プロローグ
文永11年10月
突然だが、『惑乱』という言葉をご存知だろうか。残念ながらオレはご存知ない。混乱や錯乱なんかと同じような言葉と思われる。混乱<惑乱<錯乱であってほしいが、どうやら惑乱<混乱<錯乱であると思われる。なぜあってほしかったのかというと…オレは今混乱より酷く錯乱ほどではない精神状態にあるからである。
「どうしてこうなった、どうしてこうなった、どうしてこうなった。」
「まだ、そんなことを言っとるのか。」
オレの口から溢れ出た怨嗟の言葉に五郎が呆れたように言った。
だってさっき擦れ違った武士たちの腰にぶら下がっていた無数の生首を見ただけでオレのSAN値はとっくにゼロなのだよ。
オレたち五人は今森の中に身を潜めている。我がメンバーを紹介しよう。
よく日焼けした顔にギョロリとした目、鼻の下にちょび髭を生やし頭には黒地に剥げた金色の模様がある兜を被り、180センチはあろうかという身長で広い肩幅、丸太のように太い腕、分厚い胸板、短い足。黒い甲冑に身を包み、腰には刀、背中に矢筒、手には弓。我らがリーダー五郎。
年齢はたぶん三十代半ば、身長はオレより低いので165くらいだろうか。五郎のと違い金色の細工のない黒い兜に黒い甲冑を着たナイスミドルは五郎の姉あきさんの旦那さんの三郎さん。姉の婿さんなのに五郎の方が身分が上らしいがオレにはよく分からない。
申し訳程度の甲冑に頭には鉢金、歳の頃は二十代半ば、旗指という身分から分かるように右手に三つの菱形の下に吉と書かれた旗を持っているのが五郎の唯一の家臣二郎さん。
歳の頃はオレのやや上、二十代前半。鎧は胸当てだけ、頭にはハチマキ、手には槍。三郎さんの唯一の家臣太助さん。
オレはというともんぺみたいなズボンに上はつぎはぎだらけの着物、防具は以上…
武器は背中に紐でくくりつけられている木の扉を改造した木の盾と腰に差した護身用の小太刀。
なんか時の流れに身を任せていたらとんでもないことになってしまった。
「うわ、こいつ吐きやがった。」
右隣でしゃがむ太助さんがオレに汚い物を見るような眼差しを向ける。だって出るもん仕方ないじゃないか、おぇー。
たぶんここは福岡県のどこか。目の前は平地。元は家や田畑があったのだろうが、今は何もかもぐちゃぐちゃだ。左手には小高い丘。そこに蒙古軍が約一万、右手には丘陵地帯。そこに陣取るは九州鎌倉武士の皆様、約三千。
オレの拙い知識では、元寇の文永の役では鎌倉武士たちはこてんぱんにやられると記憶している。で、神風が吹いて助かるんだっけか?一万対三千…記憶を思い出さなくても分かる。一万は三千より多い。小学校で習った。普通負ける。負けたらこんな所に隠れているオレはどうなるか...たぶん惨たらしく殺されるのだろう。さっき見た腰の生首のように…
「また吐きやがった。」
「ずうたいがでかい割に肝っ玉はちいさいのう。」
肝っ玉が小さいのは分かるがずうたいでかいとは五郎には言われたくなかった。オレの身長は175センチ、現代日本では平均よりやや大きい低度。しかし、ここにいる三郎さんも二郎さんも太助さんも160センチあるかないかくらいしかない。でも五郎は目算だが180センチはある。しかも横にもでかい。肩幅が異様に広い。
「今から蒙古軍が赤坂を攻めるじゃろう。」
五郎が声を潜めて語り出した。あの丘陵地帯は赤坂というらしい。
「しかし、今からでは赤坂に間に合わん。わしらはその間ここで息を潜めて待つ。言うとる間に蒙古軍は敗走するはずじゃ。それを横から狙うぞ。」
そんな上手くいくのかなぁ。なぜ敗走すると思えるのか。はぁ。どうしてこうなった。そもそも赤坂に間に合わなくなったのは、五郎が血相変えて突っ走ったからだ。三郎さんが止めてくれなければ五人だけで敵陣に突っ込む羽目になっていただろう。
はぁ。オレは3ヶ月前までは平和な令和の日本でライン工をやっていたはずだ。夢なら早く覚めてほしいものである。
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令和三年7月
オレは太一、19歳B型三兄弟の真ん中。身長175センチ体重60キロ、運動は平均よりやや上、勉強はやや下。
高校卒業後、進学せず工場勤務。ラインで流れてくる製品に次々あれこれする仕事だ。正直気が狂いそうだ。
就職2年目の夏、オレは長期休暇を取って一人で熊本に行くことにした。熊本には父親のばあちゃん、つまりは曾祖母が一人で暮らしている。一回も行ったことないのだが、何故だかばあちゃんに会いたいというよりは熊本に行かなければならないと思い至ったのである。
7月某日、名古屋駅から新幹線に乗り新大阪駅で鹿児島中央駅行きに乗り換え熊本駅。そこから鈍行に揺られ目的地の松橋駅に辿り着いたのは昼過ぎのことであった。
もうすぐ松橋駅に着くと車内アナウンスが流れ、オレは立ち上がりリュックを背負いドアの前に向かった。電車は無人駅に滑り込む。まだ開かぬドアの向こうに目をやると一人の身なりの良い老婆と目が合った。幼少期に一度会っただけだが、その老婆が自分の曾祖母であることを直感した。向こうもオレが自分の曾孫であることが分かったようで微笑みかけてくれた。
シューと音を立てドアが開く。
「ばあちゃん!」
オレは電車からホームに一歩踏み出した。
いや、踏み出したはずだった。
オレの足はホームに着くことはなかった。
不意に浮遊感に襲われ、オレは咄嗟に目を閉じた。
次に目を開けるとそこは闇の中であった。オレは闇の中をひたすらどこかに落ち続けていた。叫んでみたが声が出ない、何も聞こえない。気を失い、目覚める。それを数回繰り返し、そして深い闇に飲まれたのであった。