行き止まりの情景
大通りから一本奥へと入った所にある、小さなパン屋の店の奥。大きな窯からパンの載った鉄板を素手で取り出す大男。
叔父役の大男の頭には、二本の大きな角があった。
「頼む」
「はい、叔父さん」
大男が言葉少なにそう言うと、側にいた少女は明るい笑顔を浮かべて、それらを籠に入れ店の棚へと並べていく。そのパンは、どれも膨らんでいない。
そしてそんな少女の様子を、不機嫌そうな顔で眺めるカウンターの女。
「すぐに準備します」
「………」
叔母役の女の背中には、蝙蝠のような二枚の羽根があった。
やがて全ての準備を終えた少女は、店のドアを大きく開け放つ。
「開店です」
明るい少女の声は、古い石造りの街へ静かに吸い込まれて消えていく。
目の前の通りに人影はなく、かつての賑わいは全くなかった。人の営みの残滓と言えば、萎れた花を並べた向かいの花屋くらいのものか。
それらを塗り潰すように、あちらこちらにある赤黒いシミからは今も腐臭が漂っている。更に異臭を放つ黒い帯状の汚れは、それすらも覆い隠してしまっていた。
人々は皆うつむき、息を潜めて暮らしている。
静か過ぎる街は静謐というよりも、まるで亡者が住まう廃墟のように見えた。
ここは、魔王に支配された街。
その魔王は、ある日突然にやって来た。
何故この街だったのか。城の人達はどうなったのか。騎士団はどこへ行ったのか。
それを知る者は、誰一人いなかった。
どこからともなく不快な声音が聞こえ、ただ一方的に支配を宣言した。
当然、反抗を口にする者たちはいたが、彼らはまるで見えない手で叩かれたかのように、その場でぺしゃんこになって街路のシミになった。
声の主はこちらの声を正確に聞き取り、即座に殺す事が出来る。それが分かってから、人々は一様に口をつぐんだ。
魔王が支配を宣言したその日の夜。
少女はなかなか寝つけずにいた。目を瞑って何度も寝返りを打つが、どうにも眠れない。
諦めてベッドを抜け出し、水でも飲もうかと部屋を出て一階へ向かう。
叔父夫婦を起こさないよう静かに階段を降りて行くと、一階にはランプの明かりが灯っていたが誰も居なかった。
「…叔父さん?」
不思議に思って呼びかけるが、答える者はいない。
代わりに店の方からノックの音がした。
コン… コン…
こんな時間に客が来るはずもない。
「どちら様ですか?」
少女は恐る恐る近付いてドアを開け、そして息を吞んだ。
そこには得体の知れないモノがいた。ボロ布を被った人間大の何か。
頭の辺りに動物の頭蓋骨を載せているが、果たして本当にそこが頭なのか。
ボロの裾からチラチラと覗くものも、到底人間の足では有り得ない。
《こんばんは、お嬢さん》
異形は思いの外、丁寧な口調でそう言った。
だがその声は人間のものではない。
雑音混じりの不快な音。まるで何かを擦り合せて、似たような音を出しているかのようだった。
魔族の体には人間とは異なる部分があると言われているが、目の前のそれにはむしろ人間と重なる部分が一つもなかった。
《この家の住人は、この街から逃げようとしたので殺しました。後は君の、処遇を…どうするか、ですが…》
そう告げる途中で魔王は、何かに気を取られたように落ち着きが無くなった。
けれどそれらは既に、少女の目には映っていなかった。
叔父夫婦が殺された。“そんな事よりも”。
またしても家族を失ってしまったという事実が、彼女にとっては何よりもショックだったから。
七才の時に両親を亡くしてから、叔父夫婦のところで厄介になって三年。
あまり歓迎されていないとは思っていたが、それなりに良好な関係を築けていると思っていた。それがまさか、この状況で置き去りにされるとは。
殺されるよりも以前に、彼らはもう少女の家族ではなくなっていたのだ。
《お嬢さん、ここは何ですか?》
「…ここはパン屋です」
魔王の質問にも、半ば無意識でそう答えた。
《ほう! これがパン屋か! …う~む、あの人間たちを殺したのは、はやまったか?》
すると魔王は俄然興味を持ち始め、あちらこちらを眺め回した。
そして最後に少女へ向かって、グイっと顔らしき部分を近付けた。
異臭により目の前の現実へ、嫌でも意識が引き戻される。
《…君は、代わりを用意すれば、パンを焼けますか?》
質問の意味は分からなかったけれど、出来ないと答えれば殺されるだろうと思った。
「はい」
だから彼女は嘘を吐いた。本当はパンの焼き方など知らない。
叔父さんは彼女に、雑用以外の事を決してさせなかったから。
《よし、それではこの二人を付けましょう。お前たち、先程の人間たちの代わりに、ここでパン屋をやりなさい》
彼女の返事を受けて魔王は、後ろに付き従っていた魔族へそう命じた。
「え!?」
大男の方は黙って頷いたが、女の方は思わずと言った感じで声を上げた。
《…何か不満でも?》
「…いえ」
魔王が問い質すと、今度は女も首を垂れた。
《よろしい。では励みなさい》
こうして少女は期せずして、三度目の家族を手に入れたのだった。
それから魔王は、毎日この店へとやって来た。
《こんにちは。今日もパンを頂けますかな?》
魔王は人間に興味があるらしく、日に二回は街を巡って歩くのだ。
この日もやって来た魔王は、ボロの下から手のようなものを伸ばし、並べられたパンを次々と引き込んでいく。魔王の通った後の床には、汚らしい黒い跡が残った。
《ははは、私はここのパンが好きでね》
この魔王にはどうやら、味覚というものがないらしい。だから逆に、歯ごたえだけはあるこの店の膨らまないパンを気に入っているようだった。
ベチャ… ベチャ…
粘液まみれの食べカスをこぼしながら、店中のパンを食い散らかしていく。
そして満足すると、再び街の見物へと戻るのだ。向かいの花屋で《いい匂いですね》などと言いながら。
この後は床を掃除してから午後また来た時の為に、もう一度パンを焼くのがこの店の日課だった。
そんな繰り返す異常な日常の中で。
真夜中に少女が目を覚ますと、階下から声がした。
叔父役の魔族と叔母役の魔族が、言い争っているようだった。
もしかするとこの二人もまた、この家を出て行こうとしているのかもしれない。
そう思った少女は音を立てないように、そうっと階下へと降りて行く。
「いつまでこんな茶番を続けるつもりだ?」
女は声を荒げているが、大男の方はあくまで淡々と答えるだけだ。
「魔王を倒した者が次の魔王。俺は魔王の命令に従うだけだ」
二人が話題にしているのは、魔王の事だった。
その口振りからすると、魔王の行動は魔族にとって余り納得できるものではないようだ。
「っ…人間どもの教団が、救世軍を派遣したという話もある。このような所で茶番を演じている場合ではないだろう!」
教団の者たちは不思議な術を操ると言う。
そしてその救世軍は人類の最高戦力と言っても、過言ではないだろう。魔族にとっても、決して侮る事の出来ない相手だった。
「魔族最強の戦士であるお前が、何故あんな得体の知れない化け物に…」
どうやら異形の魔王は、魔族の目から見ても得体の知れない存在らしかった。
しかし女がその言葉を口にした瞬間。
辺りには異臭が漂い始め、不快な声音が室内に響いた。
《…今、ばけものと言ったか?》
まるで今そこにいるかのように聞こえてくる声。
いやそれはもう、今そこにいるも同然だった。
その声の主は今そこにいるのと同じように、相手を殺す事が出来るのだから。
「魔王…さま…」
青ざめた表情でようやくそれだけを口にした女に、魔王は重ねて尋ねる。
《今、ばけものと言ったのか?》
その言葉が、魔王の逆鱗に触れた事だけは分かった。
「も、申…」
女は思わずそう口にしようとしたが、認めれば命がない事は明白だった。
このままでは、この仮初の家族までも失ってしまう。
「!」
今の少女にはもう、血縁者は一人もいない。
たとえ偽物であっても、魔王から叔父夫婦の代わりを命じられたこの二人だけが、今の彼女の家族だった。
居ても立っても居られなくなった少女は、すぐさま飛び出して床へ跪いた。
「魔王様、私が寝物語に英雄譚をねだっておりました。ご不快でしたら申し訳ありません」
確認をするという事は、全てを聞いていた訳ではないという事だろう。
通じるかどうかは分からないが、死にたくなければ白を切り通すしかない。
《………その話は二度としないように》
長い沈黙の後、魔王は一方的にそう言って会話を打ち切った。
果たして魔王は、単語に反応しただけで、前後の会話までは聞いていなかった。
「分かりました。申し訳ございません」
少女は内心で安堵しながら、重ねて頭を下げた。
「お前、何故…」
「もう遅いです。叔父さんも叔母さんも、今日はもう寝ましょう」
状況のつかめない女が何か言う前に、少女は殊更に明るくそう言った。
ここにあるのは微笑ましい家族の団欒。魔王へ告げた通りに、そうでなければならない。
「そうだな」
そう言って大男は、人差し指を唇へと当てた。
まだ聞かれているかもしれない、余計な事は言うなという合図だ。
「わ、分かったわ」
それを理解した女は、緊張した面持ちで頷いた。
翌日の朝は、いつも通りだった。
「頼む」
「はい、叔父さん」
大男が焼いた膨らまないパンを、少女が棚に並べていく。
「すぐに準備します」
「………」
女はいつのように黙ってカウンターに立っていたが、今日は何か言いたげな顔をしていた。
「開店です」
いつもと変わらない、明るい少女の声と生気のない街。
けれどこの日の朝には、一つだけ違うものがあった。
「…やれやれ、人間の街一つ使ってお人形遊びとは、魔王サマも酔狂だよなぁ」
目の前の通りに見慣れない、尻尾の生えた男が立っていた。
「そうは思わねぇか? お嬢ちゃん」
その男は不意に振り返ると、少女へ向かって獰猛な笑みを浮かべた。それは冷酷で残忍な、ごく一般的な魔族の顔だった。
この男はある意味で、魔王よりも危険。そう思った少女が刺激しないようゆっくり後ずさると、その間へ割って入る人影があった。
「うちの娘に何か用かい?」
いつも不機嫌そうで、少女に話しかけもしなかった女が、今はその羽根で少女を庇うように立っていた。
「へぇ?」
相手の男はそれを見て、心底馬鹿にしたような顔をした。
少女と共に暮らす二人とは明らかに違う、それこそが一般的な魔族の反応だった。
しかし彼にとっては不幸な事に、魔王もまた一般的な魔族とは違っていた。
「おいおいおい、お前本気でそんなおままごとしてんのかぁ? あんなバケモ…」
ベシャ…!
そう言いかけた次の瞬間、尻尾の生えた男は街路のシミになった。
今回は確認もなかったという事は、やはり魔王はまだ少女たちの会話に聞き耳を立てていたのだろう。
「ふぅ…」
女は一つ息を吐いてから、少女を振り返った。
「…ほら、さっさと店の準備をするよ」
相変わらず不機嫌そうな顔だったけれど、それを見た少女の声は明るかった。
「はい、叔母さん」
そして少女は今日もまた、膨らまないパンを焼くのだった。
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救世主『あれが魔王の支配する街か』
従 者『はい。歴史が古い事以外、これと言って特徴のない田舎領地です。功を焦って魔族に手を出して返り討ち、ってところですかね』
救世主『魔王に立ち向かった者を悪く言うのは止めたまえ』
従 者『す、すみません。…幸い住人たちは無事のようですが、厄介ですね。これでは人質を取られているようなものです』
救世主?『人質? 何を言っているんだ。魔王に従う者たちは全て背教者だろう。皆殺しに決まっている』
従 者『え!? いや、しかし彼らは戦う力を持たないのですから…』
救世主?『魔王に屈しなければ、たとえ殺されても女神様の下へと招かれたであろうに』
従 者『ですが、それでは…』
救世主?『彼らはね、死ぬべきだったんだよ』
七年。三年。一週間。