている件について、直接お会いしてお話ししたいことがあります』
「……堅っ! 仕事のメールじゃないんだから」
「うっ……じゃあ、どうすれば」
「貸して」
玲奈がスマホを奪い取り、素早い手つきでフリック入力していく。
『昨日はお会いできなくてすみませんでした。……実は、どうしても小日向さんに伝えたいことがあるんです。今度の週末、少しだけお時間いただけませんか? ご飯でもどうかなと思って』
「……これで、いいのか?」
「送って」
俺は震える指で、送信ボタンを押した。
シュッ。
メッセージが飛んでいく。
もう、後戻りはできない。
「……送った」
「うん。あとは待つだけ。……お兄ちゃん、頑張んなよ。ウジウジしてないでさ、男見せなよ」
玲奈が、珍しく真面目な顔で俺の背中を叩いた。
「ああ。……分かってる」
俺はスマホを握りしめ、画面を見つめ続けた。
既読がつくのを、祈るような気持ちで待ちながら。
◇◆◇
私は暗い部屋のベッドの上で、膝を抱えていた。
スマホの画面が、暗闇の中で白く発光している。
そこには、お昼に届いた佐伯さんからのLINEが表示されていた。
『昨日はお会いできなくてすみませんでした。……実は、どうしても小日向さんに伝えたいことがあるんです。今度の週末、少しだけお時間いただけませんか? ご飯でもどうかなと思って』
その文面を、もう何十回も見返した。
文字の一つ一つが、重たく心にのしかかってくる。
「……伝えたいこと、か」
普通なら、嬉しいお誘いだと思うかもしれない。
食事に行こう。伝えたいことがある。
そんな言葉、期待してしまってもおかしくないシチュエーションだ。
でも、今の私には、それが「終わりの合図」にしか見えなかった。
今朝見た、あの光景。
佐伯さんの部屋から出てきた、恋人さん。
親しげにゴミ出しをして、私に余裕の笑みを向けてきた彼女。
(きっと、あの人のことを紹介されるんだ)
悪い想像ばかりが膨らむ。
「実は結婚することになりました」とか。
「彼女と同棲することになったので、もう頼れません」とか。
あるいは、「引っ越します」という報告かもしれない。
どちらにせよ、私と佐伯さんの、この曖昧で心地よかった関係は、もう終わりなんだ。
「……行きたくないなぁ」
本音が漏れる。
行って、決定的な言葉を聞いてしまったら、私は笑っていられるだろうか。
「おめでとうございます」って、ちゃんと言えるだろうか。
その場で泣き崩れて、佐伯さんを困らせてしまわないだろうか。
いっそ、「都合が悪いです」と断ってしまおうか。
そうすれば、傷つかずに済む。
フェードアウトして、ただの他人行儀な隣人に戻ればいい。
指先が『ごめんなさい』と打ち込みかける。
でも。
「……だめ、だよね」
私は首を振った。
佐伯さんは、私にとっても恩人だ。
自信をなくしていた私に、「救われた」と言ってくれた人。
陽菜ちゃんと公園にいる姿を見て、何度も救われた。
私の作った料理を、美味しそうに食べてくれた。
私のことを、必要としてくれた人。
スーパーで…………夫婦だと言われた。
そんな人が、誠意を持って「伝えたいことがある」と言ってくれている。
逃げちゃダメだ。
たとえそれが、どんなに残酷な報告だったとしても。
ちゃんと会って、目を見て、話を聞くべきだ。
それが、私の精一杯の誠意であり……そして、この淡い恋心への、けじめなのだと思う。
この片想いは……終わらせよう。
私は深呼吸をして、震える指で文字を削除した。
そして、新しい言葉を紡ぐ。
『分かりました。喜んでお受けします。楽しみにしています』
送信ボタンを押す。
シュッという音と共に、私の覚悟が飛んでいった。
「……はぁ」
スマホを伏せ、天井を見上げる。
涙が、一筋だけこぼれた。
週末が来なければいいのに。
そんな子供じみた願いを、夜の静寂が吸い込んでいった。
◇◆◇
一方、2102号室。
ピロン、と通知音が鳴った。
「うおー! 来た! 来たぞ玲奈!!」
「うっさいな。通知音でわかるわ」
俺はバネ仕掛けのようにソファから飛び起き、スマホに飛びついた。
画面を確認する。
小日向さんからの返信だ。
『分かりました。喜んでお受けします。楽しみにしています』
「よっしゃあああああ!!」
俺は思わずガッツポーズをした。
断られなかった!
「二度と顔も見たくないです」とか言われたらどうしようかと、生きた心地がしなかった。
「よかった……本当によかった……」
へなへなとソファに崩れ落ちる俺を見て、向かいで陽菜の爪を切っていた玲奈が、呆れたような目を向けた。
「お兄ちゃん、うるさいから。陽菜ちゃんビックリしちゃうじゃん」
「あ、悪い。でも見てくれ、玲奈! OKだ! 『喜んで』だってさ!」
俺はスマホの画面を玲奈に見せつけた。
玲奈は爪切りを置き、画面を覗き込む。
そして、ふぅーっと長く息を吐いた。
「……お兄ちゃんさぁ。この文面の裏にある、小日向さんの悲壮な決意が見えないの?」
「は? 悲壮? どこがだよ。『楽しみにしています』って書いてあるぞ」
「それが建前だって言ってんの。見てよ、この絵文字の一つもないシンプルな文面。普段の小日向さんのLINEはもっと柔らかい感じでしょ?」
「まあ、確かにウサギのスタンプとかは多いけど……。改まった場だから、丁寧にしてくれたんじゃないか?」
「ポジティブだねぇ……。いや、ただのバカか」
玲奈は頭を抱えた。
「いい? 小日向さんは今、『ああ、ついに別れ話をされるんだ』とか『彼女の紹介をされるんだ』って思って、死刑台に向かう囚人みたいな気持ちでOKしたのよ、きっと」
「し、死刑台って……大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ! 好きな男から『伝えたいことがある』なんて言われて、その直前に女の影を見てるんだよ? 悪い予感しかしないって」
玲奈の言葉に、俺は背筋が寒くなった。
そうか。
俺は「挽回できる!」と喜んでいるけれど、小日向さんにとっては「トドメを刺される日」だと思われているのか。
「……じゃあ、どうすれば」
「だから、当日が勝負だって言ってんの。今は耐えてもらうしかない。でも、会った瞬間から、全力で安心させてあげなきゃダメ」
玲奈は人差し指を立てた。
「まず、服装。気合い入れすぎてキメキメで行くと『結婚報告か!?』って警戒されるし、ラフすぎると『舐めてんのか』ってなる。清潔感があって、でも親しみやすい感じで」
「なるほど。ジャケットにチノパンくらいか」
「うん、それが無難。あと、まずは小日向さんの目を見て、誠心誠意謝ること。言い訳はしない。事実だけを伝える。いいね?」
「分かった。……お前、本当に頼りになるな」
「私のためでもあるからね。……てか、元は私のせいっぽいし……。いや、言わなかったお兄ちゃんが一番の罪人か。まあ、とにかくさ、私……気に入ってるんだよね、小日向さんのこと」
「まともに話したこともないのに?」
「まず、お兄ちゃんみたいな子持ちのおっさんとこんなに親しくしてくれてる時点で、良い人確定だし。それに、陽菜ちゃんが懐くんだもん。優しい人に決まってる」
「……だな」
「私の紹介は、また後日頼むね!」
玲奈はニカっと笑った。
「ま、とりあえず第一関門は突破したってことで。あとは週末に向けて、男を磨いときなよ。肌カサカサだと幻滅されるから、今日はパックして寝な」
「パ、パック!?」
「私の貸してあげるから。陽菜ちゃん、パパお顔白くなるってよー。怖いねー」
「あーうー」
陽菜がキャッキャと笑う。
俺は苦笑いしながらも、胸の中で拳を握りしめた。
絶対に、この誤解を解く。
そして、小日向さんの笑顔を取り戻すんだ。




