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不快

 理子から貰ったパーカーのフードを深く被る。誰にも見られないように。

 今の私たちにとって誰かに見つかることはきっと、まるで致命傷のように、深くに何かを残す結果となる。

『私たち、きっと大丈夫だよね』

 握られた手は、そんな私の言葉に応えてくれているような気がした。

 もうきっと、このままどこへ行っても私たちは二人きりだ。何も縛るものなんてなく、自由で。

「逃げましょう、詩乃」

 私たちの知らない何かから逃げること。それだけが、今の私たちの目指す先だった。


 ドアが開けば、そこからはいつかの日に浴びたような、そんな風が流れ込んでくる。普段の街の喧騒とはまた違った、緑の自然が呼んでいるようだ。

 私たち以外に、この駅に降り立つ人はほとんどいない。日常とは少し離れた緑に用のある人くらいしか降りない駅だから、それはいくら考えても自然なことであった。ただ二人、私たちを除いて。

 このまま街の中を進んでいても、いずれ見つかってしまう。その考えは、私も理子も同じだった。だからこうして、人の寄り付かないような場所を選んだのだ。

 誰もいない、二人になれる場所。確かに理子はそう言った。そんな場所はあるのかと、私は他の誰でもない私自身に問う。木々の間をすり抜けて日の差す葉の隙間を見上げながら、それでも信じられずにいた。

 そんな場所はない。薄々気付いてはいた。どこに行っても、他の人間の来る場所だ。私たちの辿り着く場所なのだから。じゃあどうすればいいのかと、私は続けて答えることができない。きっと、このまま理子に着いていくしかないのだ。

 木々に囲まれた、それでも形作られた道を一歩ずつ踏みしめながら歩いていく。こんな場所を歩いていても、結局二人きりにはなれないのかな。そんな事を考えながら必死に後に続く。理子がこの手を離さない限り続くのだろうか。

 きっと私は、どこかでとっくに諦めていたのかもしれない。それを今になって謝ろうとしても、当の私に言葉は紡げなかった。


 遅れをとった私の位置が彼女の足枷になるよりも強く、少し力を入れてその手を引っ張った。無心で歩いていた理子はやがてそのことに気付いたのか、足を止めてこちらを振り返る。

「どうかしましたか?詩乃」

 振り返ったその顔は、いつもと変わらない理子だった。でもどこかに薄っすらと焦りを感じているのかもしれない。

『やっぱり帰ろう』

 そう書いて、その意思を静かに伝えようとした。はずだった。

「ぁ……」

 いつもみたいに微笑みかける理子。その目線に吸い寄せられる。何も見ていないようで、私を見つめるその目の奥に。

 そこには、私の姿が映っていた。全てを失った私が。必死に理子に縋りつく、私の姿が。

「……?」

 彼女は変わらず私を見つめる。手は繋がれたまま、ほんの少し時が止まったように感じた。

 そうだ。先に二人きりになろうとしたのは私だ。何を今更、戻りたいなんて言い出したんだろう。ようやく、少し前の自分がおかしいと感じてきた。

 そう、覚悟ならとっくにできている。だからこうして理子に着いてきたのだ。

「……少し、疲れてしまいましたかね」

 木陰に目を落とす。

「休憩、しましょうか」

 私は頷いて、その陰へと入っていった。きっと、今のままなら二人きりになれる。

「大丈夫ですよ、詩乃」

 

 うん、きっと大丈夫だよね。


 返せないけど、どこかにそんな言葉があった。

 座り込んだ私は、知らぬ間に疲れてしまっていたのか、意識を遠く感じていた。

 ――

 ずっと見張っていた。ずっと、二人を見ていた。そして今、ようやく私はおかしいことに気が付いた。あるいは、どちらかがおかしいのか。どちらにせよ、今こうして後を着けている以上何が起きているのかを確かめなければいけなかった。

 今朝、理子の家に警察が入ったっきり出てこなかった。あれもきっと、あの女が関わっているに違いない。

 二人に気付かれないよう、足音すら立てずにその軌跡を追う。薄暗い森の中に入っても、その足が止まることはなかった。

 一体二人は何処へ向かっているのだろう。あの詩乃とかいう女は、理子に何をする気なのだろうと、それだけを考える。ただ理子を取り戻したいと、それだけで。


 不意に、詩乃が足を止める。それに続いて理子も足を止め、後ろへ振り返った。

「ぁっ」

 間一髪、見つかる前に木々の中に姿を隠すことができた。少しの音は立ててしまったが、きっと気付かれはしないだろう。

 息を潜めて、生い茂る草の隙間から二人を見つめていた。理子の口が動いて、何かを話しているのは見える。肝心の話の内容は、自然の音に遮られてよく聞こえなかった。

 そして、詩乃が座り込む。疲れているようで、そのまま眠りについてしまった。続けて理子も座り込む。詩乃を見つめては、何かを言いたげに手を握っていた。


 やめて、

 その顔を、あの女に向けないで。


 何か真っ黒なものが胸の中で渦巻いているのを感じた。浅い息で、なんとか衝動を抑え込む。

 そうだ。きっと私は、あの女が殺したいほど憎い。今すぐにでも消し去りたい、理子から遠ざけたい。


 「ほら、立てますか?雪」


 あの言葉は、あの手は。


 「ですから、一緒に帰りましょう」


 あの目は、私のものなのに。私の友達なのに。

 やがてそのまま眠りに落ちる理子の顔を見つめながら、そんな少し前のことを走馬灯のように巡らせていた。

 落ち着いて、色雪。今ここで壊してしまったら、理子に嫌われてしまう。私が、私でなくなってしまう。

「そう、そうだよ」

 歯を強く食いしばる。軋む歯の隙間から、嫌な音が漏れ出た。


「詩乃、そろそろいきましょうか」

 あれから一時間と少し。ようやく目を覚ました二人は、再び立ち上がり目の前を道を進んでいた。

 当然私もそれに着いていく。まだ情報が足りない。あの詩乃とかいう女を理子から遠ざけるのは、目的がわかった後で。彼女が何をしようとしているのかがわかってから。

 そう自分に言い聞かせながら、少しずつ深呼吸をして心を落ち着かせる。

 がさがさ、と、落ち葉を踏みしめる二人の足音だけが響く。私はそこに、どことなく恐怖を感じていた。それは、詩乃に対してではなかった。何故か、理子にそんな考えを抱いてしまった。

 何を言っているんだろう、と詩乃から目を逸らしてみる。すぐ隣に並ぶ理子の手は、詩乃の手を強く握っていた。その光景自体は、ずっと前から見ていた。それなのに、今更になって気付いてしまう。

 これじゃあまるで、理子が詩乃を連れているようじゃないか。

 尚のこと意味が分からない。どうして、理子がそんなことをしなければならないのか。

 心がざわつく。それに呼応するように、辺りは少しずつ暗くなっていった。

 そうして歩いていくうちに、目の前は開けて小さな町に出た。圏外から解放されたスマホの地図を覗くと、今の私の位置情報は山をひとつ越えて知らない町にいる。地図を拡大しないとわからないような、小さな町。

 その明かりとの境界の前で、二人は再び立ち止まった。咄嗟に私も木陰に身を隠す。

 町に入るのに警戒するのは当然だ。二人のことが、この町まで伝わっているかもしれないのだから。迂闊に歩き回れば、誰かに見つかって連れ戻されてしまう。いままで深い緑の中を抜けてきたのは、そうならないようにするためだったのだろう。

「詩乃」

 理子が口を開く。今度こそ聞き逃さぬよう、二人の会話に耳を澄ませた。

「何か食べるものを買ってくるので、ここで待っていてください」

 一人になれば見つからずに動き回れる。だからあの女を切り離すのは当然の判断だ。なら、私は。

「今しかない」

 殺すなり、攫うなり。全部吐き出させるなり、何でもできる。近くのコンビニへの距離を見る。現在地から徒歩で十五分以上。十分な時間がある。

 やるなら今しかないと、背を向けた理子が小さくなっていくのを待った。

 ――

 まだ、見てる。

 ――

 十秒、十五秒。時間を数えてみる。時が去れば、もうその時は来る。

 絶対に全部吐かせて、引き離して。理子を、私の傍に、

「ん」


 不意に、すぐそこで声が聞こえた。聞き逃すはずもない。きっとそれは、私に向けられたものだったから。

 気付いたときには、もう遅かった。

『誰?』

 そう書かれた紙を見せびらかすように持った詩乃が、すぐそこでこちらを見ていた。

「は……は……?」

 蛇に睨まれた蛙のように、まるで金縛りにあったかのように。動けない。体が、動こうとしてくれない。

「…い、…いつから気付いて」

 彼女はすぐにペンで文字を書き、また私に見せてきた。

『最初から。ずーっと知ってたよ』

 虚無を見つめるようなその目がたまらなく気色悪かった。もう、抑えきれることができなかった。

「……な、なんなんだよお前!理子に近づいて、こんなことして!お前は!理子のなんなんだよ!」


『質問に答えて』

「うるさい!お前、なんなんだよ!」

『私は理子の友達。あなたは?』

「お前みたいなやつが理子の友達でいいわけないだろ!ふざけんな!」


「ん」

 彼女はポケットに手を突っ込み、こちらに向かってくる。逃げようにも、その禍々しい片目に吸い込まれるように、その場を離れる事ができなかった。

 次の瞬間、押し倒された私の目の前にカッターの刃が突きつけられる。灰色の先端が、薄く光を反射しているのが嫌というほど網膜に入り込んできた。

「ひっ」

『誰?』

 再びその紙を見せてくる。ぐっと距離が近くなり、刃がだんだんと近付いてきていた。

「……わ、私は、理子の、中学の頃の友達」

 ようやく絞り出した細い声で、必死に訴える。

 その瞬間、刃はゆっくりと私から遠ざかっていった。

「はぁ……は、ぁっ……」

 知らぬ間に溢れていた涙と、嫌な汗と鼻水で顔が塗れる。股が熱くて、嫌な感触を覚えた。

 感じたことのない恐怖に、私はただ、そこにいる彼女を見つめることしかできない。このままどれだけの時が過ぎるのだろうと、それしか考えることができなかった。

「ぅっ!?ぐぅぅっ、」

 その瞬間、腹部に鋭い痛みが走った。顔を上げてみれば、そこにはカッターの刃が刺さっているのが見えた。彼女の手によって握られた持ち手の部分は、次第に私の身体へと近付いてくる。

 痛い。痛い。


「な、んで、やめて……っ、」

 痛みで前すら見えなくなる中、刃を私の身体に突き刺したまま紙にまた何かを書く彼女の姿が見えた。

『理子は、私のものだから』

 よく見えないはずなのに、その文字だけ鮮明に映る。

 嫌だ、私は、理子の友達なのに。

 ――

「ね、雪」

 風に靡くその真っ黒な紙を眺めていた。ふとした瞬間に消えてしまいそうなその声と、綺麗な顔が私の目に映る。

「離れていても、友達ですからね」

「……うん。ふふ」

 うれしいような、でもどこかくさいセリフに、少しだけ笑ってしまった。

「え?どうして笑うんですか?」

 きょとんとした顔で、理子は私の顔を見つめる。

「え、だって……」

 離れていても、私たちは友達。

 ……うん、そうだよね。理子が言うんだから、きっとそう。

 私は、理子の友達だった。

 ――

 そんな記憶の続きを回想していた。まるで永遠にも感じられるような時の中で、私は最後に理子の顔を見た。

 もう一度、貴女に会えたら、


 ――


 ぐっ、と力を込めた。初めてじゃない、肉を裂く感触。不快だった。理子のものじゃないから。

 最初から気付いていた。誰かが後を着けてきていること。私たちの会話に、聞き耳を立てている人がいること。

 理子の友達だか誰だか知らないけど、今の私たちにとって邪魔な人は一人でも消さなきゃいけなかった。だからあのときだって、理子はあの人たちを殺した。

 うん、間違ってない。私はやるべきことをした。

 動かなくなったその身体から漏れ出る鮮血は、次第に地面を赫く染めていった。

 あとはここで、理子を待つだけ。

 深く差し込んでいたカッターを抜き取って、ティッシュでよく拭いた。そして、刃を収めて再びポケットの中へ入れる。

 むせ返るような金属の臭いも全部、理子のものじゃないから心地が悪かった。


 死体を引きずって、なるべく森の奥深くへ進む。誰にも見つからないところがいい。進みながら腕時計を見た。もうすぐ三十分。そろそろ理子が戻ってくる。もうこれくらいでいいか。

 そうして私は、少女の身体を投げ捨てた。


 早く、戻らないと。

ちなみにもう死んだので出てくることはありませんが、色雪の名前の読み方は「いっしき ゆき」です。

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