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【完結・連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?  作者: 文月ナオ


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 線香の香りが、鼻腔にまとわりついて離れない。


 斎場は、重苦しい沈黙に包まれていた。


 祭壇の中央で、姉は写真の中で困ったように微笑んでいる。


 交通事故だった。


 信号無視の車が、横断歩道に突っ込んでくるその一瞬。


 姉はとっさの判断でベビーカーを突き飛ばし、自らの体を盾にしたらしい。


 奇跡的に無傷で残された赤ん坊――陽菜(ひな)は、葬儀の間も何も知らず、親族の腕の中で眠っていた。


 姉の夫、義兄さんは、1年前に癌で他界している。


 陽菜が生まれる数ヶ月前のことだった。


 たった一年で、両親を失った姪。


 通夜振る舞いの席、重苦しい沈黙の中で、誰かが口火を切った。


「……それで、陽菜ちゃんのことなんだが」


 親族たちの視線が、宙を彷徨う。


 議題は一つ。


 『誰が陽菜を引き取るか』だ。


 俺の両親は健在だが、父は数年前に脳梗塞で倒れ、母がその介護をしている状態だ。


 今回の娘の死に、母はショックで寝込んでしまい、葬儀にも出るのがやっとだった。


 義兄さんの両親もまた、高齢で持病を抱えており、育児ができる状態ではない。


 もう一人のきょうだいである妹の玲奈(れいな)は、大学生で、海外留学中だ。


 しかも向こうで体調を崩して入院中らしく、急な帰国はドクターストップがかかっている。


 あいつは姉ちゃんのことが大好きだったから、訃報を聞いて錯乱し、過呼吸を起こしたと聞いた。


「……お祖父ちゃんとお祖母ちゃんじゃ、現実的に無理だわ。介護と育児なんて、共倒れになってしまう」


「かといって、俺たちも……」


 叔父や叔母たちは、皆一様に顔を曇らせた。


 誰もが、陽菜の将来を案じてはいる。


 決して冷たい人たちではない。


 ただ、それぞれの家庭に事情があり、生活がある。


 突然降ってわいた「赤ん坊の育児」という責任を負える余裕のある人間が、ここには誰もいなかった。


「……施設に、預けるしかないんじゃないか」


 誰かがポツリと言った。


 その言葉が、澱んだ空気の中に重く沈殿していく。


 施設。


 乳児院。


『この子はね、あの人が残してくれた宝物だから』


 生前、お腹をさすりながら幸せそうに笑っていた姉の顔が、脳裏をよぎった。


『優真。あんた、将来おじさんになるんだからね。仕事ばっかりしてないで、たまには遊んでやってよね』


 そう言って悪戯っぽく笑った姉ちゃんは、もういない。


 最期の瞬間まで、自分の命を投げ出して守ろうとしたこの子を。


 義兄さんが、会えるのを楽しみにしながら逝ったこの子を。


 孤独な場所にやるのか?


 大人の事情だけで、たらい回しにするのか?


 ――こんなに、小さくて可愛くて、真っ先に守らなきゃいけない存在を?


 大の大人がこんなに揃って、出す結論がそれか。


 俺の中で、何かが弾けた。


「……誰も引き取る気がないなら、俺が引き取りますよ」


 静まり返った部屋に、俺の声が響いた。


 叔父が驚いたように顔を上げる。


「優真くん? 何を言ってるんだ。君に赤ん坊が育てられるわけがないだろう。君は独身だし、会社は激務で有名じゃないか」


「時間は作ります。……金もあります」


 俺は言い切った。


 俺、佐伯優真(さえきゆうま)は、外資系のコンサルティングファームに勤めている。


 32歳、独身。


 年収は同年代の数倍はあるし、資産運用も順調だ。


 住まいは都心の一等地にあるタワーマンション。


 仕事での俺は常に冷静沈着で、どんな難題もロジカルに解決してきた。


「姉ちゃんの宝物を手放すなんて、俺にはできません。両親にこれ以上の負担はかけられませんし、俺が引き取るのが最も合理的です」


 姉ちゃんが命がけで繋いだ命のバトンを、ここで落とすわけにはいかない。


 俺は今まで、どんな難題もクリアしてきた。


 赤ん坊一人、育てられないわけがない。


 効率的にリソースを配分し、最適な環境を整えればいい。


 育児なんて、マネジメントが必要なプロジェクトの一つに過ぎないはずだ。


 俺が、陽菜を不自由なく幸せに育て上げてみせる。


「……本気なのか?」


「本気です」


 親族たちは困惑しながらも、俺の剣幕に押され、最後には安堵の息を漏らした。




 ◇◆◇




 翌日。


 俺はオフィスの最上階にある役員の部屋にいた。


 窓の外には東京のビル群が広がっている。


 俺はこの景色が好きだった。自分の成功を可視化してくれているようで。


「……なるほど。事情は分かった。大変だったな」


 アメリカ人のボスは、淹れたてのコーヒーを啜りながら眉を寄せた。


「だが、君は現在、重要なプロジェクトのリーダーだ。クライアントは君のロジカルな提案を信頼している。今抜けるのは、キャリアにとって大きな損失だぞ」


「承知しています。ですが、どうしても譲れないんです」


 俺はデスクの上に、一枚の書類を提出した。


 育児休業申出書。


 通常、この激務の業界で、男性が、それも昨日まで独身だった男がこれを出すのは異例中の異例だ。


 というより、有り得ないし、今後も二度とないだろう。


 だが、今の俺に迷いはなかった。


「法的な権利を行使します。……と言いたいところですが、今の精神状態でまともなパフォーマンスが出せるとも思えません」


 姉を失った喪失感は、想像以上に大きかった。


 PCの画面を見ても、数字が頭に入ってこない。


 このまま仕事を続けても、ミスを犯して評判を落とすだけだ。


「当面の間、休職させてください。期間は未定です。もし席がなくなるなら、退職でも構いません」


 ボスは目を丸くした。


 俺が「仕事命」の人間だと知っているからだろう。


「……そこまで言うなら止めない。君ほどの優秀な人材を失うのは惜しいからな。まずは長期休暇という扱いにしよう。クライアントへの引き継ぎだけは完璧にな」


「ありがとうございます。引き継ぎ資料は、既に作成済みです。後ほどメールで共有を」


 俺は一礼して部屋を出た。


 廊下を歩きながら、ネクタイを少し緩める。


 これで、時間はできた。


 金銭面も問題ない。


 ここ数年、使う暇もなく貯まり続けた預金と、株の配当がある。


 向こう数年、働かなくても陽菜と二人で生きていくには十分な額だ。


「よし……」


 俺はスマホを取り出し、ToDoリストアプリを起動した。


 新規プロジェクト作成。


『陽菜幸せ計画』。


「まずは環境構築だ。最高スペックの育児用品を揃える」


 俺は足早にオフィスを後にした。


 その足で向かったのは、高級百貨店のベビー用品売り場だった。


 海外製の高機能ベビーカー。


 最高級オーガニックコットンの肌着。


 AI搭載のベビーモニター。


 そして、厚さ5センチはある育児専門書を3冊。


 店員に勧められるがままに、俺は「最高のもの」を買い漁った。


『お父様、熱心でいらっしゃいますね』


 店員の言葉に、俺は薄く笑って答えた。


『ええ。完璧に育てると決めたので』


 そう。


 全ては計算通りだ。


 優れたツールと、正しい知識、そして潤沢な資金があれば、育児など恐るるに足らない。


 泣いたらミルク、濡れたらオムツ、眠くなったらベッド。


 そのサイクルを管理すればいいだけだ。


 ……そう。


 この時の俺は、本気でそう思っていたんだ。


 赤ん坊という生き物が、ロジックの対極にいる『怪獣』だとも知らずに。

 

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