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犬は泥水でも啜ればいい

 空から見下ろしていたときは美しい緑の大地でも、今は鬱蒼として深い影と熱と湿度を帯びた緑の地獄のようだ。


 記憶を頼りに河を捜すために歩き始めたが、足場が悪い。


 滑る岩や傾斜があるわけではない。


 深くまで積もった落ち葉の絨毯と、それに隠れ伸びた分厚い木の根だ。


 腐った葉に足が沈むし、シダと低木に覆われた視界と落ち葉に隠れた根に何度も躓くせいで、ただ歩くだけでも普通以上に気力を消耗していく。


「っんひゅ……!?」


 一刻も経たないうちにシロロンが情けない声を零しながら足を滑らせた。


 だが獣人。反応速度は速い。咄嗟に樹木に捕まって態勢を整えようとして、――何かに驚いた様子で木を掴まずにそのまま尻もちをついた。


「っ糞が……何を見ているのかね? そんなにワタシが転ぶのが愉快かね? それとも美少女が醜態を晒す姿に性的興奮を感じるタイプかい? きもいぞ」


 シロロンは尾を激しく揺らしながら苛立ちをこちらにぶつけてくる。完全な八つ当たりだ。乗ってやることにした。


「そうだ。愉快だ。お前の情けない八つ当たりも、小型犬の威嚇みたいだな。真似してやろうか? っんひゅ!?!??!?! ンがほっ痛っ!!」


 途中で肘打ちをされてユミフネは情けない声を零しながら身悶えた。


「バカにするなよ? それよりも有用な情報を教えてあげよう。その木を棒かなんかで叩いてみたまえ」


 シロロンは血の気の引いた様子でなんてことのない細い樹木を睥睨した。ユミフネは舌打ちをしながら適当な木の棒で樹木を叩くと、衝撃に反応するように一瞬で樹木が赤黒く染まった。


 色は小さな蟻の群れで、樹皮さえも見えなくなるほどの大群が覆って、棒にまですぐによじ登ってくる。腕をついたが最期、手袋をしていようともきっと体中を噛まれることになるだろう。


「きもっ……!」


 ユミフネはすぐに蟻塗れの枝を投げ捨てた。おぞましさに頬が引き攣って、自然と乾いた笑いが零れ出ていく。シロロンも共感するように鼻で嗤った。


 ……それでも足を止めるわけにはいかない。


 うだるような暑さが更に猛威を振るっていくなか、二人は密林の奥へと、ナイフで草木をかき分けながら移動していく。


 すぐに全身から水分という水分が干上がっていくような感覚を覚えた。こめかみから広がる眩暈と頭痛。頬を伝う汗を拭う気力も湧かない。


 そうして全身をぐっしょりと濡らしながら移動を続けていると、汗と血の臭いに蟲が集まってくる。


 鮮やかな色彩の毒蝶。


 耳元で羽音を鳴らし続け、傷口にくっついてくるハエ共。


 いつのまにかズボンの内側にまで入り込んでいる蛭。


 分厚い軍服などお構いなしにブスブス刺してくるサンクード。痛くて堪らない。


 数も多いうえに、何よりも突き刺す針が太く鋭い。


 顔、膝、背中。叩き潰す手は追いつかないし、のたうち回っても余計な体力を消費するだけで、シロロンも牙を軋ませて呻くことしかできなかった。


「……おい、尻尾にムカデがくっついてるぞ」


「見ていないで取ってくれないかね!?」


 いっそ煙草を吸う習慣でもあればこの場で葉巻を吹かして虫よけぐらいにはなっただろうに。


「わふッ……んっ……!!」


 薄汚れた白い尻尾を無遠慮に掴み抑えると少しいい声が響いた。


 毛の内側で蠢いていた毒虫に心のなかで礼をして投げ捨てる。


「もう少し丁寧に取れなかったのかね……!? ワタシはこれでもレディーなんだが」


「昨日も今日も敵だのなんだの吠えてたくせに都合のいいときだけ雌犬になりたいのか? 我が儘だな。黙って歩け」


「ワタシそこまで酷いこと言ってないのに……!!」


 …………水場はまだ見つからない。


 食べられそうなものを捜しても緑と緑と茶色と緑ばかりだ。


 それでも幸いなのは共に遭難した敵兵シロロンが敵兵であったことだ。


 鍛えられているのか長い時間歩くことには文句も言わないし、多少傷ついたところで心も痛まない。


 気に掛ける必要のない話相手がいたのは、……反逆的な思想だが、敵が生きていて運が良かった。


「魔力が濃いね……。魔界というだけはあるな」


 シロロンが感慨深そうに呟いたが、ユミフネには魔力とやらは理解できなかった。


 だが魔力。これも問題でしかない。


 魔力ある場所に魔物(モンスター)はいる。


 彼らは普通の生物に比べて巨大だったり、力があったり、魔法を行使できる。そして多くが獰猛だ。


 マジェラ樹海は野生の竜種の目撃情報もある地域だ。今の状況でそういった怪物に遭遇すればひとたまりもないだろう。


「……シロロン、魔力の濃い薄いは目視できるのか? 多少迂回してでも魔力の多い場所は避けたい」


「ふん、ようやくワタシを頼らざるを得ないかね? そうだな……東のほう龍脈の噴出口があると思う。そっちが匂う」


「…………魔力ってどんな臭いなんだ?」


「うむ、田舎っぽい臭いかな?」


 ――俺にはこんな密林で田舎の臭いの判別はできないな。


 ユミフネは感心するような、呆れるようなため息をついた。


「流石だな。犬っころ。俺にはなんもわからん」


「ふん。そうだとも。魔力も感じ取れない下等なアマツ皇国国民はワタシの素晴らしさにもっと感謝するんだぞ」


 シロロンはふふんと、誇らしげに鼻息を鳴らしている。……相当つかれてきているらしい。嫌味にも気づいていないようだった。




 ――――さらに歩くこと数時間。


 樹冠から溢れる日差しは真上ではなくなっていた。


 半日ぐらい歩いただろうか。足の裏、腿の付け根から膝の裏。


 一歩、一歩と歩くたびに痺れと痛みが巡ってくる。


「……まだ歩けるか?」


「なんだね? へばっちまったのかね? 君がつらいなら足を止めてもいいぞ」


 シロロンはユミフネを嘲りながら、余裕があることをアピールするように組んだ腕に胸を乗っけて、したり顔を浮かべた。


「あばら骨が折れてるのに……随分元気だな」


「ほら、肩を貸したまえ。腹部の怪我は貴様のほうが酷い。血と膿の臭いがする。……ヴィクトリエの軍人は人道に基づいているから、捕虜にも慈悲深いのだと理解するといい」


「捕虜になったつもりはないが助かる……」


 シロロンは勝ち誇った様子で素直に体を支えてくれた。


 痛みを誤魔化してくれているつもりなのか、白い尾が背中を摩ってくる。


「そうだとも。感謝したまえ。ワタシは慈愛に満ちているがゆえに敵兵である君にここまで親切にできるのだとな」


 シロロン自身も余裕は決してなかったが、ぜぇはぁと半開きだった口を閉じて、牙を食い締めていた。


「……そろそろのはずだ」


 重い歩みを続けていくと、植生が変わるのを見てユミフネはぼやいた。


 頭上を覆う枝葉を茂らせる木々が減り、代わりに若い木々とファーンツリーのようなシダ樹木が増えてきたからだ。


 足元も落ち葉と泥が混じり、倒木が増えてくる。


 河川が氾濫したか、この場所が元々川底だったのだろう。


 予想は当たっていた。


 空の青さが段々と橙と朱に染まっていくなか、ようやく密林がひらけてくる。


 そしてそこにあったのは――――"川があった"場所だった。


「……ユミフネ、ワタシは心が折れてしまいそうだ。君の神経を逆撫でる言葉が少しだけ欲しくなった」


 シロロンの青く澄んだ瞳が涙で潤んでいた。乾いた笑い。震える口元。


 視線の先に広がる先に川はない。


 あるのは剥き出しになった川底の岩と、僅かに残された濁った泥水だけだった。


「…………犬は泥水でも啜れば大丈夫じゃないか?」


「ウウウウウヴ……!! ガルルル……!!」


 求められたからぼやいたらシロロンは嫌悪の眼差しを向けて唸り声を漏らしてくる。


 体を支えるのも急にやめてくれたので、ユミフネは力なく尻餅をついて、川の痕跡を前にしばし呆然としていた。

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