降りかかる(3)
「へい、か?」
ようやく発せられたびっくりするほどか細い。濡れ羽色と言えば私の中でユースしかいない。だから陛下と尋ねたのだけれど、長身の人物は否定しないから当たっているみたいだ。
段々とはっきりとした視界を取り戻しつつあった私には、不機嫌な彼が映っていた。
ユースはぼろぼろな私を見下ろしているが、視線が合うと唇を歪めた。
「──何奴も此奴もまったく煩わしい」
無言で近づいてきたユースは私を押し潰そうとしていた戸棚を横に退かしてくれたので、幾分か呼吸が楽になった。
「テレーゼ、お前は顔を合わせる度に毎度何かに巻き込まれているな」
「そういう運命……なのでしょう」
痛みを堪えながら浅い呼吸を繰り返す。
「陛下こそ、もしかして…………わたしを探しに来てくださったのですか」
「たまたま通りかかっただけだ」
ぶっきらぼうな物言いに「嘘が下手ね」と心の中で言う。
「ええ、ですがわたしを見つけてくださったのは陛下ですから。勝手に探しに来てくださったのだとわたしは思うことにしますね」
「だから違うと言っているだろう」
私の頬に触れる寸前でピタリと止まる。ユースの視線が注がれるのは自身が伸ばした手のひらで、着けていた手袋は汚れていた。
(…………血?)
ユースは舌打ちをして脱いだ手袋を投げ捨てた。前髪をかき揚げ、不機嫌さを隠そうともせず、起き上がれない私の腰の部分を掴んだ。
「揺れるが我慢してくれ」
グッと持ち上げられ、素早く体勢を整えられる。気づいた時には横抱きにされ、ぶらんとしていた両腕は彼の首にかけられるよう動かされていた。
「…………陛下自ら運んでいただけるのですか」
てっきり他の者を呼んでくるのかと思っていた。
「何驚いた顔をしているんだ。こちらの方が効率がいいだろう」
「ええ、そう、そうなのですが」
すんなりと抱き上げられたので戸惑ってしまう。
常時であれば皇宮内でユースに抱き抱えられるなんて! と恥じて全力でお断りするが、今回ばかりは一歩も動けそうにないので甘えさせていただく。
監禁されてから気を失っている間にそこそこ時間は経っていたようで、真上の少しズレた辺りにあった太陽は傾き、廊下はオレンジ色に包まれ始めていた。
怪我をした私を気遣ってか揺れないようにしつつも駆け足に近い速度で廊下を進む。
途中、ヘンドリック様が合流してきた。
「陛下、侍女を捕らえて監禁場所を吐かせましたが…………」
「もう見つけた。愚か者はそのまま地下牢にでも放り込んでおけ」
抱えられた私が顔を上げると、ヘンドリック様は心底安堵したように肩をなでおろした。
「侯爵が喚き散らしそうですが」
「知らん。騒ぐなら侯爵も地下に連行しろ。追って沙汰するとだけ告げておけ」
「かしこまりました」
ヘンドリック様と別れ、通されたのは皇宮の中でも豪奢な一角だった。寝台が設置されているので誰かの寝室か、客室なのだろう。
怪我が痛まないようゆっくり寝台に降ろされた私の元に、これまた脅されたのか、尋常ではないほど冷や汗をかき、怯えた目をした神官が息絶え絶えに駆けつけてきた。
「お、お呼びでしょうか」
「治せ」
「と言いますと……」
「お前の目は節穴か。患者は目の前にいるだろう」
寝かされたボロボロな私と目が合うと神官は飛び跳ねた。
「し、失礼致しました! 直ちに!」
身に纏う装束から神殿の中でも高位の神官だ。皇宮には万が一に備え、聖女の扱う治癒に似た回復系統の祝福を行使できる者を常時待機させていると聞く。
たらたらと汗を流しながら私の手を取って祝福をかけ始めた神官様は敬うべき存在なのに、背中から注がれる威圧によってすっかり威厳が損なわれていた。
ぽわぽわと温かな光の粒が私を包んでいく。握られた手からも注ぎ込まれているのが分かるくらい、温かな力が私の中に入っていく。
みるみるうちに手の甲にあった切り傷が塞がり、頭痛も引いていく。
(……神官様が扱える祝福って凄いわ)
ものの数分で劇的に体調が良くなる。頬に血色が戻った私を見て、神官は睨むユースから逃げるように退出した。
神官が去った途端、ユースは私にとって残酷な宣告を下す。
「この件でよく理解した。テレーゼ、職を辞して伯爵邸に戻れ」
(はい?)
待ってほしい。どうしたらその選択になるのだろうか。過程を説明してほしい。
「履歴書を確認した。デューリング伯爵家であれば無理に働く必要はないだろう。管轄は違うが、伯爵や子息の仕事ぶりは耳に入ってくる。このままいけば順当に子息の方は出世できるはずだ。ならば尚更貴女が働く理由は存在しない」
言い切ったユースは清々しそうだが、こちらとしては次から次へと問題が発生して理解が追いつかない。
「すみません。陛下のご説明だけでは納得しかねます」
そうして懇願する。
「僭越ながら陛下は私が給金目当てで働いているとお思いのようですが、違います。ですのでこの職を取り上げられるのは陛下のご命令とあっても承諾しかねるのです」
まだまだ探らなければならないことが沢山ある。それに純粋にこの仕事が好きだった。陰湿な嫌がらせやどろどろとした争いもあるけれど、伯爵邸でのんびりするより身体を動かす方が性に合っているのだ。
なのでたったそれだけの理由で辞職を迫られるのは、皇帝と言えどいただけなかった。
「どうかご再考をお願いいたします」
深く頭を下げるとこれまで聞いてきた中でも特大のため息が聞こえてきた。
「なら、私の目の届く範囲にいろ」




