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線香の香りが、鼻腔にまとわりついて離れない。
斎場は、重苦しい沈黙に包まれていた。
祭壇の中央で、姉は写真の中で困ったように微笑んでいる。
交通事故だった。
信号無視の車が、横断歩道に突っ込んでくるその一瞬。
姉はとっさの判断でベビーカーを突き飛ばし、自らの体を盾にしたらしい。
奇跡的に無傷で残された赤ん坊――陽菜は、葬儀の間も何も知らず、親族の腕の中で眠っていた。
姉の夫、義兄さんは、1年前に癌で他界している。
陽菜が生まれる数ヶ月前のことだった。
たった一年で、両親を失った姪。
通夜振る舞いの席、重苦しい沈黙の中で、誰かが口火を切った。
「……それで、陽菜ちゃんのことなんだが」
親族たちの視線が、宙を彷徨う。
議題は一つ。
『誰が陽菜を引き取るか』だ。
俺の両親は健在だが、父は数年前に脳梗塞で倒れ、母がその介護をしている状態だ。
今回の娘の死に、母はショックで寝込んでしまい、葬儀にも出るのがやっとだった。
義兄さんの両親もまた、高齢で持病を抱えており、育児ができる状態ではない。
もう一人のきょうだいである妹の玲奈は、大学生で、海外留学中だ。
しかも向こうで体調を崩して入院中らしく、急な帰国はドクターストップがかかっている。
あいつは姉ちゃんのことが大好きだったから、訃報を聞いて錯乱し、過呼吸を起こしたと聞いた。
「……お祖父ちゃんとお祖母ちゃんじゃ、現実的に無理だわ。介護と育児なんて、共倒れになってしまう」
「かといって、俺たちも……」
叔父や叔母たちは、皆一様に顔を曇らせた。
誰もが、陽菜の将来を案じてはいる。
決して冷たい人たちではない。
ただ、それぞれの家庭に事情があり、生活がある。
突然降ってわいた「赤ん坊の育児」という責任を負える余裕のある人間が、ここには誰もいなかった。
「……施設に、預けるしかないんじゃないか」
誰かがポツリと言った。
その言葉が、澱んだ空気の中に重く沈殿していく。
施設。
乳児院。
『この子はね、あの人が残してくれた宝物だから』
生前、お腹をさすりながら幸せそうに笑っていた姉の顔が、脳裏をよぎった。
『優真。あんた、将来おじさんになるんだからね。仕事ばっかりしてないで、たまには遊んでやってよね』
そう言って悪戯っぽく笑った姉ちゃんは、もういない。
最期の瞬間まで、自分の命を投げ出して守ろうとしたこの子を。
義兄さんが、会えるのを楽しみにしながら逝ったこの子を。
孤独な場所にやるのか?
大人の事情だけで、たらい回しにするのか?
――こんなに、小さくて可愛くて、真っ先に守らなきゃいけない存在を?
大の大人がこんなに揃って、出す結論がそれか。
俺の中で、何かが弾けた。
「……誰も引き取る気がないなら、俺が引き取りますよ」
静まり返った部屋に、俺の声が響いた。
叔父が驚いたように顔を上げる。
「優真くん? 何を言ってるんだ。君に赤ん坊が育てられるわけがないだろう。君は独身だし、会社は激務で有名じゃないか」
「時間は作ります。……金もあります」
俺は言い切った。
俺、佐伯優真は、外資系のコンサルティングファームに勤めている。
32歳、独身。
年収は同年代の数倍はあるし、資産運用も順調だ。
住まいは都心の一等地にあるタワーマンション。
仕事での俺は常に冷静沈着で、どんな難題もロジカルに解決してきた。
「姉ちゃんの宝物を手放すなんて、俺にはできません。両親にこれ以上の負担はかけられませんし、俺が引き取るのが最も合理的です」
姉ちゃんが命がけで繋いだ命のバトンを、ここで落とすわけにはいかない。
俺は今まで、どんな難題もクリアしてきた。
赤ん坊一人、育てられないわけがない。
効率的にリソースを配分し、最適な環境を整えればいい。
育児なんて、マネジメントが必要なプロジェクトの一つに過ぎないはずだ。
俺が、陽菜を不自由なく幸せに育て上げてみせる。
「……本気なのか?」
「本気です」
親族たちは困惑しながらも、俺の剣幕に押され、最後には安堵の息を漏らした。
◇◆◇
翌日。
俺はオフィスの最上階にある役員の部屋にいた。
窓の外には東京のビル群が広がっている。
俺はこの景色が好きだった。自分の成功を可視化してくれているようで。
「……なるほど。事情は分かった。大変だったな」
アメリカ人のボスは、淹れたてのコーヒーを啜りながら眉を寄せた。
「だが、君は現在、重要なプロジェクトのリーダーだ。クライアントは君のロジカルな提案を信頼している。今抜けるのは、キャリアにとって大きな損失だぞ」
「承知しています。ですが、どうしても譲れないんです」
俺はデスクの上に、一枚の書類を提出した。
育児休業申出書。
通常、この激務の業界で、男性が、それも昨日まで独身だった男がこれを出すのは異例中の異例だ。
というより、有り得ないし、今後も二度とないだろう。
だが、今の俺に迷いはなかった。
「法的な権利を行使します。……と言いたいところですが、今の精神状態でまともなパフォーマンスが出せるとも思えません」
姉を失った喪失感は、想像以上に大きかった。
PCの画面を見ても、数字が頭に入ってこない。
このまま仕事を続けても、ミスを犯して評判を落とすだけだ。
「当面の間、休職させてください。期間は未定です。もし席がなくなるなら、退職でも構いません」
ボスは目を丸くした。
俺が「仕事命」の人間だと知っているからだろう。
「……そこまで言うなら止めない。君ほどの優秀な人材を失うのは惜しいからな。まずは長期休暇という扱いにしよう。クライアントへの引き継ぎだけは完璧にな」
「ありがとうございます。引き継ぎ資料は、既に作成済みです。後ほどメールで共有を」
俺は一礼して部屋を出た。
廊下を歩きながら、ネクタイを少し緩める。
これで、時間はできた。
金銭面も問題ない。
ここ数年、使う暇もなく貯まり続けた預金と、株の配当がある。
向こう数年、働かなくても陽菜と二人で生きていくには十分な額だ。
「よし……」
俺はスマホを取り出し、ToDoリストアプリを起動した。
新規プロジェクト作成。
『陽菜幸せ計画』。
「まずは環境構築だ。最高スペックの育児用品を揃える」
俺は足早にオフィスを後にした。
その足で向かったのは、高級百貨店のベビー用品売り場だった。
海外製の高機能ベビーカー。
最高級オーガニックコットンの肌着。
AI搭載のベビーモニター。
そして、厚さ5センチはある育児専門書を3冊。
店員に勧められるがままに、俺は「最高のもの」を買い漁った。
『お父様、熱心でいらっしゃいますね』
店員の言葉に、俺は薄く笑って答えた。
『ええ。完璧に育てると決めたので』
そう。
全ては計算通りだ。
優れたツールと、正しい知識、そして潤沢な資金があれば、育児など恐るるに足らない。
泣いたらミルク、濡れたらオムツ、眠くなったらベッド。
そのサイクルを管理すればいいだけだ。
……そう。
この時の俺は、本気でそう思っていたんだ。
赤ん坊という生き物が、ロジックの対極にいる『怪獣』だとも知らずに。




