五郎と名乗る男
文永4年7月
『けたたましい』という言葉をご存知だろうか。うるさいとか喧しいとかそんな感じの意味であるが、どちらかといえば声よりサイレンや警報なんかを指す言葉のように思う。ちなみに『けたたましい』にはオレが知る限り漢字がない。『消魂しい』と当てる感じだろうか。五月蝿いとか消魂しいとか日本人は本当に上手に漢字を当てるなぁ。漢字な感じだなぁ。……オレはいったい何が言いたいのかというと、今現在進行形で五月蝿い、いや、消魂しいのである。
「おい、起きんか。もしかして死んでおるのか。早う。早う起きろ。」
耳元で野太いダミ声が聞こえる。死んでたら返事出来ないじゃないか。
はてさて、オレはどうしたんだったか?松橋駅に電車で到着した記憶が朧気に覚えている。
「んー。」
オレは恐る恐る目を開けた。すると、目がギョロリとした良く日に焼けたちょび髭のおっさんの顔で視界が埋め尽くされた。
「ぎょえー!」
「おお、生きておったか。こんなところでどうした?追い剥ぎにでも会うたのか?」
「追い剥ぎ?」
おっさんの言葉に自分の状況を理解しようとした。いや、理解しようとしなくても分かった。オレは裸だ。背負っていたはずのリュックも着ていたはずの服も何もかもなくなっていた。
「いやん。」
オレは両手で股間を隠した。これはコンプライアンス的にいかんやつや。
「がっはっはっ。隠すほどのものではないな。」
「うるせ。」
オレはまだまだ成長期なのだ、たぶん。それにしてもおっさんの顔近い。
「少し離れてください、おじさん。」
オレはおっさんの肩を両手で押した。いや、押そうとした。ごつごつしたおっさんの肩は重くて全く動かなかった。
「おじさんじゃねえ。わしは五郎じゃ。」
「分かりましたから、五郎さん、少し離れてください。」
「なんじゃ、その気持ち悪い言葉遣いは。まあ良い。」
五郎と名乗ったおっさんはやっとオレから離れてくれた。離れた五郎さんを見て思った。熊だ。いや、熊のような人だ。でかい顔ボサボサのロン毛でかい胸でかい腕短い足…そして、つぎはぎだらけのボロい浴衣の腰におもちゃの刀を2本差している。良い歳して情けない。まあ、人の趣味にケチをつけるまい。
さて、人のことより自分のことだ。今の状況を把握しなければ。早く松橋駅に戻りばあちゃんに会わなければ。
「えっと、五郎さん。ここはどこでしょう?松橋駅へ行きたいのですが。」
「ここは三井郷じゃ。まつばせなんじゃって?聞いたことないのう。」
三井郷?郷ってなんだ?白川郷の郷かな?
「えっと、ここは熊本ですよね?」
「くまもと?ここは肥後の国三井郷じゃ。しつこいのう。」
は?肥後の国?肥後って何だっけ?話がぜんぜん噛み合わない。
「もういいです。警察署か交番に連れて行ってください。」
「けいさつ?こうばん?なんじゃそれは。そんなもんはないぞ。」
は?え?日本に警察署か交番がない所あるの?知らない人いるの?もうどうなってんの。ここはどこ。
「おぬし名をなんと申す?」
「太一と申す。名字は…」
あれ名字?名字、名字、名字…あれ?田中?佐藤?鈴木?んー、どれもしっくりこない。
「がっはっはっ。おぬしのような凡下に名字などあろうか。」
凡下ってなんだ?オレは天下のライン工ぞ。日本の物作りを支えてるんだぞ。
「ん?凡下ではないのか?」
「たぶん違う。」
たぶんとしか答えられない。だってボンゲって何か知らない。それにしても自分は誰で己は何なのか…なんか哲学的だ。
「ふぬ。凡下ではないのか。まさかどこかの御家人の子か?」
ゴケニン?御家人か?御家人って何だっけ?武士みたいなもんだっけ?ちょっと五郎さん、おもちゃの刀に手をかけないで。それおもちゃですよね?なんか殺気出てる。怖い、チビりそう。
「いえ、違います。」
「さようか。」
五郎さんはホッとしたようにおもちゃ?の刀から手を離す。これ答え間違えてたら切られて…いや、ないない。
「ぬしはいったい何者じゃ?」
「だから、太一です。」
「いや、そうじゃのうてのう。」
「んー。」
「んー。」
二人して困り果てた。服も荷物もない。身分を証明してくれる免許証もない。ここがどこかも分からない。「太一」以外に答えようがない。
五郎さんは顎に手を当てまじまじとオレの全身を舐め回すように見る。裸なのでほどほどにしてほしい。そして何か小声でぶつぶつ言っている。
「太一郎、おぬし行く当てはあるのか?」
「ここが熊本でないなら行く当てないです。てか、太一です。太一郎じゃないです。」
「ならわしの家来にしてやろう、太一郎。」
あ、この人、他人の話を聞かない系の人間だ。だが、断る。オレはノーと言える日本人なのだ。
「いや、結構です。」
「いやか?そうか、いやか…」
五郎はなんか頭を捻り考え出した。そりゃいやでしょ。なんだよ家来って。
「うん、よし、太一郎。ぬしをわしの友にしてやろう。」
「友?」
友?友人、友達の友だろうか?出会って数分のオレが?
「ん?なんじゃ、いやなのか?」
これ断ったらあかんやつだ。オレは何でも分かるのだ。自分の名字とここがどこか以外…あ、詰んでる。
「いえ、友達からでお願いします。」
なんか告白断ったみたいになっちった。告白されたことないけど。
五郎さんの顔がぱっと明るくなった。
「がっはっはっ。よしよし。友ならば世話してやらねばならんな。」
五郎さんは嬉しそうにばんばんとオレの背中を叩きながら言った。オレは何か嵌められたのではなかろうか…
「よし、付いてこい。」
「あ、その前になんか着るものありませんか?誰かに見られたら…」
「必要ない。周りをよう見てみい。」
いや、見なくても気付いていた。だってずっと視界に入っていたのだから。
そこは見渡す限り青く繁る田んぼと林しか存在しない。五郎さん以外人っ子ひとりいなかったのである。
ーーーーーーー
田んぼと田んぼの間の土の道を五郎さんの後ろに続きひたすら歩く、裸で。
30分ほど歩いただろうか。ぽつぽつと家が見えるようになってきた。オレはその家を見て思った。ここは現代日本ではないなと。
だって、あんな木の屋根のボロい家見たことないもの。炊事をしてるのだろうか、モクモクと煙が上がっている。あんな家から煙出たら消防車来ますよってレベル。それに道。これだけ平地を歩いてアスファルトに出くわさないことなんてあるだろうか?それから履き物。オレは裸足だが、五郎さんは草鞋だ。下駄や雪駄なら分かるが草鞋で出歩く人が令和にいるだろうか?そして空、現代日本に生きるオレに見慣れた物が全くない。そう電線だ。どんな田舎でも鉄塔から電線が伸びてるもんだ。ここだけ完全光ファイバー化してるなんてことは考えにくい。
どうやらオレはタイムトリップか異世界転移してしまったのかもしれない。和風ファンタジーかもしれない。陰陽術とか使えるのかもしれない。急急如律令。おらわくわくすっぞ。
「あの、五郎さん。」
「わしらは友じゃ。さんはいらん。」
えー、こんな年上の人呼び捨てにすんの?
「えっと、五郎。」
「なんじゃ。」
「今西暦何年ですか?」
「せいれき?なんじゃそれは。今は文永の…4年じゃったかな。」
「文永?」
なんか聞いたことあるようなないような。ああ、もっとちゃんと歴史勉強しとくんだった。これでタイムトリップか異世界転移が分かったかもしれないのに。でも令和ではないのは確かなようだ。
「見えてきたぞ。」
五郎が指差した先に5軒ほど家が連なった場所があった。さらに進んでその集落に到着した。
まず目に飛び込んできたのが牛小屋。ホルスタインではない牛がモーモー鳴いている。そして馬小屋。黒い毛並みの馬が5頭。
ここまで来るまでに遠目に見えた家より多少ましな家が3軒、木の塀に囲まれた明らかに他より立派な家が1軒。その立派な家の脇に石の階段がありその上に唯一の瓦のある家1軒。うん、あれは寺だな。オレは宗教高校出身だからなんとなく分かる。
てことは、四択だな。連れて行かれる家があの立派な家であってほしいが五郎の身なり的にたぶん違うだろう。頼むどこかで間違えてくれ。
五郎は大股で1軒また1軒と通りすぎる。そして1番立派な家の門の前で立ち止まった。オレは心の中でガッツポーズをした。
五郎の手が門の取手に…伸びず、木の門をドンドンドンと叩き出した。
「五郎じゃ。」
自分の家の門を叩いて名乗るだろうか?まあ、つまり、そういうことなのである。