分水嶺
この物語を読んでいる方は『分水嶺』という言葉は当然ご存知だろう。雨水が分岐する尾根をさすことから、転じて、物事の方向性を決定づける大きな分かれ目という意味だとなろうには書かれている。よく聞く言葉に直すとターニングポイントである。
オレはこの時代に来てそれなりに楽しくやっていた。仲の良い友五郎がいて、愛すべきさよがいる。厳しくも優しい三郎さんとあきさんがいて、喧嘩したり語り合ったりする太助がいる。
修行は厳しいが笑顔が絶えない毎日だった。そんな日々は前触れもなく突然終わりを告げる。
紫電一閃、事態とは急に動くもの。
文永11年10月
オレがこの時代に来て約3ヶ月、いつものように修行し、さよの手料理を食べて布団に入った直後だった。
「爪音。」
もうすでにいびきをかいていた五郎がそんなことを言って飛び起きた。オレの耳には何も聞こえない。が、何故か胸騒ぎがした。オレはこの時代にくる前、学校で日本史を勉強した。鎌倉時代も勉強したはずだ。何か大切なことを忘れているのではなかろうか。
すると、オレの耳にもぱからんぱからんと馬の走る音が聞こえてきた。静かに耳をすます。そしてその音がこの家の前で止まった。五郎は素早く刀を腰に差し、玄関を睨みつけている。すごい殺気だ。呼吸をするのを忘れそうな緊張感だ。
どんどんどんと玄関が叩かれる。
「二郎です。三郎二郎資安です。季長様はおられるか。」
季長って誰だ。五郎だ。太助がそう呼んでいた。
「大丈夫じゃ。菊池に忍ばせていた家来じゃ。」
五郎はオレにそう言った。家来がいたのかよ。知らんかったぞ。五郎は玄関を開ける。武装した男が立っていた。
「どうした、何があった、二郎。」
「やはりここには書状が来てませぬか。蒙古軍が対馬壱岐を攻撃、次の目標は博多と予想される。九州の全御家人は博多に集結せよと幕府より通達が。」
おい、蒙古軍。聞いたことあるぞ。モンゴルだ。モンゴル帝国だ。歴史上2番目に広い領土を支配した国だ。んで、そうだ、思い出した。元寇だ。あれ鎌倉時代だったんか。てか、ここって九州だったんだな。オレが令和で最後にいたのは熊本だった。だったら肥後ってのは熊本なのか?
ちらりと五郎をみると髪が怒髪天のように逆立っていた。
「菊池の叔父貴はどうした。」
「百騎ほど連れてもう博多に向かいました。私はここに通達が届いてないだろうと途中で抜けて来ました。」
「よくやった、二郎。さよ、起きろ、戦支度じゃ。太一郎は三郎兄を連れて来い。すぐに出発じゃ。」
「もう来ておる。」
玄関の外から三郎さんが顔を覗かせた。眉間にしわを寄せ難しそうな顔をしている。
「資長様、お久しゅう。」
「挨拶は良い。五郎少し落ち着け。」
「これが落ち着いていられるか。戦じゃ。待ちに待った戦なんじゃ。」
「待ちに待ったからこそ、落ち着け。」
「もう出遅れておる。」
「聞いておった。もう出遅れたなら一晩遅れてもたいして変わらぬ。それより準備を万全にするのだ。とりあえず、うちに集まれ、分かったな。」
三郎さんの言葉には有無を言わせぬ力強さがあった。五郎は少し落ち着いたようだ。あんな状態の五郎を宥めるとか三郎さん、尊敬します。
三郎さんはそのまま三井家に戻って行った。
「太助!」
もの凄い声量で五郎が叫ぶ。少しして太助が眠気まなこでやって来た。
「何事です、季長様。」
「戦じゃ。今から郷のもん集められるだけ集めてこい。三井家に集合じゃ。」
「い、戦!?しょ、承知。」
太助は走り出す。馬小屋に向かったんだろう。やがて爪音が聞こえ遠ざかっていった。
「五郎…太一…」
振り返るとさよが心配そうに見ていた。
「大丈夫。大丈夫だから。」
オレの口から出た言葉はさよに言ったのか、自分に言ったのか、オレには分からなかった。事態が目まぐるしく動き始めた。
ーーーーーー
1時間ほど後、オレたちは三井家の一室に集まっていた。
五郎、オレ、さよ、三郎さん、あきさん、太助、二郎さん、それから見覚えのないこの村の人が10人ほど。
蝋燭の火が揺れる暗い部屋の中、男性は胡座をかき顔を突き合わせ、女性は後ろに控えている。
「どういう状況ですかな。」
よぼよぼのじいさんが話の口を切った。服装からすると農家の人だろう。長老といった感じだろうか。
「蒙古軍が対馬と壱岐を攻め、次は博多にやってくるようだ。」
三郎さんが答えた。
「したら、ここいらは大丈夫ですな。」
「いや、蒙古軍は船だ。ここは海からそう遠くない。安心は出来ん。」
そうだったんだ。知らんかった。まだ、海見てない。
「では、ここで防衛ですかな。」
村人の言葉に今度は五郎が首を横に振りながら答える。
「そんなわけにはいかん。幕府より召集があったらしい。なかったとしてもわしは行く。蒙古なんぞ、博多で返り討ちにしてくれる。」
「では、若いもんを連れて行くんで?」
ああ、そうか。戦は何も武士だけのものではない。農民も戦に参加していたと聞く。戦いとは数だからな。
「いや、わしらは出遅れておる。速さ優先じゃ。馬は5頭、二郎のと合わせて6頭じゃ。わし、三郎兄、二郎、太助…」
オレの体はぶるぶると震え出す。脂汗が滝のように流れ出る。目の焦点が合わない。息が苦しい。
五郎はオレの名を呼ばすにオレをじっと見据える。行かなけれならないのは分かっている。さよに手柄を立てると約束した。しかしそれが現実になるなんて…鎌倉時代に平和が続くなんて妄想でしかなかった。怖い、怖くて仕方ない。
元寇について思い出す。確か日本はこてんぱんにやられて神風が吹いてなんとか凌ぐんじゃなかったっけ?博多って死地じゃないか?
どうしよう、残ってここを守るって言おうか。だってここまで来る可能性あるんだもん。三郎さんが今さっき言ったじゃないか。
視界の端でオレを見据えていた五郎が目を閉じ首を横に振るのが見えた。さらに五郎の後ろに立つあきさんの残念そうな顔…そんな顔しないでくれよ。だってオレは平和な令和から来たんだぜ。戦争なんて無理だよ。人を殺すなんてできないよ。しかもオレはこの時代になんの責任もないじゃないか。断ろう。よし断ろう。
「オレ…」
そのときそっとオレの背中に誰かの手が置かれた。見なくても分かる。さよの手だ。さよの手は、優しくオレの背中をさする。
「大丈夫。」
小声でさよの声が聞こえた。小声なのに力強い声だ。何が大丈夫なのか分からないが何故か大丈夫だと思えた。曇っていた頭の中がクリアになっていくのを感じる。
すー、はー。オレは深呼吸した。ずいぶん呼吸を忘れていたようだ。
ここがオレの人生の分水嶺だ。ターニングポイントだ。ここで行かなかったらオレはもうあの家にはいられないだろう。だってオレを御家人にするために五郎はオレを側に置いているのだから。行かないと言ったら、五郎とあきさんに見放される。期待に応えないとはそういうことだ。平和な令和なら何回もチャンスはあるだろうが、ここは鎌倉時代、一回こっきりのチャンスだと思った方がいい。
見放されたオレはどうなるか。どこかの農家に婿入りして畑を耕して暮らしていくことになるのだろうか。そんな生活も悪くはない。悪くはないが。
オレはぱんぱんと両手で自分の頬を叩いた。全員の視線がオレに集まる。
馬鹿なこと考えたなあ。さよと離れて暮らすなんて今のオレに出来るわけないのに。初志貫徹だ。3ヶ月前オレは強くなると誓った。手柄を立てると誓った。さよに惚れてもらうと誓った。じゃあどうすればいいか。そんなの簡単だ。
「オレ、行きます。」
「よく言った。太一郎。」
座っていた五郎がざっと立ち上がる。そしてオレの前まで来た。そして腰に差した2本の刀のうち、短い方を鞘ごと引き抜いた。
「これをやる。」
オレはそれを丁重に受け取る。小太刀というやつだ。オレは遂に武器を手に入れた。
「それと…」
五郎は暗い部屋を見回す。そして敷居のところまでずかずかと歩く。木の襖に手を掛け敷居から外した。
「三郎兄、これ貰うぞ。」
「構わんがどうするんのだ?」
「ごん爺、これに持ち手を付けろ、盾にする。」
五郎の言葉に始め話してたよぼよぼのじいさんが答える。
「はあ、承知しましたわい。」
五郎は木の襖をどんと床に落とす。
「戦に行ってわしらは大手柄を立てて帰ってくる。わしは大豪族に返り咲く。この三井郷も発展させる。さよと太一郎は婚姻する。この先目出度いことしかない。皆で戦うぞ。」
「「「おう!」」」
五郎の言葉にこの部屋の全員が答えた。オレも答えた。さよも答えた。
「早朝出発じゃ。準備を怠るな。他の者はこの三井郷の守備を頼む。以上じゃ。」
こうして会議は終わり、皆、解散したのであった。