掛け違いの歯車
運命が決定的に狂ったのは何時だったのかと問われれば、イザベルは間違いなくこの時を選ぶだろう。
◆◆◆
それは冬の始まりのある日で、ユリウス達が前線に向かってから一ヶ月は経つ頃だった。その頃には戦場から送られてくる手紙が何よりの心の支えとなっていて、何度も何度も読み返し、神殿を訪れては二人の無事を祈る日々が日常化してきた矢先のこと。
(今日も雨ね)
どんよりとした雲。窓に打ちつける雨音は激しく、憂鬱な気分にさせる長雨がここ一週間ほど続いていた。
イザベルは雨が激しく打ちつける回廊を皇宮の侍女に案内されながら歩いていた。
今日は皇后の娘である皇女殿下の茶会に招待されたのだ。何度かお会いしたことがあるが、私的な茶会に招待されたのは初めてだった。
「ここのお部屋です」
「分かったわ。案内ありがとう」
案内人の侍女は頭を下げて来た道を戻っていった。
イザベルはドアをノックしようとしてふと足元がぬかるんでいることに気づく。
(…………ワイン?)
ドアと床の狭間から赤い液体が漏れ出ている。不思議に思い、ノックするが返答は返ってこない。こぼしたワインの後始末に忙しいのだろうか。
(中に入ってお手伝いした方がいいわよね)
「失礼致し……っ!」
そこには凄惨な光景が広がっていた。
誰が想像できるだろうか。ドアの先に虚ろで虚空を見つめるがらんどうな瞳に、投げ出された肢体の胸には墓標のように深々と大剣が突き刺ささり、絶命している帝国の高貴な姫がいるなどと。
「皇女でん……か?」
むせかえるほどの濃い血の匂い。胸からおびただしい量の血が流れたのか床は赤一色となり、血溜まりが広がっていた。
「殿下!」
(とにかく剣を抜かなければ……っ!)
その考えは剣を操る騎士の家系出身として迂闊だった。少し考えればわかることを混乱していたイザベルは忘れていたのだ。
重量のある大剣を両手で握って勢いよく抜くと。
「あっ」
刺さった刃が傷口に蓋をしていたようで一時的に止まっていた血が、引き抜いた途端勢いよく吹き出した。
正面から返り血を浴びたイザベルの髪やドレスは瞬く間に赤色に染まる。
失態を悟るが立ち止まってはいられない。
(出血を最優先で止めないと)
人を呼ぶ時間はない。
素人のイザベルからしても見るからに事切れているが、やれることはやらなければ。
患部を押さえられる布切れを探そうと剣を放り出そうとしたところで手が止まる。
彫られた飾りに目を見張った。
(この大剣は────)
「きゃぁぁぁぁぁあ!」
はっと振り返ると通りがかった侍女が真っ青な顔で腰を抜かしていた。
彼女が何を誤解しているのかすぐに分かったし、そう思ってしまう光景を作り出しているのも理解出来る。
今のイザベルは返り血を浴び全身血まみれ、しかも剣を突き刺すような体勢で固まっていたので、彼女からしたら今刺し殺したと考えるだろう。
「違っ」
「触らないでっ!」
明確な拒絶。敵意むき出しの様子に説得は絶望的だと悟る。その間にも悲鳴を聞いて続々と騎士や侍女達が駆けつけてくる。
「何事だ!」
「こ、こ、公爵令嬢が皇女殿下をっ」
侍女は血まみれで大剣を握ったままのイザベルを指した。
騎士たちはそんなイザベルの姿に瞠目し、後ろに広がる尊い姫の亡骸を目にした途端憎悪を向けてくる。
「貴様っ」
「誤解です!」
「うるさい黙れっ! 大罪を犯したこの者を拘束しろ!」
すぐさま取り押さえられる。
「私ではありませんっ! 信じてください! 私はただ剣を抜こうとしてこの血を浴びただけなのですっ! 殺したのは恐らく──」
「ええい! 罪人が口答えするなっ」
両手を拘束され、床に座らされたイザベルの背中を騎士は思いっきり蹴飛ばした。受け身を取れず、壁に強く頭を打ちつける。口の中も数カ所切ったのか鉄のような味が口腔内に広がった。
四面楚歌な状況が続き、続々と集まる人々に冷ややかな視線を浴びさせられる。
(今反論したところで多分誰にも信じてもらえない)
異変を感じた直後に誰か人を呼べばよかったのだ。一人で部屋に入った己の迂闊さに唇を噛む。
──とそこで連絡を受けた皇后、ビアンカが姿を現した。
「ジュリアナ!」
濡れるのも厭わず愛娘の骸を抱きしめたビアンカは唇をわななかせ、ズカズカと距離を詰める。
「貴様かっ! 貴様なのか! 貴族の身でよくもわたくしの娘をっ」
容赦なくイザベルの頬を扇で叩いた。硬い木材で作られた部分が頬に当たって皮膚が切り裂かれ、血がたれる。
「まさかお前、ランドール公爵家の娘か」
イザベルの銀髪を目にした途端目の色が変わる。憎悪に濁りきった瞳は明確に殺意を宿した。
ビアンカは唾を吐く。
「あやつでさえ殺したくてたまらないのに貴様までもっ! お前から先に殺してやるっ死ねっ」
「っ!」
取り乱したビアンカによって背中を何度も蹴られる。彼女の履くヒールが背中に突き刺さり、イザベルは意識を手放した。




