93. 思いもしない出来事
「トール?」
何かを言おうとして口をつぐんでしまったトールに、アーサーは声をかける。
「…」
トールは無言でアーサーの方へ近付いてきた。
「…?」
突然変わったトールの様子に、アーサーは眉をひそめる。
「トール、どうしたの?」
返事はなかった。
トールはアーサーの真正面に立つ。トールよりも背の高いアーサーからは、うつむいたトールの表情は見えなかった。
「トール…?」
トールの顔を覗き込もうとするアーサー。
唐突に、トールがアーサーの首に両手をかけ、地面へと叩きつけた。
「…え?」
思ってもいない出来事に、地面に叩きつけられたまま、何が起きたのか理解できないアーサー。アーサーにしては珍しく、何も反応できなかった。
トールはアーサーの首を強く絞め付け始めた。アーサーの瞳孔が揺れる。
アーサーは反射的にトールの手首をつかんだ。
「…トールっ、やめろ…!」
アーサーがあえぎあえぎ叫ぶ。それを聞いても、トールが力をゆるめることはなかった。むしろ、より手に力を入れた。呼吸が苦しくなり、アーサーの額に汗が浮かぶ。アーサーのトールの手首をつかむ手に力が入り、トールの手首にアーサーの爪が食い込んだ。
「トー、ル…っ」
ぱちりと、アーサーとトールの目が合った。
アーサーは、トールの目を見てぞっとする。感情の全くない目。アーサーの目の前にいる人物はトールに違いないのに、トールではなかった。
――…瘴気?
アーサーはぼんやりとしてきた頭で思う。
瘴気は魔物が出す毒素だ。それを吸ってしまうと、精神が撹乱され、普段とは違う人物に豹変してしまう。そして、最悪の場合、死に至る。光魔法による浄化でしか治せないのが厄介だった。
アーサーは魔王討伐の時にエステルから女神の加護を受けている。それゆえに多少の瘴気は耐えられた。しかし、トールは違った。女神の加護がないトールは、瘴気の影響をもろに受けるだろう。
アーサーは、感情のないトールの目に覚えがあった。間違いなく、瘴気によるものだ。しかし、瘴気はそうそう発生するものではない。トールのそれは、アーサーが気付けないほどの薄さの瘴気で現れる症状ではなかった。
――無理やり引き剥がすこともできるけど、そうしたらトールの身体がもたないだろうな。
トールの腕をつかんでいたアーサーの手から力が抜けていく。
心の奥で、望まない衝動が沸き上がりそうなのを感じ、アーサーの背筋にぞわりと悪寒が走る。
もうだめかも、とアーサーが思ったその時だった。
「汝、清らかなれ」
誰かの声が響いた。
すると、光がどこからともなく降り下りて、衝撃がトールを襲った。トールから何かが吹き飛ばされる。
突然のことにアーサーは目を見開く。
トールの手の力が抜けた。久々の空気に、アーサーは咳き込んでしまう。
もとの穏やかな目に戻ったトールは、目の前の光景に目をぱちくりさせた。
「え…、アーサーさん…?俺、一体、何を…」
困惑を隠せないトールは、そのまま気絶し、アーサーの上に倒れ被さった。
もとに戻ったトールを見て、アーサーはほっと安堵の息をついた。
アーサーは近づいてくる足音に気付き、音のする方へ視線を向ける。
「え」
そこにいたのは、白金の髪をたなびかせた、神官服を身にまとった人物。澄んだ空色の瞳がアーサーを見つめていた。
思わぬ人物の姿に、アーサーは目を見開く。
「…エステル」
そこにいたのは、かつての魔王討伐パーティーの一員、神官エステル・カルマンその人だった。
「お久しぶりです、アーサー」
そう言って、エステルはにこりとほほえんだ。
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