失踪
今日も何事もなく学校を終える。たまたま部活のない日、いつもよりも少し早い時間のいつもの道を一人で歩いていた。なんとなく浮き足立ってみたりする。少し遠回りでもしてみようなんて、子供みたいにいつもの道を外れてみたりした。
いつも右に曲がる十字路を左へ。その後も続けて、目的地から逆方向に遠ざかる。目的地もなく漂っては、どうしてか何処かへ向かうこの脚が不思議でたまらなかった。
そうして気付けば、見えない向こう側を映すカーブミラーを見上げていた。あの頃見ていた、夕焼けの景色。
「あ」
今になって思い出した。ここは、前に通っていた中学校の近く。そして、私の友人であった巫理子が通っている高校の近くだ。
「ほら、立てますか?雪」
なんて、ほんの昔にかけられた言葉を思い出す。懐かしいな。そんな言葉に、私はいつも彼女の手を探していた。
思い返してみれば、私は彼女の事が好きだった。もちろん、友達として。
離れたくはなかったけど、ある程度は仕方ないと思っていた。中学に入って初めてできた友達、いつでも私のそばにいてくれた、私の友達。
「理子……」
久しぶりに会いたいな、なんて言葉を漏らしてみる。今なら、会えるかな。
スマホを取り出し、メッセージアプリを開く。もうすっかり使わなくなってしまった、彼女とのトーク画面を開いた。
『久しぶり。元気?』
既読が付かない四ヶ月前のメッセージ。もう私のこと忘れちゃったのかな。
忘れたらそれまで。結局人とはそういう生き物なのだ。忘れて、また出会って。そうやって廻っていく。だから、なにも不自然なことじゃない。
なにも、不思議ではないけれど。
「急に会いに行ったら、驚いちゃうかな」
当の私はそんな事なんて気にもせず、心躍らせながら太陽の影で理子を待っていた。きっとここを通るだろうと、そう信じて。
『今から会える?』
テキストボックスの中に書かれたそんな言葉を一文字ずつ消した。
――
「ほら、詩乃。行きますよ」
「ん」
言葉を失った私は、今もこうして理子の隣にいる。不自然だとは、思わなかった。今の私にとって、理子はこの世界の全てなのだから。
いつになく力を失った右目で理子を見る。
あ、笑ってくれた。隣に居られて幸せだなあ、と思わず言葉を溢しそうになりさえする。
結局、家では母親と一度も口を聞けなかった。というか私が話せないだけだが。
「ごはんできたよー」
そんな言葉に、
「んー!」
そう返すだけ。いざ食べ物を口へ運んでも、不自由に阻まれ上手く食べる事ができない。それでもなんとか出されたものは食べ切る。
バレてはいけなかった。バレるわけにはいけなかった。
目の事だって、
「目が痛くて病院に行って、暫くこれ付けててねって言われた」
と、そういうことにしている。
もし、母さんに今の私の身体の状態を知られてしまったら。まず心配される。そして、学校に連絡が行く。私と理子の関係がバレて、この時間も終わってしまうだろう。そんなこと、絶対にあってはいけない。
この手は、離したくない。そう思って、私を引く真っ白な手を握りしめた。
「……?詩乃、どうかしたんですか?」
「ん……」
首を横に振る。この不安は、きっと理子には伝えないほうがいい。そもそも話せないから伝えることもできないけど。
「詩乃は、可愛いですね」
とにかく、今の私はただ理子のそばにいたかった。手を引かれるまま、着いていくように。今の私を導いてくれる、たった一人の存在。私は、彼女が好き。
もう一度その手を握りしめて、夕焼けの下を歩いていた。
――
「詩乃は、可愛いですね」
そんな声が聞こえた。それは確かに、理子の声だった。
理子だ。そう思ってすぐに話しかけようとした。私が犬なら、きっと今は尻尾を振り回しているに違いない。
一歩進んで、塀の向こうを見る。
「ぁっ」
そこには理子ともう一人、少女がいた。理子より少し、背の低い。左眼を眼帯で覆った少女。まず最初に入るのは、そのインパクトだ。
しかしその次に目に入ったものを、どうも私は受け入れ難かった。そこにある繋がれた手が、私の胸の手前で堰き止められた。
「理子は、私の友達だったのにな」
そんな言葉も微かにあった。
きっと、こういうこともある。仕方のないことなのだ。そうして私は口を噤む。邪魔しちゃいけないなんて、今まで一度も思ったことなかったのに。前からの友達なら、今の理子に話しかけることもできたはずなのに。まるで見えない壁に阻まれるように、近付くことができない。
「違う」
私は、思考よりも先に違和感を何処かに覚えた。
「……?」
頭ではわかっている。目の前にいるのは理子、巫理子。私の中学の頃の友達で、ずっとそばにいた、
「詩乃、大丈夫ですか?」
「ん」
少し強引に引っ張られるように少女の靴が地面を擦れる。その音が響くのを、カラスの鳴き声が遮った。
少しの寒気を感じて、私は理子への視線を切る。二人の声が過ぎ去って始めて、呼吸が許されたような感覚がした。
「……なんなの」
確かに、何か違和感があった。言葉にしようにも、何が何だかわからなくて言い表せない。強いて言うなら、何か……
ヴーッ
と、突然のスマホのバイブで私の思考は現実に引き戻される。
『帰りに牛乳と食パン買ってきてくれないかな』
映し出されたのは、母からのメッセージ。カジュアルなスタンプも添えられている。
「あー……」
いつものことだ。仕方がない。
二人の方へ向けていた足の先を、やがていつもの家への道へと向け直す。
「詩乃」
理子は確かに、そう言っていた。あの女の名前に間違いない。
「ふーん……」
そうして私は空っぽの頭のまま、再び歩き出した。違和感も全部、なかったことにして。
きっと理子も変わったんだと思った。高校に入って。
誰かと、あの女と出会って。
……そうだ。あの女のせいで。
――
「詩乃、やっぱり何かありますよね?」
俯いて歩く私が余程気になるのか、理子はまた私の顔を覗き込む。また首を横に振ろうとしたが、直前でやめた。きっともう何を言っても、理子にはお見通しなのだろう。私の頭の中など。
「……家、帰りにくいですよね。その状態なら」
うん、と少し頷いてみる。
「私とのこと、バレたら大変ですもんね」
やっぱり。全部わかってるんじゃん。そう言いたげに、何も言えない私は黙ってその顔を見つめた。
優しく微笑みかけるその顔に、夕焼けが映る。
「もう、帰らなくてもいいんじゃないですか?」
「えっ」
その瞬間、数羽のカラスが飛び立った。バサバサ、と不気味な音が鳴り響く。
「大丈夫。私のそばにいれば安心ですから」
どうしてか、その言葉通り、理子のそばにいれば全てがどうにでもなる気がした。
「っ……」
久々に、目の奥が痛む。何も見えないはずなのに、私はまだそこに理子の姿を求めてしまっている。
「ほら、着いてきてください」
そう、手を差し伸べられるままに。私はまた流されてしまう。
ガチャ、と扉が開く。すぐに私たちを出迎えるのは、妙に冷たい部屋の中の空気だけ。理子の家は今まで全く知らなかったが、かなり大きな家のようだ。
「両親は今海外に出張中でして。私一人なんです」
海外に出張、と聞いて少し身体が硬直する。理子の親がそこまでの人だったなんて知らなかった。
「あ」
声を漏らしたのち、私は理子の制服の裾を引っ張る。
「どうかしましたか?」
「ん、ん」
私はなんとかジェスチャーをする。
『何か書くものが欲しい』
そう言っているつもりで。直後、何かを察したかのように立ち上がった理子は、私の元へ紙とペンを持ってきた。気付いてくれてよかった。これでようやく、意思の疎通ができる。
それにしても、何か嗅ぎ慣れない匂いだ。これほど立派な家だ、何か私の知らないものでもあるのだろう。鉄の匂いにも似たそんな匂いに包まれながら、私は紙とペンを抱え理子の部屋へと向かった。
「これからはここに居てください。私から離れたくなければ」
すう、と息を吸い込む。視線を外した理子は、少しの間の後に続けた。
「……面倒なことになりたくなければ」
その瞬間に笑顔が消えた顔に、少し寒気を覚える。怖ささえ、どこか感じてしまう。
面倒にしたくないのは私だって同じだ。私の怪我がバレたら。理子との関係が誰かにバレたら。私たちは、今のままではいられなくなってしまう。理子のそばに居られなくなってしまう。そうなってしまったら、私は。
理子がいないと、生きられないのに。
「力、強いです」
「あっ」
無意識に強く握りしめていた理子の手を離す。でも彼女と離れたくなくてすぐにまた握り直した。
「……そうです。少しだけでも、このままで」
ベッドに沈み込む私は、やがて近づいてくるその顔を見つめた。やっぱり、綺麗だ。左目があれば、もっとちゃんと理子のことが見られるのにな。
そうやって、過ぎたことを何回も思い返してみる。目を瞑って、闇に飲まれる。
そうしている内に、唇にそっと何かが触れた。それが何かは分かっていた。でも私は敢えて、見ることをしなかった。
そうやって数十秒時が経つのを待った。特に意味もなく、私に覆い被さる理子の息の音を聞いている。次に目を開けたときには、虚ろな目で私を見つめる理子の姿だけがあった。
「あ……」
声を出した瞬間、いつもの柔らかな顔に戻る。
「……ごめんなさい」
そう言って、理子は私を置いて立ち上がった。
「何か、作ってきますね」
部屋を立ち去ろうとする理子の腕を掴む。振り向いたその顔に、私は紙にさっと書いた文字を見せた。
『私も行く』
「……いいですよ」
離れたくなくて、そんな我が儘を伝えた。こんな時間が続けばいい、なんて思っていた。
でも、そんなことがあるはずはなかった。
――
次の日、目が覚めた私の耳に飛び込んできたのは見知らぬ人の声。どうやら玄関の方で、理子と誰かが話しているようだ。
不意にポケットの中の感触が気になってスマホを取り出す。私の意思に応答して自動で点けられた画面には、大量の通知と着信履歴が残っていた。それもそうだ。何もなしに突然私が帰ってこなくなったのだ。お母さんはきっと心配している。でも。
顔を上げ、辺りを見渡す。妙に生活感のない、綺麗な空間。全部、私の日常ではなかった。
今更帰ったところで、私に言えることは何も無い。今の私の状態を見て、理解してくれる人は誰一人としていない。もう、戻れないのだ。引けないところまで来てしまったのだ。
やがて声の止んだ方から、理子が戻ってきた。
「おはようございます、詩乃」
その様子はいつもの理子だ。理子なのだが、どこか焦っているような、物憂げな感じがする。
『誰か来たの?』
「……っ」
理子は下を向いて黙ってしまう。一体、何が
「……警察、です」
「えっ」
警察が来た理由は、なんとなくわかっていた。
「思っていたよりも、動きが早い」
空気の震えが聞こえるほど、理子は強く息を吸い込んだ。
「逃げましょう、詩乃」
同時に握られた手は、いつもに増して冷たい。温度なんてとても感じられないほど。それなのに微かに熱を感じるのは、震えているせいだろうか。
「誰も居ない、二人になれる場所に」
最低限の荷物を持った理子は、私の手を握って強く引っ張る。私も結局、前みたいに理子に着いていくしかない。
冷たい空気を切り裂きながら玄関へと向かう。
その床には、血に塗れた警官姿の男性が二人倒れていた。
ああ、そうか。きっと理子は、あの二人も。
行方不明の、いや、前に理子が殺した男子の事を思い出す。あのときもこうやって、血溜まりが光を反射していた。
きっと理子は、私たちの邪魔をする人を殺してくれているんだ。そうだよね。そう聞きたくても、言葉を失った私に聞く術は無い。
それはまるで呪いのように。私たちを深くへ縛った。
そんな、音がした。




